明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

かなり根深い…

2008-08-10 15:35:18 | Weblog
今、整体の帰りの電車。
今日から3日間集中治療。
このブログタイトルも意味合いが変わってきた今日この頃…。
本当に明日は元気になれるかしら?

一昨日、良くなったかのように見えたが、それではしゃぎすぎたのか(嬉しくて家で踊ったり)、昨日の朝は地獄を見たよ…
6時に起きたのに8時くらいまで動けない。
産まれたての子牛のように四つん這いで立ち上がろうと試みたが、それもできず、這いずって洗濯。(前日にできなかったのでどうしても洗濯したかった)

痛みは変化し、腰の痛みに加え、右足の痺れと激痛。
寝ても座っても電気が走ったような痺れで重くて痛くて悶えるのみ。

飲まないことにしていた病院でもらった痛み止めを飲んで、ようやく立ち上がれるようになった。
が、さすがに洗濯を干すのは無理で、手に洗濯を持ったまま立ち上がることができずにいる私を見て、夫が干してくれた。
ああ、情けない。

私が患ってから夫の働きぶりはすごい。
洗いもの、洗濯、掃除機、布団の上げ下ろし、お米を洗う…。何でもやってくれるのだ。
彼も仕事がピークなのに、お弁当も作ってあげられない自分がただただ情けない。

痛み止めを飲んで、こんな状態で授業へ。それも4時間!
なんとかやりきった。

帰るとFAXが壊れているのでまた自転車で実家へ走って。
(原稿のチェック)
夜はまた痛くて眠れず。

今朝は歩くのも右足は引きずり、階段は手すり必須で、なんとか整体へ。
2時間やってもらって痛みは半分。
右足の痺れがとれたのでずいぶん楽だ。
なんとか3日間で治したい。
しかし、「絶対安静」と言われるのだが、どうすりゃいいのか。
「ゴロゴロしといてください」と言われてかなり困った。
ゴロゴロって、何すりゃいいのか?
なんか不安だなぁ。原稿も残ってるし。

明日はMRIで再検査。
13日から旅行なのでそれまでに動けるようになりたい。
旅行…。
今回は暴れずに、ゆっくり温泉つかって酒飲んで、慰安旅行にしとこう。

皆さんも体はお大事に!

私の音楽ルーツ

2008-08-08 23:02:33 | 想い
さっき、休憩でビールを飲みながらテレビを観ようとつけたら、ミュージックステーションにサザンが出ていた。

私はサザンって、特別好きでもないし、嫌いでもない。
いい曲はいっぱいあると思うし、桑田さんの声も好きだ。
日本が誇れるアーティストであるとも思う。

何気に観ていたら、みんなが選んだサザンの好きな歌ベスト20みたいなのをやっていて、懐かしい曲がいろいろと流れた。
それでわかったのだけど、私は1978年(サザンのデビュー)~1980年代前半の曲が好きだ。
「好き」というか、曲を聴いた瞬間に何かを感じる。
yaya(あの時を忘れない)、いとしのエリー、勝手にシンドバッド、海、栞のテーマ、MISS BRAND-NEW DAYなどなど。
なんでだろうと考えたら単純な話。
ちゃんとサザンを聴いていたのが、小学生の頃だけだからだ。
やはり、10歳前後に聴いていた曲というのは、自分の身体にしっかり染み付いている、というのか、なんだか切れないもののような気がする。

それに、小学生にとったら、やっぱり「勝手にシンドバッド」なんて、衝撃だったし。
この狂ったように歌っている人は一体何なんだろうかとも思った。
そうかと思えば、しっとりとした曲も歌う。
そのギャップというか、今から思えば音楽性の幅の広さが、あの頃の私には印象深かった。

ちなみに、1980年代後半~1990年代の流行の音楽を私はほとんど知らない。
自分の人生で、「音楽の鎖国」と言っている時代だ。
日本人の9割が耳にしたことがあるような音楽も聴いたことすらない。
かなりマニアックに生きた時代だった。
(ブルースオンリー!)

今日、懐かしい「海」や「栞のテーマ」なんかを聴いていて、小学生の頃の自分を思い出した。
たぶん、1980年以降に生まれた人にはわからない感覚だと思うし、1960年代生まれの人ともまた違うかなと思う。

私が小学生の頃は、ようやく「レンタルレコード」というのが小さな町にもでき始めたのだが、「当日返却」で確か350円くらいはしたと思う。
小学生の私は、お小遣いやお年玉で月に1枚借りるのがやっとだった。
お姉ちゃんやお兄ちゃんがいるような友達はかなり重宝されていて、そういう年上のお金をもっている人が借りて録音したテープを借りてダビングする、それが一番手っ取り早く音楽を手に入れる方法だった。
ダビングのダビングのダビングなんてことはざらにあり、ノイズでいっぱいのカセットテープを必死に聴いていた。

