担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

正の量に関する南雲理論。

2024-08-28 19:26:48 | mathematics
南雲道夫氏本人は 1944 年に出版されたと記載しておられるので,実際そうだったのであろうが,全国誌上数学談話会のバックナンバーを見ると『正ノ量ト實數トニ関スル一考察』は昭和 17 年,すなわち 1942 年の 246 号に掲載されているという記録なので,私は 1942 年として扱うことにしている。

この辺の,論文が受理された日付と,雑誌に記載された年号と,実際に出版された年とのどれを参考文献リストにおいて採用すべきか,研究者としては基本中の基本の必須マナーな知識であろうが,私にはルールがよくわからない。

例えば Patrick Suppes 氏の処女論文と思しき ``A set of independent axioms for extensive quantities'' は Portugaltae Mathematica 誌の Vol. 10 に掲載されたが,それには 1954 と記されている。ところが,論文の表題には Received, November 1951 とあり,Suppes 氏の文献を公開している公式サイトではこちらの年号をこの論文の刊行年としているようだ。

話はズレるが,公刊された論文でタイトルや著者名に誤植があった場合,引用時にどうするか悩む。現在は各雑誌の公式サイトで論文の書誌情報が確認できるが,そっちが間違っているとか,論文のスペルミスがそのままになっているとかで,自分の参考文献リストを頼りに文献検索する読者のことを考えた場合は,公式サイトにある通りに記載するのが最も便利だろうとも思う。

この問題は案外深刻で,論文に綴りミスがあったり,論文や本のタイトルの引用が微妙に改変されたものになっているとかのズレがあると,いかなインターネット時代とはいえ,お目当ての文献をうまく掘り起こせないことがあって,要らぬ苦労を強いられた経験は少なくない。

とまあ愚痴はおいといて,と。

そういえば James Clerk Maxwell は,Clerk-Maxwell となっていることもあって,どうしたらいいのかなぁ,とか。

それは名前じゃねーよ!って部分まで名前であるかのように認識されて著者名に繰り込まれちゃっているとか。

とまあ文句はおいといて,と。

南雲 1942 理論は,加法が定義されたある体系 S というものを考え,S の任意の元 x, y, z に対して

x+y=y+x,

(x+y)+z=x+(y+z),

x+y≠x

が成り立つ,という要請をする。

最初の 2 つの加法の規則は,一番目の方が交換法則,二番目が結合法則であって,これらをみたすような,S×S から S への写像(演算)+ が定まっているとき,S は可換半群であるという。

そして三つ目の要請はこの可換半群 S に単位元というか零元が存在しないという要請になっている。これと関連して,さらに次の要請を課す。

x≠y であるとき,ある w∈S があって,x+w=y であるか,または x=y+w であるかのいずれかが成り立つ。

この公理は後の 1946 年に河田ゆき義氏が全国誌上数学談話会誌において『Euclid ノ比ノ拡張ニ就イテ』と題する論文において「一次元ノ公理」と呼んでいるものである。

南雲氏はこの公理に基づき,x+w=y であることを x<y と記すことにして,S に全順序 < を導入する。

さらに連続の公理として Dedekind の切断を導入する。その述べ方はやや独特である。

S を,いずれも空でない 2 つの集合 A,B に分かち,任意の x∈A と任意の y∈B に対して x<y が成り立つとすれば,ある s∈S で,任意の x∈A と任意の y∈B に対して x≦s かつ s≦y であるようなものがちょうど一つ存在する。

これのどこが独特なのかというと,x≦s かつ s≦y という s の特徴付けの部分である。これは高木貞治氏の『續數學雑談』の「無理數」で述べられた切断の公理そのままではない。なお,このような s は互いに素な 2 つの集合 A と B の両方に同時に属することはできないので,x≦s と s≦y の等号は同時に成立することはなく,実際には

任意の x∈A および任意の y∈B に対して x<s かつ s≦y となるか,

または

任意の x∈A および任意の y∈B に対して x≦s かつ s<y となるか,

のいずれかが成り立つ,ということになる。

ちなみに,山崎圭次郎氏は数学セミナー 1978 年 5 月号の「特集/私の数学観」に寄せた『量と数,移動と写像』と題する記事において,

なお,簡単のため,数は整数を出発点とし,量は対称性をもつものだけをとりあげる.
(余談ながら,対称性をもたない量を扱って,負数の意味やその演算の意味をあれこれ論ずる風潮は賛成しかねる.(以下略))

