異評 司馬遼太郎岩倉 博草の根出版会このアイテムの詳細を見る |
「司馬史観」なるものが、自由主義史観につながってる危険性をどれほど、社会が認識しているか、本書もまた、緻密に検討作業を行っている。
そもそも、歴史小説は歴史ではないので、作者の歴史観がはっきりと表れれる。藤沢周平や大岡昇平のように、歴史に翻弄される庶民に対するまなざしを持たない司馬遼太郎という著者の評価はうなずけるものである。一握りのエリートを除く大多数の民衆は愚かであり、相手にするに足りないし、関心もない司馬の冷たさ。
本書では、司馬作品の特徴として、天才主義、余談の多用、「明るい明治と暗い昭和」の二項対立史観、恣意的事実選択などをあげているが、最大の特徴として「昭和天皇に戦争責任がない」という天皇無答責論をあげている。この思いが、司馬をして昭和を描くことを不可能とさせた。
『坂の上の雲』における天才主義と恣意的事実選択を検討も詳細になされている。正岡子規、秋山好古、昌之兄弟に関する記述における事実の捻じ曲げも指摘している。明るい明治を描くために、「あえぐほどの重税、民権軽視、足尾鉱毒、女工哀史、小作争議」などは軽視した。そして、明るい明治を描くために、歴史からの恣意的事実選択を行い、歴史のねつ造も行っている。ただし、それはあくまでも、大衆を喜ばせる単なるエンターテイメントとしての読み物との理解の段階で済めば良いのだが、いつしか、「司馬史観」と称される歴史観としての誤解を招くことになる。そして、それに依拠する自由主義史観の歴史教科書も、教科書ではなく、ある意図を持った読み物に過ぎないのである。
司馬は、日露戦争までは日本はまともだと考えたかった。昭和は、軍部による「狂い」の生じた時代であった。しかし、歴史をみれば、「狂い」は、日清、日露戦争においても既に生じていたのであった。
「軍の狂い」と「国民の狂い」に関して、本書では、資料に基づいて検証している。統制のとれた理性的な軍隊(軍律厳しい日本の軍隊)という司馬によるフィクションは、この戦争の時の虐殺、略奪行為の存在により、打ち砕かれる。台湾の反乱軍に対する残虐行為も、司馬は無視する。彼にとっては、日清、日露戦争は、祖国防衛のための戦争であり、侵略戦争ではなかった。朝鮮も中国も劣った国ゆえ、日本によって近代化が導かれて当然という考えであった。