それも、お金がないので、輸入物の100円テープ。(すぐ伸びる)
マクセルやソニーのテープは大事なミュージシャンにしか使わなかった。
それでも小学生の頃に200本くらいはあったと思う。
お年玉も親からの誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、すべてをレコードとカセットテープに費やしていた。
(1台でダビングができるカセットレコーダーが発売されたのもこの頃。それまでは友達とカセットレコーダーを持ち寄り、息を潜めてレコーダーからレコーダーへ音を移していた)

私の武勇伝だが、小学生の時はオフコースがあまりにも好きすぎて、書初めの授業で「小田和正」と書いて怒られたということもあった。
誕生日プレゼントにオフコースの「はじめの一歩」という自叙伝を買ってもらったという記憶がある。
それくらいオフコースが好きだった。

オフコースはブルースじゃないが、ある意味、この行動がブルースである(笑)。

でも、今の自分の音楽のルーツをたどれば、いくつかの要素がある。
まずは小学5年生の時に初めて聴いた佐野元春。
時代は「ニューミュージック」だったのだけど(今の人にわかるのかしら?)、佐野元春はその中で異色だったし、かなりの衝撃だった。
初期の頃はジャズの要素やロックの要素を十分に取り入れていたし、何よりあの声に惹かれた。

それから、テレビで見たYMO。
なんだこの音は、と思った(シンセサイザーという楽器を初めて知った)。
そして、坂本龍一と一緒に忌野清志郎がやっていた、「いけないルージュマジック」。
今でいうビジュアル系?!
男が化粧して、キスしてる。
あれはもう子供ながらに衝撃映像だった。
「ベイベー、oh ベイベー いけない、ルージュマジック♪」
あのリズムが自分の中に染み付いて離れなかった。
(今思えば、R&Bなんだなぁ)

そして、中学生で知ったビートルズ。
友達の友達のお姉ちゃんの友達が音源というカセットテープでもダビングしてもらって、あの頃にほとんど全てのアルバムを聴いた。
今思えば、清志郎やビートルズに惹かれていたのも、やはり彼らのルーツが黒人音楽にあるからなんだろうなぁと思う。
その頃はそんなこと全く知らなかったけれど。

中学の頃、熱狂的だったのは、あとは尾崎豊。
今でも忘れない。今はなき大阪球場での伝説のライブ。
今から23年前のことだ。14歳の時、徹夜して並んで行った。(2100円だった)
何気なく読んでいた音楽雑誌に紹介されていた尾崎豊。
デビューアルバムを発売したという話が書かれてあって、その小さなインタビュー記事を読んだ瞬間に、なぜだか「ああ、これだ」と思い、次の日にお年玉を持って高槻のレコード屋に走った。
まだ、誰も尾崎豊という存在を知らなかったときだ。

夫とも話していたのだが、夫はリアルタイムでの尾崎を知らない。
時代背景も違う。
校内暴力と偏差値教育(今よりずっと)が共存していたあの時代を知らない人と、それをリアルタイムで感じている者とは、尾崎の聴き方は全く違うと思う。
まさに、救世主だった。あの頃はカリスマなんていう洒落た言葉もなく、本当に救世主だった。ある種類の人間にとっては。
単純に自由になりたかった。たぶん、尾崎もそうだ。

私はあんなに好きだった尾崎を3枚目のアルバムまでしか聴いたことがない。(本当のファンではないのかも)
夫がいくつか曲名を挙げたけれど、それも知らなかった。
でも、確かにあの頃の、社会や自分の存在に疑問を感じて生きていた私には、尾崎は救世主だった。
「自由になりたくないかい?」
この問いかけの意味が、実感としてわかる世代だ。

尾崎の思い出でいえば、中野と仲良くなったきっかけも尾崎だった。
中3のとき、同じクラス、隣の席になった。
私が下敷きに尾崎の切抜きを挟んでいるのを見て、中野が聞いてきたのだ。
「尾崎、好きなん?いいよね」

※あの頃は透明の下敷きに切抜きを挟むのが流行っていた。
変わった友達で、石坂浩二とマンガの三国志の「諸葛孔明」を挟んでいた人がいた。なんちゅう趣味だ。

今別に中野と尾崎の話なんかしないが、20年来の友情は続いている。

この間、夫とブルーハーツの話もしていたのだけど、まさに私の高校時代がバンドブームで。
ブルーハーツに夢中になった。
でもまたこれも、ルーツはブルースなんだなぁ。

そして、本当にブルースに近づいたのは、高校のとき。
もんちゃんが「憂歌団」と「泉谷しげる」を教えてくれた。
憂歌団は、まさにブルースだったし、あの頃の泉谷はロックだった。
どちらも本当にカッコよかった。
一緒にライブに行ったりして、そのうち私のほうがのめりこんだ(笑)。

