明日元気になれ。―part2

毎日いろいろあるけれど、とりあえずご飯と酒がおいしけりゃ、
明日もなんとかなるんじゃないか?

私の音楽ルーツ

2008-08-08 23:02:33 | 想い
さっき、休憩でビールを飲みながらテレビを観ようとつけたら、ミュージックステーションにサザンが出ていた。

私はサザンって、特別好きでもないし、嫌いでもない。
いい曲はいっぱいあると思うし、桑田さんの声も好きだ。
日本が誇れるアーティストであるとも思う。

何気に観ていたら、みんなが選んだサザンの好きな歌ベスト20みたいなのをやっていて、懐かしい曲がいろいろと流れた。
それでわかったのだけど、私は1978年(サザンのデビュー)~1980年代前半の曲が好きだ。
「好き」というか、曲を聴いた瞬間に何かを感じる。
yaya(あの時を忘れない)、いとしのエリー、勝手にシンドバッド、海、栞のテーマ、MISS BRAND-NEW DAYなどなど。
なんでだろうと考えたら単純な話。
ちゃんとサザンを聴いていたのが、小学生の頃だけだからだ。
やはり、10歳前後に聴いていた曲というのは、自分の身体にしっかり染み付いている、というのか、なんだか切れないもののような気がする。

それに、小学生にとったら、やっぱり「勝手にシンドバッド」なんて、衝撃だったし。
この狂ったように歌っている人は一体何なんだろうかとも思った。
そうかと思えば、しっとりとした曲も歌う。
そのギャップというか、今から思えば音楽性の幅の広さが、あの頃の私には印象深かった。

ちなみに、1980年代後半~1990年代の流行の音楽を私はほとんど知らない。
自分の人生で、「音楽の鎖国」と言っている時代だ。
日本人の9割が耳にしたことがあるような音楽も聴いたことすらない。
かなりマニアックに生きた時代だった。
(ブルースオンリー!)

今日、懐かしい「海」や「栞のテーマ」なんかを聴いていて、小学生の頃の自分を思い出した。
たぶん、1980年以降に生まれた人にはわからない感覚だと思うし、1960年代生まれの人ともまた違うかなと思う。

私が小学生の頃は、ようやく「レンタルレコード」というのが小さな町にもでき始めたのだが、「当日返却」で確か350円くらいはしたと思う。
小学生の私は、お小遣いやお年玉で月に1枚借りるのがやっとだった。
お姉ちゃんやお兄ちゃんがいるような友達はかなり重宝されていて、そういう年上のお金をもっている人が借りて録音したテープを借りてダビングする、それが一番手っ取り早く音楽を手に入れる方法だった。
ダビングのダビングのダビングなんてことはざらにあり、ノイズでいっぱいのカセットテープを必死に聴いていた。

それも、お金がないので、輸入物の100円テープ。(すぐ伸びる)
マクセルやソニーのテープは大事なミュージシャンにしか使わなかった。
それでも小学生の頃に200本くらいはあったと思う。
お年玉も親からの誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、すべてをレコードとカセットテープに費やしていた。
(1台でダビングができるカセットレコーダーが発売されたのもこの頃。それまでは友達とカセットレコーダーを持ち寄り、息を潜めてレコーダーからレコーダーへ音を移していた)

私の武勇伝だが、小学生の時はオフコースがあまりにも好きすぎて、書初めの授業で「小田和正」と書いて怒られたということもあった。
誕生日プレゼントにオフコースの「はじめの一歩」という自叙伝を買ってもらったという記憶がある。
それくらいオフコースが好きだった。

オフコースはブルースじゃないが、ある意味、この行動がブルースである(笑)。

でも、今の自分の音楽のルーツをたどれば、いくつかの要素がある。
まずは小学5年生の時に初めて聴いた佐野元春。
時代は「ニューミュージック」だったのだけど(今の人にわかるのかしら?)、佐野元春はその中で異色だったし、かなりの衝撃だった。
初期の頃はジャズの要素やロックの要素を十分に取り入れていたし、何よりあの声に惹かれた。

それから、テレビで見たYMO。
なんだこの音は、と思った(シンセサイザーという楽器を初めて知った)。
そして、坂本龍一と一緒に忌野清志郎がやっていた、「いけないルージュマジック」。
今でいうビジュアル系?!
男が化粧して、キスしてる。
あれはもう子供ながらに衝撃映像だった。
「ベイベー、oh ベイベー いけない、ルージュマジック♪」
あのリズムが自分の中に染み付いて離れなかった。
(今思えば、R&Bなんだなぁ)

そして、中学生で知ったビートルズ。
友達の友達のお姉ちゃんの友達が音源というカセットテープでもダビングしてもらって、あの頃にほとんど全てのアルバムを聴いた。
今思えば、清志郎やビートルズに惹かれていたのも、やはり彼らのルーツが黒人音楽にあるからなんだろうなぁと思う。
その頃はそんなこと全く知らなかったけれど。

