かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

色づかない涸沢

2024-09-24 14:52:40 | 日記

久しぶりに石垣や沖縄の知り合いと9月末の山を歩くことを決め、みんなの希望で「涸沢カール」と「蝶ヶ岳」を計画した。

錦秋の涸沢カールを楽しむには、涸沢ヒュッテや涸沢小屋に泊まるかキャンプをするしかないが、高齢者ばかりのグループではテントは重いので、小屋泊まりをしようと計画していたが、両小屋とも1か月前からの電話予約となっていて、午前8時からの予約スタート時から全く電話がつながらない状態で、あろうことかホームページの予約状況欄は、ものの1時間ほどで「満室」となっていた。

おそらく、宿泊枠の半分以上は旅行会社のツアー客で占められていて、一般客の枠は狭い状態ではなっかと推測される。涸沢ヒュッテはテントやシュラフのレンタルもやっていたが、そこも「満席」となっていた。

過去は涸沢の紅葉といえば9月半ばから10月10日ごろが「旬」とされていたので、小屋の予約も9月の半ばから10月第二週まで満室状態である。

「秋の涸沢は遠くなったな・・」という印象である。そういえば、小屋の宿泊代は2018年ころ9000円(二食付き)くらいだったと記憶しているが、今年は15000円と大幅に値上がりしているが、この程度の値上がりは予約状況にブレーキがかからないと思われ、「旬」の山小屋の宿泊料金は、今後ますます上昇していくものと推測される。何やらインバウンド需要で跳ね上がっている首都圏のビジネスホテルと同じ傾向を示しているみたいだ。

で、その「旬」の紅葉であるが、下記の一番上の写真は、今朝の涸沢ヒュッテのライブカメラからお借りしたものだが、まったく錦秋の気配が見受けられない。朝の気温はようやく紅葉スイッチといわれる8℃を切ってきたようであるが、計画していた9月末でもほとんど変化がないと思われ、「ああ、予約できなくてよかった・・」と自己合理化で気分を落ち着かせている次第である。

ちなみに、その下の写真は2012年の10月7日の撮影。この時は「10年に一度の錦秋」とささやかれた。

一番下のタイムプラス動画は、たしか2018年の第2回松本マラソン参加を兼ねて沖縄のランナーたちと9月末に涸沢ヒュッテに泊まった時の夕暮れの動画。やや暗いが、ナナカマドは赤く染まりつつあり、それなりに紅葉していて落胆はなかった記憶があり、みんなも満足していた様子だった。

オイラの予想では、今年の涸沢は、10月10日過ぎが「旬」ではないかと。地球温暖化で、ますます涸沢の紅葉は繰り下げられていく気配なのだ。だとすれば、今年の学習を経て、来年は10月10日過ぎにもう一度出かけてみようか・・小屋代がどれくらい上がるか・・もう泊まれないかもしれないが・・。

 

 

 

 

2012年10月7日

 

2018年9月29日 タイムラプス(夕刻) 速度を落として閲覧してね

コメント

なつかしき昭和の山紀行「雨の徳本峠」

2024-09-22 19:30:45 | 日記

昨夜20時過ぎに配達されたヤマケイ文庫「深田久弥選集 百名山紀行」(上・下巻)を手に取り、枕元で下巻に掲載されていた「雨の徳本峠」をまるでわが人生の記憶を手繰り寄せるかのように読む。

「そうか、そうだったのか・・」と忘れていた部分がよみがえり合点がいく。

概要をメモると以下の通り、

① あの写真に写っていた横尾山荘の家族4人が上高地からの下山ルートに「徳本峠越え」を選択する。

② 横尾から蝶ヶ岳~常念を計画したが、雨のため引き返すが、妻や子供たちの意見を尊重し「徳本峠越え」を選択したこと。(実は、上高地からのバス代が100円不足していたという、切実な理由があった。あの頃は、カード払いなどなく、現金本位の暮らしだった。もちろん上高地に郵便局はなかったろう。)

③ 二日目に宿泊した徳澤の宿を出発したのは、10時ころと遅かった。

④ 徳本峠に着いたのは午後1時過ぎである。(現在の地図だと、峠から島々集落までの標準歩行時間は6時間30分である。8月下旬の日没は18時30分前だから、後半の日没が予想される。)