今でもあの頃の泉谷のライブをもう一度観たいとよく思う。
バックバンドがまたすごくて、ドラムは村上“ポン太”秀一、ギターはRCサクセションのチャボこと仲井戸麗市など、そうそうたるメンバーだった。
泉谷はめちゃくちゃで、ものすごくワイルドでカッコよかった。
(今は好々爺になってるけど・笑)

憂歌団は解散するまで何度もライブは行ったけど、いつもよかったなぁ。
勘太郎のギターも最高で。
客はみんな「あほー!」って怒鳴ってて。
20年変わらずやり続けた曲が重みがあって。

こうやって思い返せば、いつも音楽が共にあった。
私は声が耳障りだし(アニメ声?)、楽器も根性なしで何もできなかったから、音楽の道には進まなかったけれど、自分の好きな音楽を「聴く」という情熱はかなりのものだったと思う。音楽を「やらない」人間としては稀に見るほど。

夫もそうだが、1980年代生まれ以降の人を見ていると、「音楽」というものに対する概念が全然違うような気がする。
それは、「必死さ」というのか。
(あくまでも聴くという意味での。必死に音楽をやっている人はもちろんいる)
ダビングのダビングのダビングの、音源が誰かわからない人のカセットテープを必死に聴いていたという時代をもっていない。
レコードをターンテーブルにのせ、スプレーをかけて誇りをブラシで取り、そっと針を落として聴いていたという経験もない。
それが悪いという意味ではもちろんない。(苦労したもんがいいということじゃない)
単純に、違うんだなぁという感慨。

今や音楽は何でもダウンロードでき、youtubeで映像までタダで見られる。
そういうことが当たり前と思って生きてきた人とはやはり何かが違うような気がする。
音楽を「消費」できない自分が未だにいる。
(同じ世代でも音楽は消費するものと思っている人もいるけれど)

そして、また、私より前の時代の人とも違う。
憧れのミュージシャンが言うのだ。
「僕が学生の頃は、ラジオから流れてくるビートルズを必死に聴いていました」と。
その状況に私は憧れた(笑)。

「かおりって、ほんまに(音楽の幅が)狭いよなぁ」と夫が言う。
いや、私も昔は広かったのよ。
それこそ、周りの友達よりもずっと。
いろんな音楽を聴いてきて、途中で知ってしまったのだ。
自分が求めている音楽が何なのか。
それを知ってしまったら、後はもう何でもよくなってしまったというだけのこと。
極端な話、限られた人生なのに、好きかわからない音楽を100曲聴くよりも、大好きな音楽を1曲聴いて死にたい。
そういう感じだ。

この間、ファッツボトルを聴いていても思ったのだけど、
1970年代に青春時代を過ごしたかった。
今が40代後半くらいだったらどんなにいいかと。
ウエストロードとか、サウスとか、ブレイクダウン、ソーバッド・レビュー、めんたんぴん、スターキング・デリシャスなんかをリアルタイムで見られた人というのは本当に羨ましい。
8・8ロックデイを生で見たかった!!

まあ、そう言っても仕方ないので、私は今ある音楽を聴くだけ。

今日、偶然、サザンの懐かしい曲を聴いていたら、こんなことを考えた。
長々とすみません。

ゴッドハンド!

2008-08-08 22:08:13 | 生活
さっき、久しぶりに手をつかず、自分の足腰の力だけで立ち上がった。
およそ1ヶ月ぶりのことで、なんだかそれだけで嬉しかった。
なんだかクララ気分♪

今日、整体の先生のところへ行ってきたのだ。
それは、治療ではなく、仕事で。
次はリンパマッサージの教材本を作るということで、今日は取材。
これは文章だけでなくイラストも必要なので、ゆうちゃんを推薦したら、是非にということだったので、一緒に行ってきた。

先生のお友達をモデルにして、リンパマッサージをしているところを写真に撮り、説明を聞いていく。
これを私が文章にして、ゆうちゃんがイラストにする。
「いつか一緒に何か作品を創りたいね」と昔から言ってきたけれど、まさか最初の作品が「リンパマッサージ教材本」とは(笑)。

とはいえ、一緒に仕事ができることは嬉しい。
昔からずっと思ってきた。
自分も友達も何かのエキスパートになり、いずれ一緒に仕事をする。
あの頃はコラボレーションなんて言葉は流行ってなかったけれど、まあ、そういう感じだ。
その第一弾ということで、充実感もあった。

取材が終わって帰りに、「腰はどう?」と聞かれたので、現状を伝えたら、座ったままで足に手をやり、いくつかのツボを触る(これは先生独自の技法で、押すのではなく、本当に触れるだけ)。
それで、ほんの5分か10分くらいだったのだけど、嘘みたいに治った。
もちろん完治ではない。
でも、最初の痛みを10とすれば、4くらい。
曲げられなかった腰が軽くお辞儀をするくらいまでは曲げられるようになった。

本当にすごい。
やはりゴッドハンド!!