という意見を表明している。山崎圭次郎氏は当時初等幾何学に関する解説記事を連載されていたらしく,その記事をめぐって誰かと何かひと悶着あった様子がこの記事で匂わせているが,そちらの連載記事の方は未確認のため,詳細はわからない。

ただし,岩波の基礎数学講座において 1976 年に『環と加群』(後の 1990 年に岩波基礎数学選書として分冊をまとめて再販されている)の項を出版しており,その第 1 章 序説においてしょっぱなに「量と数」と題する節を設けて,量の加法と大小について簡潔に論じている。ただし,山崎氏は最初から零量を導入しているので,x+w=y であるとき x≦y であると定めている。

そしてさらに量の自然数倍を定義し,量に対する演算を媒介として自然数同士の積の結合法則や交換法則が得られることをさらりと述べ,除法,もしくは比へと進んでいく。それは量同士の比である。とはいえ,代数の入門書を企図した書物であるから,比を実数の範囲まで拡張する議論は省略している。

その後,「ベクトル量としての実数」として,数直線上での右向きの矢印が正の実数とすれば,逆向き,すなわち左向きの矢印が負の実数であると述べ,実数同士の和は平行移動の合成であるという。

ここでは,実数を量や実数自体に対する作用を引き起こすものという観点が導入されている。

南雲 1942 理論に話を戻すと,そこでは量の体系 S において自然な形で積の概念を導入しようという試みがなされている。

ただし,それは代数的な導入法というよりも解析的な導入法というべきであろうか,S 上の加法的な写像の全体 ℤ なるものを考え,それと S とが全順序可換半群として同型であることを示すことを最終目標とする。

ここで,加法的な写像というのは,任意の x∈S と任意の y∈S に対して λ(x+y)=λ(x)+λ(y) となるような,S の元を S の元に写す写像 λ のことである。

そもそもこんな加法的な写像なるものが存在するのか,私のような素人には不安なことこの上ないが,南雲氏はこのような写像の例として,x にその自然数 n 倍 n・x を対応させる写像があることをさらっと指摘する。

なお,このような写像に要求される加法性を表す等式は,古来有名な Cauchy の函数方程式と呼ばれるものであって,それは必ずしも単純な形をした写像とは限らないことが 20 世紀初頭あたりに判明しているが,南雲理論においてはいわば λ(x) は正の値しか持たないということに相当する要請を課していることとなり,そういった条件を課すと加法的な写像は連続であって,「正比例」に限ることが保証されるのである。

南雲論文をそのあたりまで読んだ一読者である私としては,加法的な写像全体がどのような構造を持っているのかを調べるのではなくて,S の元 u を固定し,S の他の元 x が u の何倍かを直接測りに行く「1 次元的測定」の理論構築へと進んでいきたい欲求が抑えられなかった。それはちょうど山崎圭次郎氏のプランと同じ路線といえよう。

初めに x の自然数(ここでは正の整数のこと) n 倍が自然と導入される。

そして,連続の公理を用いて x の 1/n 倍に相当する,方程式 n・y=x を満足する y∈S が存在することを示す。
ピッタリ等号が成り立つような解 y の存在をいうには Archimedes 性だけでは不十分であるような気がするのだが,そこらへんの追究まではしていない。(つまり,詰めは甘い。)

そうすると x の有理数 m/n 倍が定義できる。

このように S の元に掛けられる數を正の整数,正の有理数と拡張していき,さらには Dedekind の切断の力を借りて,正の実数倍へと到達する。

南雲理論との関連を言えば,S 上の加法的な写像の集合というのは,とどのつまり,S の元を実数倍する作用に他ならない,といったオチとなる。

だがそのようなシナリオは南雲氏が意図したストーリではないであろう。

私にとっては,1 次元的な量を実数で測るカラクリを,今回初めて自分の頭で真面目に考えた経験ができて満足である。

それは,S の中に先ほど述べたように「単位量(標準量)」u を一つ定め,任意の x∈S が u の何倍かであるかを正の実数 ξ を用いて測る,すなわち,x=ξ・u と表すという考え方であって,S を 1 次元ベクトル空間のように考え,任意の x を「基底」u の「1 次結合」で書き表せることを示すことに他ならない。