中学の頃、熱狂的だったのは、あとは尾崎豊。
今でも忘れない。今はなき大阪球場での伝説のライブ。
今から23年前のことだ。14歳の時、徹夜して並んで行った。(2100円だった)
何気なく読んでいた音楽雑誌に紹介されていた尾崎豊。
デビューアルバムを発売したという話が書かれてあって、その小さなインタビュー記事を読んだ瞬間に、なぜだか「ああ、これだ」と思い、次の日にお年玉を持って高槻のレコード屋に走った。
まだ、誰も尾崎豊という存在を知らなかったときだ。

夫とも話していたのだが、夫はリアルタイムでの尾崎を知らない。
時代背景も違う。
校内暴力と偏差値教育(今よりずっと)が共存していたあの時代を知らない人と、それをリアルタイムで感じている者とは、尾崎の聴き方は全く違うと思う。
まさに、救世主だった。あの頃はカリスマなんていう洒落た言葉もなく、本当に救世主だった。ある種類の人間にとっては。
単純に自由になりたかった。たぶん、尾崎もそうだ。

私はあんなに好きだった尾崎を3枚目のアルバムまでしか聴いたことがない。(本当のファンではないのかも)
夫がいくつか曲名を挙げたけれど、それも知らなかった。
でも、確かにあの頃の、社会や自分の存在に疑問を感じて生きていた私には、尾崎は救世主だった。
「自由になりたくないかい?」
この問いかけの意味が、実感としてわかる世代だ。

尾崎の思い出でいえば、中野と仲良くなったきっかけも尾崎だった。
中3のとき、同じクラス、隣の席になった。
私が下敷きに尾崎の切抜きを挟んでいるのを見て、中野が聞いてきたのだ。
「尾崎、好きなん?いいよね」

※あの頃は透明の下敷きに切抜きを挟むのが流行っていた。
変わった友達で、石坂浩二とマンガの三国志の「諸葛孔明」を挟んでいた人がいた。なんちゅう趣味だ。

今別に中野と尾崎の話なんかしないが、20年来の友情は続いている。

この間、夫とブルーハーツの話もしていたのだけど、まさに私の高校時代がバンドブームで。
ブルーハーツに夢中になった。
でもまたこれも、ルーツはブルースなんだなぁ。

そして、本当にブルースに近づいたのは、高校のとき。
もんちゃんが「憂歌団」と「泉谷しげる」を教えてくれた。
憂歌団は、まさにブルースだったし、あの頃の泉谷はロックだった。
どちらも本当にカッコよかった。
一緒にライブに行ったりして、そのうち私のほうがのめりこんだ(笑)。

今でもあの頃の泉谷のライブをもう一度観たいとよく思う。
バックバンドがまたすごくて、ドラムは村上“ポン太”秀一、ギターはRCサクセションのチャボこと仲井戸麗市など、そうそうたるメンバーだった。
泉谷はめちゃくちゃで、ものすごくワイルドでカッコよかった。
(今は好々爺になってるけど・笑)

憂歌団は解散するまで何度もライブは行ったけど、いつもよかったなぁ。
勘太郎のギターも最高で。
客はみんな「あほー!」って怒鳴ってて。
20年変わらずやり続けた曲が重みがあって。

こうやって思い返せば、いつも音楽が共にあった。
私は声が耳障りだし(アニメ声?)、楽器も根性なしで何もできなかったから、音楽の道には進まなかったけれど、自分の好きな音楽を「聴く」という情熱はかなりのものだったと思う。音楽を「やらない」人間としては稀に見るほど。

夫もそうだが、1980年代生まれ以降の人を見ていると、「音楽」というものに対する概念が全然違うような気がする。
それは、「必死さ」というのか。
(あくまでも聴くという意味での。必死に音楽をやっている人はもちろんいる)
ダビングのダビングのダビングの、音源が誰かわからない人のカセットテープを必死に聴いていたという時代をもっていない。
レコードをターンテーブルにのせ、スプレーをかけて誇りをブラシで取り、そっと針を落として聴いていたという経験もない。
それが悪いという意味ではもちろんない。(苦労したもんがいいということじゃない)
単純に、違うんだなぁという感慨。

今や音楽は何でもダウンロードでき、youtubeで映像までタダで見られる。
そういうことが当たり前と思って生きてきた人とはやはり何かが違うような気がする。
音楽を「消費」できない自分が未だにいる。
(同じ世代でも音楽は消費するものと思っている人もいるけれど)

そして、また、私より前の時代の人とも違う。
憧れのミュージシャンが言うのだ。
「僕が学生の頃は、ラジオから流れてくるビートルズを必死に聴いていました」と。
その状況に私は憧れた(笑)。