気になる方はぜひこちらを⇒http://www.noggi.com/index.html

今日はその後、ゆうちゃんとお昼ごはんを食べ、また夕方から別の取材。
結構ハードな1日だったのだが、夜になっても痛みはほとんどない。
なんだか魔法みたいだ。
それでさっき、手をつかずに立ち上がった自分に感動したのだ。

は~、健康ってやっぱりいいな。
なんだか痛みから解放されただけで、気持ちも明るい。
この1ヶ月、感情のほとんどが「痛い」だったのだから、楽になるのも当たり前。
あと2回ほど本格的に治療してもらうのだが、これで完治できそうだ。

人の出会いってすごいな。
もし先生と出会っていなかったら、ずっとこの痛みと付き合っていたかもしれないのに、こんなふうにあっという間に治るなんて。

仕事は今日も忙しい。
夕方帰ってからもずっと仕事で、さっき少しビールを飲んだところ。
でも、どういうわけか、最近はあまりお酒がおいしくない。
やっぱり体は弱ってるんだろうな。
まだこれから1時か2時まで仕事だ。
毎日この繰り返し。

腰痛をきっかけに、仕事を断って本当によかったと思う。
8月後半は少しまともな生活を取り戻そう。

いろんな仕事があるんだな。

2008-08-08 00:01:40 | 仕事
八尾にある、機械製造の中小企業を取材。
お菓子とかクスリとか、世の中にあるいろんな紙箱。
それを造る抜型を造る機械を造っている。

紙箱の展開図みたいなのを機械がレーザーで切っていくのを見て、
なるほどなぁと思った。
何気なく使っているモノたちには、なんと多くの人が関わっていることか。

また、働いている人たちの教育がきちんとなされている会社で、
明るく挨拶してくれるのが気持ちいい。

こうやって何十社も取材していると、
「この人個人が感じがいい」のか、
「会社の教育がきちんとしている」のか、
だいたいわかってくる。

今日は最初に声をかけた人の対応で、「ああ、この会社はきちんとしてるな」
とわかった。
話を聞いてみれば、やはり「挨拶だけは厳しく指導している」という。

お客さんが入ってきたときに、自分とは関係なければ、
しらっとしている会社って、意外にたくさんあるのだ。
あれって本当に感じが悪い。
受付の女性だけが慌てて出てきて。

今日はみんなが「こんにちは!」と声をかけてくれるから、
最初からいい会社だなぁと思っていたら、
インタビューが終わった後、工場見学をさせてくれた。
小学生に戻った気分。

レーザーで抜型を加工していく機械や、
その機械を造る部品を組み立てる様子を見ていて、
これはやっぱり「男」の仕事だなぁと思った。
個人差はもちろんあるだろうが、基本的に女性には魅力のない仕事だ。
プラモデルを作るのは男ばっかりっていうのと同じ。

研究職の人の話も聞いたのだけど、
毎日、高度な理科の実験みたいなことばかりしている。
1mmくらいの薄いフィルムをレーザーで抜く機械を開発しているらしい。
そのために、温度や湿度や震度やらを変えて、機械を動かし、
データをとっているとか。
う~ん……聞くだけで面白くなさそう

でも、本人は楽しそうだった。

それから、対応してくれた人事担当者がとてもいい人で。
工場も1つ1つを丁寧に説明して歩いてくれた。

なんでも3年ほど前に、天皇・皇后陛下がこの工場に来られたらしい。
私は最初、「あ、そうですか」という程度の反応だったのだが、
何度も何度もその話をしてくれて、しまいにはその日のビデオや
記念碑、天皇がお座りになった椅子まで見せてくれた。

「こんな八尾の中小企業に……」と何度も言う。
それを聞いていて、その誇らしそうな顔を見て、
途中からなんだかじーんとしてしまった。

この工場で働いて20年だという。
「うちには大卒なんてこない」と言う。
この業界では特許もいくつもとっている、トップシェアの会社だけれど、
規模としては中小だし、ネームバリューもない。

それでも、この人はきっと20年間、ずっとこの仕事に誇りをもってきたのだろうなぁと思った。
街で見かける様々な箱。
お菓子の箱、クスリの箱、いろんな箱。
その箱を作っているのは別のメーカーだけど、その箱を作る抜型を造る機械を造っているのは自分たちなんだと、いつも誇りに思っていたに違いないのだ。