⑤ 幸いにも島々谷沿いのルートはギリギリ日没までに通過したものと思われ、今でいう島々谷林道の現れる二股に到着したのは夕方だったと記している。

⑥ ただし、現在の林道は当時は狭隘なトロッコ道で、一部腐食した枕木などにおびえながら家族は島々集落までの6キロの道を進む羽目になった。

⑦ 持っていた懐中電灯は途中で球が切れて、家族は暗黒の道をたどる羽目に陥るが、幸い危険な橋を渡り終えており、ほどなく島々集落の灯が見えて事なきを得た。

⑧ 当時小学三年の次男坊は翌朝足が立たない状態で、父親がおぶって帰宅したとある。家族のダメージは相当なものだったろう。

 

オイラの記憶では、家族が島々谷沿いの山道で日没にあい、照明器具がなかったために苦労したと思っていたが、今の林道に当たる地点で日没にあい、懐中電灯を持っていたが途中で電球が切れて、それもトロッコ道だったため難儀したというのが、事実であった。

「そうか、そうだったのか・・」

深田家族は、大人並みに健脚であったこと、照明器具はちゃんと持参して途中まで利用できたこといたこと、あるいはトロッコという金属レールがあったため暗闇でも道に迷わずにすんだことなど、家族が遭難しないで済んだ理由も明らかになったが、少し遅れていたら、笑い話では済まなかったかもしれない。暗黒の沢筋で照明を失ったら、もう動ける状態ではなく、ビバークするにしても雨が降り続いていたといい、8月とはいえ相当つらい思いをしたものと思われる。

深田さんの家族団らん登山を描いた「雨の徳本峠」、ほのぼのとして読んだが、実はかなりきわどかったのではないかと、勝手に心配させられた。

で、この70年前の昭和31年の紀行文、オイラには昭和のなつかしさがふんぷんするのであって、「深田文学をもっと読んで、あの純粋無垢な昭和という記憶世界にタイムスリップしようか」なんて夢見心地なのである。

そのなつかしさの一端を記せば・・

① 新宿発松本行きの夜行列車、「臨時準急」などが運行されていた。(オイラも満員電車の床に寝た記憶あり)

② ヤシカの二眼レフの写真機 

③ 懐中電灯と「球が切れる」ということ

④ 「バス賃足らぬ組」の徳本峠越え

 

 

 

 

コメント

いつか読んでいた深田家族の徳本峠越えの顛末

2024-09-21 18:54:22 | 日記

月末は、上高地から12年ぶりに徳本峠に登る予定である。実は石垣島の仲間らと涸沢と蝶ヶ岳の山小屋に泊まる計画を立てていたのだが、涸沢がどうしても予約できなかったので、徳本峠から蝶ヶ岳を目指すこととしたのだ。

今からは考えられないことだが、2012年10月、当時のランナー仲間K君と往年のクラッシックルートである「徳本峠越え」をやろうということで、早朝に島々の集落をスタートし、片道8時間のコースを島々谷を辿って昼過ぎには徳本峠(2140m)に到着して、それぞれのテントを張ってから、往復7時間の霞沢岳(2645.8m)を登ってきて、峠に戻っ頃にはすっかり暗くなっていた強烈な思い出がある。幸い、まだ小屋が営業をしていて、二人で乾杯した缶ビールの味は格別だった。

そんな強烈な思い出の徳本峠だから、深田久弥さんの何かの紀行文で、深田さん家族がいつだったか上高地に行ったときに徳本峠から島々へのルートを下ったのだが、途中で日没になってひどい目にあったことを書いていたことを思い出し、またこの顛末を今になって読みたくなった。

ちなみに、下記の写真は、2021年ヤマケイ新年号「深田久弥と『日本百名山』」に掲載された深田一家の昭和30年8月横尾山荘での写真である。

この写真と説明書きを読んで、かつてオイラが読んだ深田家族の徳本峠越えの一件はこの時期のことだったのだと分かったが、どういうわけかいつか読んだあの時の紀行文はオイラが所有している「深田久弥・山の文学全集」(朝日新聞社)でみつからなかった。調べてみたが、どうやらこの全集3巻「わが愛する山」に掲載されていたようだが、この第3巻は1990年代後半に後輩のMくんに貸したままそのままになっていたことを思い出した。オイラが、深田家族の徳本峠越えに難儀したことを読んだのは、どうやらこの巻に掲載されている「雨の徳本峠」という文章だった可能性が大である。

どうしても、もう一度その紀行文が読みたくてヤマケイ文庫に掲載されているというので、きのうAmazonに注文したら、今夜には届けられるという。届いたらゆっくり読み直して眠ろう。