さらに別の言い方をすれば,基底 u を定めることで S 全体を正の実数で座標付けできることを示したに過ぎない。

実はこれはそもそも高木貞治氏が考えていた路線ではないかという気がしないでもない。

だが,『数の概念』においては自然数,おそらく正の整数ということであろうが,それから出発するのではなくて,初めから負も含めた整数全体を出発点にとるという立場へと移行している。それは山崎圭次郎氏と同じ観点に立っているといえよう。ただし,『数の概念』は 1949 年に出版されているので,影響云々の妄想をするなら,こちらが山崎氏に影響を与えた可能性はあるかもしれない。

なお,河田氏は南雲氏の考察した加法的な写像は「中野博士ノ Dilatator ノ特別ナ場合ニスギナイ」と指摘している。

ここで新しいキーワード,dilatator なるものが出てきてしまった。

ここにでてきた中野博士とは中野秀五郎氏のことで間違いないであろう。

急遽,中野氏の著作にいくつか当たってみたが,確かに dilatator なるものがほぼ必ずといってよいほど顔を出している。

南雲氏自体,加法的な写像全体なるものを持ち出してきたあたりがとても位相解析的というか,函数解析的な香りを漂わせているのだが,中野氏の著作に至ってはまさに函数解析のとある専門的な一部門のテキストや論文であって,それに取り組まなければならないのかと途方にくれているところである。

また,南雲氏が 1979 年に『数学セミナー』誌に寄せた「量と実数(下)」で,正の量の体系を負も扱えるように拡張する方法である「ベクトル化」なる手法を,慶應義塾大学の丸山徹氏から教示してもらったと一言断り書きを入れている。

件の丸山徹氏についても慌ててネットで検索してみたところ,数理経済学の大家で,変分法など,関数解析的な手法を駆使して多価写像に支配される微分不等式(というか,微分包含式?)などの解析で多くの業績を上げておられる方であった。

そんな中で,丸山氏が修士課程に在籍中,カリフォルニア大学に留学している最中の 1973 年に三田学会雑誌という,英語名が Keio journal of economics である雑誌に発表された『効用函数の論理的基礎』という論文があることが分かり,公式サイトにて無償でその全文が入手できるありがたさに喜びで打ち震えつつも,思わぬところで utility の話と繋がってしまったと恐れおののいているところである。

河田氏が,結局のところは Euclid の原論第 5 巻の比の理論の焼き直しに過ぎないといった捉え方をしているが,「例ヘバ確率論的量トカ経済的量トカヲ考ヘル場合ニハ,全然無用ノモノデハナイデアラウ」と釈明してもいて,ちょうど von Neumann と Morgenstern のゲームの理論が出た頃でもあり,量の測定に関する数学的理論が効用 (utility) の研究という形で経済学者を中心に盛んになった。それがこういう形で邂逅したということであろう。

ちなみに,数学セミナーの『量の問題をめぐって』の論客には竹内啓氏という数理経済学の碩学の一人もあって,どんな見解を述べているのか調べねばなるまい。竹内氏は 1979 年に『数の構造』と題する著作も出しておられ,そちらで数の体系を自然数辺りから始めてどのように実数まで拡張しているのか,議論の筋道を確認しておきたいとも思うのである。

あと,これはあまり建設的とは言えない,下世話な興味ではあるが,Dedekind の切断の述べ方,ないしは表現は案外いろいろな形式があるように思えるので,これまでに内外で膨大な数の実数論の入門的な叙述があって,それらすべてを調査するのは絶望的に無理なのだが,ぼちぼち調べてみたいと思っている。そんなことを思いついたのは南雲氏の述べ方が私の眼には独特に映ったことと,全く別件でパラパラと中身を見ていた Kleene 氏の Metamathematics の入門書の初めの方に実数論が書かれていたのに驚いたこととが契機となっている。

もう一つ,高木氏の『数の概念』の序で「カントルの条件」という言葉が出てくる。丸山氏の論文にも「カントールの条件」という言葉がある。きっと間違いなく両者は同一のものを指しているであろうから,そのことをきちんと確認する必要もある。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 南雲道夫『正ノ量ト實數トニ... | トップ | 数理論理:全称命題と存在命... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

mathematics」カテゴリの最新記事