だけど、世間から見ればやはり町工場に過ぎない。
そんなとき、天皇・皇后陛下が来られた。
町中は大騒ぎ。
クロスも床も張り替えて、準備をして、迎えたその日。
自分たちの仕事を視察し、言葉をかける天皇。

きっとこの日初めて、自分の誇りがカタチになったのだ。

私は天皇には特に思い入れはないのだけど、
この人がすごく嬉しかったことだけはわかった。
いつものクセで、その気持ちにいつの間にか同化してしまい、
ビデオを観ながらちょっと泣きそうになってしまった。

世の中には本当にたくさんの仕事がある。
趣味的な面白さしか感じられない人よりも、社会に貢献していることを誇りに思って仕事ができる人のほうが、きっと仕事は楽しいのだろう。
それがどんな仕事であれ。

今日はとてもいい経験をした。

しかし、この工場見学がかなりハードで……。
まず、エレベーターなんかないから、3階まで階段でのぼる。
そのたびに、腰が……!

また、車で移動だったのだが、乗ったり降りたりするときに
かがめないといけないから、これがまた辛い

心の中の顔⇒
相手に見せる顔⇒

さらに、靴を脱いでスリッパに履き替えたりもしたので、
それがまた辛かった

今日は朝7時~9時までノンストップで働き続けた日。
神は試練を与えたまふ。
FAXが壊れて実家に借りに行ったり、プリンターのインクが切れて買いに行ったり、修正テープを使っていたら壊れたりと、うまくいかない。
自転車で実家と家を2往復し、取材帰りにヨドバシカメラへ行き……。
体を酷使し続けた。

そうしたら……
神は我を救いたまふ。
劇的に腰が治った!

いや、まだ痛いには痛いのだが、左半分がよくなっている。
痛いのは右だけだ。
これはやっぱりヘルニアじゃなかったのかもしれない。
今は右足をひきずる感じだけど、かなり調子がいい。

こんなに酷使して、絶対悪くなると思ったのに……
逆療法?!

そんなわけで、今日は疲れているのになんだか気持ちは明るい。
やっぱり健康っていいな。
半分痛みが減るだけで、こんなに気が晴れるなんて。

明日、ひどくなってないといいけど(笑)

選択する

2008-08-07 00:58:19 | 想い
自転車操業の日々が続いている。
腰のせいで、何をやっても時間がよけいにかかる。
気持ち的にもしんどい。

昨日の夜は、かどやとびりけんに行って、
美味しいお料理とお酒を味わって、
非常に楽しい時間を過ごした。

けれど、胃も弱っていて、珍しくびりけんの料理を食べ切れなかった。
不覚

今日は近くの整形外科へ行って、レントゲンをとってもらった。
やはりヘルニアかもしれないということで、来週、念のためMRIで再検査。

コルセットをつけて、湿布を貼って、
なんとか自分を騙し騙し、仕事をやっている。

とにかく明日が納期のものを必死に片付けるだけの、
本当に自転車操業の日々。
なんだかもう精神的にやられている。

思い切って、お盆明けの仕事(新案件)は全部断ることにした。
そうすると、思いも寄らないところから、また仕事を頼まれる。
初めて仕事をもらうところなので、断れない。
8月末~9月にかけての仕事ということなので、とりあえず引き受けた。

でも、他の仕事が来そうなところには、今日思い切って休業宣言をした。
とりあえず8月いっぱい。
初めてだよ……こんなこと……
ハードルはかなり高く、
「他のライターさんが辞めたところで困ってる」とか、
「もう頼むつもりでスケジュールを組んだところだ」とか、
私の情をほだすようなことを言われる。
いつもの私なら「じゃあ……」と強く断れないところだが、
「体調が悪いんで……、絶対安静なんです」と断りきった!

8月いっぱい、体を治すことを考えようと思う。
整体の先生のところの仕事がたまってきていているのだが、
「ゆっくりでいい」と言われるのに甘えてしまい、
自転車操業生活の犠牲になってしまっている。
今日やらないといけないことだけで精一杯で、ずっと後回し。
これも気になって仕方がない。
8月後半は他を全部断って、この仕事に集中しよう。
こうやって、自分自身で重ねていってしまっているストレスを
どんどん解消していかなくては。

昨日、かどやに
「私やったら、そんなに腰痛かったら、今日飲みに行くのなんて断るけど」
と言われた。
この間のバーベキューのときも、あやとふみこに、
「中止になるかと思った」
と言われた。

そうか、そういう選択肢もあったのか……と思った。

私の中では
「約束だから」
それしかなかった。
「断る」ということを思いつかなかった。

それに、友達に会うと、元気が出るからいいんだ。
これで仕事だけだったら、本当にまいってしまう。
精神的には、やっぱり元気になれる。

ただ、仕事でも約束でも、「断る」という選択肢をもたないと、
最終的には自分自身が追い込まれていくのかもしれないな、とも思う。
特にこんなふうに体が弱っているときは。

