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点と点は足せない。そんな気がしてならない。

2024-03-21 17:56:42 | mathematics
ベクトルについて悩み始めたのは,はっきりとした自覚はなかったろうが,やはり習い始めた高校 2 年のときからだったかもしれない。

ベクトルなるものが満たすべき計算規則というのは,中学時代から馴染みのある文字式の計算規則とほとんど同じであるため,受け入れるのは簡単である。

ただし,ベクトル同士の積の計算は「内積」という特別な名前で呼ばれる,特別な計算規則として導入される。

そのことも,まあ,慣れるのにそれほど時間はかからない。

問題なのは,幾何学への応用である。

そもそもベクトルは平面上の 2 点を結ぶ矢印のようなものとして導入される。

そして「矢印」同士の和や,一本の矢印に実数を掛ける,といった計算を,幾何学的な解釈を頼りに取り決めていく。

そこまでの準備を済ませた後で,「矢印計算」を利用して平面図形の性質を調べる,という応用段階へと進めていく。

ところが,図形の性質の探求にベクトルを利用しようとすると,「位置ベクトル」なるものが出現するのである。

ベクトルというのは,向きと大きさ(長さ)を保ったまま,平面上のどこへでも好きに平行移動させられるものであったはずである。

それなのに,位置ベクトルというのは,平面上のどこか一点から生えた矢印のことを言う。

つまり,根無し草の気ままな放浪者が,地面に打ち込まれた杭に鎖でつながれるかのような劇的な「自由」の損失を伴うのである。

そこかしこに自由気ままに平行移動させられるはずのベクトルが鎖につながれてしまえば,それはもう我々の知っているかつてのベクトルではない。

囚われの身となった,言い換えれば地に足を付け,落ち着いた人生を歩むと決めた,かつてベクトルと呼ばれたその何かは,日本では「有向線分」と呼ばれている。

平面図形へのベクトルの応用においては,気ままな放浪者であるベクトルと,地元に縛り付けられた不自由な有向線分とを要領よく使い分けなければならない。

ひょっとすると,ベクトルの単元が苦手な学生の中には,無意識のうちに,同じ矢印でも動かせるベクトルと動かせない有向線分の区別があり,それらをごっちゃにして取り扱うことに対して無自覚的に大きな抵抗を感じてしまっているため,苦手意識を感じている者もいるのかもしれない。

このような,位置ベクトルもしくは有向線分と,自由なベクトルとの区別をはっきり付けた形でベクトルを取り扱えないのか,また,そうすべきではないのか,といった考えが,塾講師のアルバイトで高校生相手にベクトルを教えることになった,かれこれ 30 年近く前から私の中ですうーーーーーーっとくすぶり続けている。

位置ベクトルなるものは,ベクトルの成分なるものと密接に関りを持っている。それが根底にあって,成分表示されたベクトルを見て,それが点の座標なのか,ベクトルの成分なのか,訳が分からなくなる。

ここでも,学ぶ側と教える側との間で共通の了解事項が現れる。それは次のようなものである。

ベクトルの成分なるものは,そのベクトルを位置ベクトルと見たときに,その矢印が指す点の「座標」のことでもあり,その矢印を原点から解き放って自由に羽ばたかせたときの矢印そのものの属性として使える「成分」なるものでもあることだよ。

要するに,いちいち「座標」とか「成分」だとか区別せずにごっちゃにしてええんやで,という,実に緩い取り決めである。

これはちょうど動けないはずの位置ベクトルと,それが幽体離脱して自由に動き回れるようになった自由ベクトルの二重性と対応しているといえよう。

ところで,座標というのはあくまでも一点の位置情報を示した,いくつかの数の組に過ぎない。それに対し,ベクトルの成分というのは,ベクトルの演算規則に従って加工することができる。しかも,成分が分かっていると,ベクトルの大きさ(長さ)やベクトル同士の内積の値が簡単に求まるので,成分は大変便利である。

それでは,ベクトル同士の和だと思っていた成分同士の計算を,点の座標同士の間の計算だと解釈したらどんなことになるだろうか。

例えば,広いグラウンドに,私 K と友人 G が離れたところに立っていたとしよう。その我々 2 人を「点」と考えたとき,私たち二人を「足し合わせる」とは一体どんな操作であるべきだろうか?

どちらか一方を動かして他方のところまで移動させる?もしそうだとしたら,どちらをどちらに向かわせるか,何らかの取り決めが必要となろう。

離れ離れの点同士の「和」をイメージすることは,私にはとてもできそうにない。

状況をもっと単純化して,私 K 一人だけがポツンとグラウンドにいるところを思い浮かべてもよい。

「私」という「点」を「私」に足し合わせるとしたら,何をどうすればよいだろうか?

ベクトルの場合は,2 本の矢印の始点を揃えてできる三角形だか平行四辺形だかを利用して,それらを足し合わせた「和」を定めることができた。

ところが,平面上にポツンとシミのようにじっとしている「点」に,よその「点」を足し合わせる,といった操作に相応しいイメージが,私には何一つ思い浮かばない。

このようなわけで,昨日あたりから,私は次のような立場を取るに至った。


点と点は足せない。


ゆえに,足し算が良い感じに定義できる「ベクトル」なるものは,決して「点」ではない。


だがしかし,「座標」や「成分」といった,数値化された位置情報を利用すると,点と点を足し合わせることができる。

さらには掛け合わせることなんかもできちゃったりする。

平面にぽつぽつと点在する無個性な点たちに「座標付け」という作業によって「座標」という数値データを付与した途端,それらの数字データが独り歩きして思いもよらなかった世界を描き始め,無色だった世界が急に色づき始めるのである。

Euclid の原論では,座標の考えを全く使っていないはずはない。例えばある線分を 1:3 に内分する点は,その線分上においてのみであるが,ある意味,座標付けされたと見なして差し支えない。

Euclid の原論においては,そういった,考察の対象としている図形上においてのみ,そして必要に応じてのみ,「局所的な」座標を導入して,それらをやりくりして図形に関する何らかの性質が成り立つことをきっちり示していく,といった座標の使われ方をしているのであろうと推察される。私は原論をろくに読んだことがないので憶測以上の何ものでもないが,その無知識の状態のいま,勝手にそう信じ込んでいる。

Descartes は図形の性質の探求方法を原論のやり方のさらに先へと明確な自覚を持って推し進めたのだろう,と,やはり Descartes の『幾何学』を全く読んだことがない私は勝手にそう信じている。

Leibniz は Descartes が切り開いた道をさらに拡大,もしくは伸ばそうとしたのだろう,と勝手に想像している。

そして Leibniz が夢見た幾何学の新しい境地は何といっても 19 世紀全体を通じてとてつもない規模で花開いたように思われる。


私は中学時代,平面幾何の証明問題はどちらかというと好きな方であったように記憶しているが,実のところ,得意なわけではなく,むしろ今では苦手な気さえしている。

図形に線をあれこれ引いて考えているとぐちゃぐちゃになってきて訳が分からなくなっちゃうんだよねー。

平面幾何などが得意な人たちっていうのは,そういったぐちゃぐちゃな線の中から,これだ!と光るかぐや姫みたいなのを見事に見つけて問題を解く,画伯みたいな人たちなんだろうね。

そんな幾何学オンチでも,否,だからこそ,かな,「点と点を足せるか否か」などと,どちらかといえば哲学的な薫りの漂う問いを立ててあーだこーだと考える楽しみを味わうことができる,といった前向きなお話でした。
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