思い出の徳本峠。あのウエストンも高村光太郎夫妻も芥川龍之介も深田久弥一家も越えた歴史の峠。再訪の折に、オイラは何を感じることだろう。

雨のため常念山脈縦走をあきらめて横尾から徳本峠越えで島々に下った深田一家の写真は貴重ですね。

昭和31年8月だという。久弥53歳、妻志げ子〇〇歳、長男森太郎12・3歳、次男沢二7歳かな?まだ小学低学年の沢二くんは真っ暗で長い徳本峠越えルートににさぞや音を上げただろうに・・・

コメント

これからの富士山の歩き方

2024-09-20 19:06:51 | 日記

富士山後遺症は思ったほど長引き、いまだ軽い咳とたんが少し続いている。ただし、体力は回復し始めて来週末からの北アルプストレッキングを念頭に、昨日から1時間半ばかりの速足散歩をはじめた。階段の上り下りでも膝の痛みはあまり感ぜず、あの長い須走の砂走のダメージはそれほどではなかったようで安心している。

20024年9月の須走登山ルート登頂を機に、富士山開山中の山頂登山はひとまず卒業ということで、約15年にわたった、オイラだけの富士登山物語は終わりのページを閉じたが、ある物語の後日譚というか続編をもう少しばかり書き続けていこうという気になっている。

そのキイワードは、「富士山開山期間外編」とでもいおうか、あのごった返す登山客のいない期間に富士山五合目以下の緑に満ちた山域を静かに歩こうという構想である。

5月~6月の新緑の中でのバードウオッチングと9月中旬~11月は紅葉とキノコウォッチング(キノコ狩りには入山鑑札が必要とか)など楽しめそうで、五合目付近には吉田口「佐藤小屋」や精進湖口「奥庭荘」、須走口「菊屋」といった魅力的な山小屋が営業していて、お気に入りの精進湖付近には民宿やテント場もあり精進湖ルートや周辺の山域の起点になってくれそうだ。

そんなことで、まだまだ富士山とお別れする必要なんてないし、実は歩きながらオイラの骨の埋め場所をも探しているかもしれない。(樹海での〇死なんて次元の話ではありません。単純に、富士を眺めて眠りたいのです。)

 

 

 

 

 

富士山須走2300m地点からの影富士(2024.9.5)と夜明け(2024.9.6)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

抗原検査キットのお値段

2024-09-14 15:45:10 | 日記

富士登山から帰って1週間、日曜から38度台の熱で3日寝込み水曜日には回復したかと思われたが、また熱がぶり返したが、昨日今日とやっと平熱に落ち着いた。

結局、富士登山はオイラに1週間の負債を負わせた。

先週の火曜日だったか、街の薬剤師常駐ドラッグストアでコロナの抗原検査キットを1,950円で購入し、さっそく自己検査を行い「陰性」となったので安心したが、水曜日になっても熱が引かないので、さては.インフルだったかと心配になった。

街のドラッグストアでは、今はどこでもインフルの抗原検査キットは置いていない、とのことであったんで、ネットを開いたらコロナとインフルが同時に検査できる抗原検査キットが、ひと箱750円で売り出されていたので、試しにと二箱購入したら、二日後の金曜日には届いた。ただし、もう熱が引いたので、これをまだ使ってはいないが、初めからネットで購入したほうが、インフルも検査できるし値段も半額以下なので「失敗したか」と思った。

ただ、このネット購入の検査キット、「研究用」の表示がなされていた。「医療用」と「研究用」との違いが判らなかったので、調べたら「医療用」は「厚生労働省」の承認があるもので、「研究用」はそれがない製品なのだちう。厚生労働省は、したがってこの「高価な」、「医療用」を使用するように指示してる。それならば、国は、なぜ「安価な」、「研究用」がネットで販売することを許しているのか。

ネットの評判を見るとなかなかのもので、「詐欺でだまされた」というものはないので、この「研究用」それなりに有用なのではあるまいか。

今度高熱が出たら試してみよう・・・・・?

で、その「安価な研究用」の製品、今日Amazonでのぞいたら、なんと同じ製品らしいのだが5個セットで999円で売り出されていた・・・・・

ますます、医薬製品に不振の念が生じてきた・・・・り患者の弱みに付け込んで、だれがもうかっているのかと・・

それにこのキット、輸入者は日本の薬品会社なのだが、どこの国にのどこの製薬会社が作っているのか・・不明なのである。

 

 

 

 

 

コメント