昼間、体が思うように動かなくて、涙が出ることがある。
それはだいたい、靴下とかレギンスとかを履くときだ。
前にかがめないので、座っても自分の足先に手が届かないのだ。
痛くて痛くて、なんだか情けなくて、子供みたいに泣いてしまう。
何分もかかって、はぁはぁ言いながら、やっと履ける。

健康っていうのは、失ってみて初めてその価値がわかるものなんだなぁ。
靴下を履くのがこんなに辛い日が来るなんて、思ってもみなかった。
ポジティブに、「健康の大事さがわかってよかった」と思う。
ずっと「鋼鉄の女」だったから、こういう痛みを経験したことは、
本当によかったと思う。
これでもうひとつ、人に優しくなれるだろう。
(今までは病人に対して厳しかった)

勇気を出して、仕事を断る。
そして、8月いっぱいかけて整体の先生のところに通ったり、
安静にしたりして、体を治そう。

これはきっと、いいことなんだと思う。
びりけんのマスターの「お告げ」もそうだった。

「そろそろ仕事を選択していく時期が来ている」

腰痛も、勇気のない私を後押ししてくれるためのものだと思えば、
ちょうどいいタイミングだったし、必要なものだったんだ。
ものごとにはすべて、意味がある。

土日のイベントで腰痛悪化

2008-08-04 23:07:36 | 生活
土曜日は、京都の西院ミュージックフェスティバルへ。
西院の街にあるバーやいろいろなお店が会場になり、
一日中、いろんなミュージシャンが演奏している。
もちろん、無料。
飲食代と、気持ちばかりのチップだけだ。

毎年楽しみにしていて、今年も彼と一緒に出かけた。
お目当ては夕方~のバンド。

最初は鉄板焼き屋で座敷に座ってのライブ。
カサ・スリムさんと、ツインズの弟・小竹親さん。
「任侠もの」と予告してあった通り、ちょっとその筋の人みたいな格好で、
バックミュージックも任侠映画のテーマソング風に現れた。

トークも面白かったし、演奏がまたよかった。
曲はブルースじゃないのに、ブルースなんだよな……。
カサさんの楽しそうな表情と、親さんの声に大満足。
しびれた。

その後はバーに移動して、立ちっぱなしできつかったけど、
バーボン片手にブルースを聴く。
生のファッツボトルバンドも聴けたし、何よりトリのクンチョーがよかった。
クンチョーと、ツインズおにいちゃんと、田中晴之さん。
日本のブルース界なんて狭いから、3人ともを別々に知って好きになったのに、気が付けば3人が一緒に組んでやっている。

クンチョーはもう見た目はおじいさんみたいになっていたけど、
変わらずパワフルで、めちゃくちゃカッコよかった。
お客もかなりハイテンションだったので、盛り上がって楽しい。

バーボンはあっと言う間に4杯目だ。

こういうとき想うのだ。
ブルースと酒があったら、私って本当に満足なんだなぁと。
これ以上の時間を見つけることができない。

終電で家に帰ると、酔いがまわって(すきっ腹だったので)、ぶっ倒れるように寝た。
朝起きるのが辛かったが、日曜日はバーベキュー。
ふらふらになって起き上がって、準備をしていたら、ふみこが迎えに来た。

このバーベキューは3家族でやるという企画。
うちと、ふみこの家族(ダンナさん、子供2人)と、あやととしくんの夫婦。
総勢8名で、ふみこの車で2回に分けて送ってもらい、
水無瀬川の上流へと。

ここはいつ来ても最高だ。
いつもは歩いてくるくらいの距離に、こんなきれいで豊かな自然に囲まれた場所があるなんて……。
数グループ、同じくバーベキューをしに来ていたが、それでもすれ違った後はもう会うこともないくらい。
こんな素敵な場所なのに、人は少ないし、本当に穴場というか。

炭を起こすのに少し時間はかかったけれど、男性陣が用意してくれて、
どんどんお肉と野菜を焼いていった。
自然の中で食べるものって、なんであんなに美味しいんだろう。

ビールも飲んで、ワインもあけて、大満足。
車運転係のふみこだけ飲めないのがかわいそうだったけど……

みんな口々に「楽しいなぁ」「またやろう」と言っていた。
子供たちも川に入って、カニやタニシをとったりしていた。
途中、すべってびしょ濡れになったりもしていたが、そこは用意万端のふみこ。
ちゃんと着替えさせていた。

お腹もいっぱいになり、十分堪能して、家までまた送ってもらう。
「うちで飲み直そう」とあやを誘ったら、
「遠慮はせーへんで」と快諾。

ふみこは子供がお疲れなので帰ったが、あやととしくんだけがうちに来た。
前日、酔っ払って帰ってきたままだったので、
部屋も掃除をしていなくて汚かったが、まあ、そこは私たちの仲。
そんなことで不快に思うような人たちでもないので、うちで飲みなおした。

彼ととしくんが何やらいろいろ買出しに行き、
またビールやら日本酒やら。

あやは最近あまり調子がよくないとのことで、ほとんど飲まなかったし、
私も日本酒をちょっと飲んだだけだったのだが、
まあ、男どもはよく飲み食いする!
本当に際限がなくてびっくりする。

飲みながらしゃべって、なんということもない時間なのだけど、
こういう時間はいつも貴重だと思う。
穏やかで、ゆったりと、時が過ぎる。

あっという間に8時前になって、二人は帰った。

なんだかよく遊んだ2日間だったなぁと思った。
ただ、楽しかったのだが、腰が大変なことになっている。

川辺で足を滑らせそうになったときに、思わず足を踏ん張ってしまったのだ。
それからもうダメ。
これ絶対にヘルニアだなぁ。
骨とか筋肉とかじゃなく、神経に触るようなしびれる痛み。

この2日間でまた悪化して、今日はもう本当に辛い1日だった。
できれば楽な姿勢で寝転んだりしておきたいのだが、
また今日も取材。

取材先で座っていて、挨拶をするために立ち上がるときなど、
心の中で絶叫している。
もう私は手をつかないと立ち上がることもできないのだが、
取材相手の前でそんなことはできないので、腰に力を入れて立ち上がる。
その瞬間、もうめまいがするほどの激痛だ。

日常生活にもかなり支障が出ていて、洗濯が一番きつい。
でも、洗わないわけにはいかない。干さないわけにはいかない。
洗濯をたたんで、それを部屋に運ぶことができない。
何かものを持った状態で立ち上がることができないからだ。
でも、必死に壁などを使って立ち上がる。

お弁当も先週から休ませてもらっている。
台所仕事も結構しんどいので。

今日はもう歩くだけでも振動が響いてきて苦痛だった。
くしゃみなんてしてしまったら、その後、「わ~!」っと声が出る。
声を抑えられないような激痛が走るのだ。

布団のあげおろしは、ずっと彼がやってくれている。
お風呂を入れてくれたりと、とても親切だ。
助かるけれど、自分が情けない。

座っても、歩いても、寝ていても、立ち上がっても、かがんでも、
どの姿勢でも痛みが走るようになったので、
あきらめて病院に行くことにした。
整体まで行く時間がまったくないので、近所の整形外科。
とりあえず、骨がどうなってるのかを診てもらおう。

早く行きたいのだが、仕事仕事でそれすらできない。
今日もまだ原稿が残っているし、明日も朝から夏期講習。
4時間も立ちっぱなしで大丈夫なのか、不安だ。

1日でいいからゆっくり療養できたら、少しはマシになるような気もするのだが。

あー、健康だった自分が懐かしい……



雑談。

2008-08-01 22:49:44 | 想い
どうやら熱帯夜が続いているようだが、ありがたいことに我が家の夜は涼しい。
まだクーラーをつけて寝たことは一度もないし、窓を開けていれば扇風機すらいらない夜もある。
昨日も最初は扇風機をつけていたのだけど、寒くて眠れず、消して布団をかぶって寝た。

世間では「エアコンのタイマーが切れるたびに目が覚める」といった話も聞く。
そう考えると、本当にありがたいことだ。
おかげで、7月の電気代も5000円程度だった。
(夜だけでなく、昼間も私はクーラーをつけることがない)

これはたぶん、土のおかげだと思う。
家の横が田んぼなので、入ってくる風が冷たいのだ。
アスファルトなんか全部はがしてしまえば、日本はもっと涼しくなるのに。

我が家は酒飲みだが、わりとエコ家庭で、
休みの日でもあまりクーラーをつけず、二人で首に保冷剤を巻いて過ごしたりする。
これが意外に効くのだ。
まあ、昼間っから冷たいビールは飲むけどね

腰の具合は、良くなったり悪くなったり。
昨日は久しぶりに授業も取材もなく、湿布を貼って過ごしていたら、かなり良くなった。仕事もバリバリはかどった。
それが、今日は朝から授業で、その後、取材。
帰って来たら、また悪化していて、しばらく座ることもできなかった。
また湿布を貼って、少し休んで、今は少しマシ。

仕事は、全く途切れることがなく、次から次へと入ってくる。
なくなったら営業しようと思っているのだが、なくなるどころか延々と続くので、この2ヶ月ほど営業もしたことがない。

みんな私のスケジュールを管理しているんじゃないかと思うほど、
うまい具合にちょっと空いた隙間にも仕事をねじこんでくる。

男に生まれたかったなぁとよく思う。
そうしたら、家のことなど気にせず、バリバリ仕事ができるのに。
夫は仕事が忙しくなれば、それに集中して何時まででも働ける。
私は、仕事がどんなに押してきても、洗濯や掃除をさぼるわけにはいかない。
料理は「食べてきて!」で済むけれど、それでも自分が食べた後は片付けもあるし、ゴミ捨てもある。

だいたい私は夜中の11時~12時くらいに床掃除をする。
1日の汚れを拭い去るように、フローリングの床を拭いていく。
夏は裸足でいるので、足の裏がベタベタするのがイヤなのだ。
それでも、毎日拭いているのに、必ず汚れる。なぜなんだろう。

今週はお弁当をさぼっているので、せめて朝ごはんはちゃんとしたものをと思い、それから料理もする。
そんな後にまた仕事をするので、結局寝るのは2時、3時になる。
朝になれば彼の朝ごはんを作って、洗い物をして、花に水をやって、洗濯をして、それからやっと自分の仕事ができる。

別にこれは彼に対する文句ではない。
私は男の人が家事をするなんて大嫌いなので、分担しようなんていう考えは全くない。
家事は結婚する前からずっとやってきたことだし、特に負担に感じているわけでもない。
ただ、「夫」という存在ができて、それをそばで見ていると、本当に羨ましくなるのだ。仕事をする身として。
朝はギリギリまで寝ていて、座れば朝ごはんが出てくる。
洗濯はしなくても、いつも洗いたての洋服があって。
帰ってくれば、いつも部屋はピカピカで。
ゴミの日を気にしなくてもよくて。
仕事に集中できる。

昔から言っているけど、本当にお手伝いさんを雇いたい。
雇う余裕がないうえに、家がちゃんとしていないと気がすまないから、仕方なく自分でやっているが、誰かやってくれるならどんなにいいかと思う。
仕事に集中したい。

でも、家事も好きなんだなぁ、これが。
床を磨いているときが、本当に落ち着く。
そう考えると、やっぱりこの生活がベストなのか?!

毎日、そんなことを思いながら、床を磨いている。
もうすぐまた床磨きタイムがやってくる。

こんな意味のないことを延々と考えているのは、
十分な仕事ができないことがストレスになっているからだ。

例えば、塾の夏期講習に新しい生徒が入ってきて、
その生徒がまたとんでもないおバカさんで。
因数分解をやったことがないのに、二次方程式を教えても意味がない。

相談して、個別の選択授業をとってもらうことにしたが、
その子を自分では見る余裕がない。
本当なら、私が教えたいのだ。
自慢じゃないが、おバカを教えることに関しては誰にも負ける気がしない。
さっさと教えて、できるようにしてあげたい。

今日も授業のときに、前はみんなが1枚終わるまでに2問くらいしかできなかったプリントが、3分の2くらいまで終わることができた。
「だいぶん進んだやん!」
と私が言ったら、まんざらでもないようで、
「前よりできるようになった」と嬉しそうだった。

そういうのを見ていると、なんとかしてあげたいと切実に思う。
思うのだけど、時間がない。
このジレンマ。

今、新しい講師を3人育てている。
みんないい人ばっかりで、それに関しては何のストレスも不安もない。
ベテランの講師がみんな抜けて、ひのきはどうなるんだろうかと心配していたが、なんということはない。
自分が抜けたときも思ったけれど、組織ってそんなもんなんだなぁ。
中心人物が抜けたって、誰かがちゃんと代わりをやって、まわり続ける。
今年も私がいなくても、たぶんやっていけただろう。
私の役割は、ひのきの精神を伝えることと、より生徒に満足してもらうことであって、まわらなくてつぶれてしまうということはなかっただろうと今は思える。
それくらい、みんないい人ばかりで、熱心にやってくれている。
夏期講習も順調だ。

仕事はうまくいっている。
ライター仕事はもちろん楽しい。
まだ、自分がこの世界で求めてもらえていることを感じられる。

だけど、ふと、立ち止まる。
自分が書きたかったものはなんだったのか。
次に仕事が落ち着いたら書いてみようと思ったときから、仕事が止まらなくなった。
これは、まだ私にライターを続けろというサインなのか。
それとも、これを断ち切っても書く勇気をもてということなのか。

そんなことをよく考える。

文章を書かなくなる生活。
それは一体どんなものなんだろう。
まだ想像はつかない。

ご飯を食べたり、息をしたりするのと同じように、ずっと書き続けてきたから。
私には守りたいものが多すぎる。
理想が大きすぎて、現実の自分のもっている力に失望することが多い。
「想い」だけでは、人は動けないものなんだろうか。
あれもしたい、これもしたいで、何もできない、ただ生活に追われている自分がいる。