「かおりって、ほんまに(音楽の幅が)狭いよなぁ」と夫が言う。
いや、私も昔は広かったのよ。
それこそ、周りの友達よりもずっと。
いろんな音楽を聴いてきて、途中で知ってしまったのだ。
自分が求めている音楽が何なのか。
それを知ってしまったら、後はもう何でもよくなってしまったというだけのこと。
極端な話、限られた人生なのに、好きかわからない音楽を100曲聴くよりも、大好きな音楽を1曲聴いて死にたい。
そういう感じだ。

この間、ファッツボトルを聴いていても思ったのだけど、
1970年代に青春時代を過ごしたかった。
今が40代後半くらいだったらどんなにいいかと。
ウエストロードとか、サウスとか、ブレイクダウン、ソーバッド・レビュー、めんたんぴん、スターキング・デリシャスなんかをリアルタイムで見られた人というのは本当に羨ましい。
8・8ロックデイを生で見たかった!!

まあ、そう言っても仕方ないので、私は今ある音楽を聴くだけ。

今日、偶然、サザンの懐かしい曲を聴いていたら、こんなことを考えた。
長々とすみません。

ゴッドハンド!

2008-08-08 22:08:13 | 生活
さっき、久しぶりに手をつかず、自分の足腰の力だけで立ち上がった。
およそ1ヶ月ぶりのことで、なんだかそれだけで嬉しかった。
なんだかクララ気分♪

今日、整体の先生のところへ行ってきたのだ。
それは、治療ではなく、仕事で。
次はリンパマッサージの教材本を作るということで、今日は取材。
これは文章だけでなくイラストも必要なので、ゆうちゃんを推薦したら、是非にということだったので、一緒に行ってきた。

先生のお友達をモデルにして、リンパマッサージをしているところを写真に撮り、説明を聞いていく。
これを私が文章にして、ゆうちゃんがイラストにする。
「いつか一緒に何か作品を創りたいね」と昔から言ってきたけれど、まさか最初の作品が「リンパマッサージ教材本」とは(笑)。

とはいえ、一緒に仕事ができることは嬉しい。
昔からずっと思ってきた。
自分も友達も何かのエキスパートになり、いずれ一緒に仕事をする。
あの頃はコラボレーションなんて言葉は流行ってなかったけれど、まあ、そういう感じだ。
その第一弾ということで、充実感もあった。

取材が終わって帰りに、「腰はどう?」と聞かれたので、現状を伝えたら、座ったままで足に手をやり、いくつかのツボを触る(これは先生独自の技法で、押すのではなく、本当に触れるだけ)。
それで、ほんの5分か10分くらいだったのだけど、嘘みたいに治った。
もちろん完治ではない。
でも、最初の痛みを10とすれば、4くらい。
曲げられなかった腰が軽くお辞儀をするくらいまでは曲げられるようになった。

本当にすごい。
やはりゴッドハンド!!

気になる方はぜひこちらを⇒http://www.noggi.com/index.html

今日はその後、ゆうちゃんとお昼ごはんを食べ、また夕方から別の取材。
結構ハードな1日だったのだが、夜になっても痛みはほとんどない。
なんだか魔法みたいだ。
それでさっき、手をつかずに立ち上がった自分に感動したのだ。

は~、健康ってやっぱりいいな。
なんだか痛みから解放されただけで、気持ちも明るい。
この1ヶ月、感情のほとんどが「痛い」だったのだから、楽になるのも当たり前。
あと2回ほど本格的に治療してもらうのだが、これで完治できそうだ。

人の出会いってすごいな。
もし先生と出会っていなかったら、ずっとこの痛みと付き合っていたかもしれないのに、こんなふうにあっという間に治るなんて。

仕事は今日も忙しい。
夕方帰ってからもずっと仕事で、さっき少しビールを飲んだところ。
でも、どういうわけか、最近はあまりお酒がおいしくない。
やっぱり体は弱ってるんだろうな。
まだこれから1時か2時まで仕事だ。
毎日この繰り返し。

腰痛をきっかけに、仕事を断って本当によかったと思う。
8月後半は少しまともな生活を取り戻そう。

いろんな仕事があるんだな。

2008-08-08 00:01:40 | 仕事
八尾にある、機械製造の中小企業を取材。
お菓子とかクスリとか、世の中にあるいろんな紙箱。
それを造る抜型を造る機械を造っている。

紙箱の展開図みたいなのを機械がレーザーで切っていくのを見て、
なるほどなぁと思った。
何気なく使っているモノたちには、なんと多くの人が関わっていることか。

また、働いている人たちの教育がきちんとなされている会社で、
明るく挨拶してくれるのが気持ちいい。

こうやって何十社も取材していると、
「この人個人が感じがいい」のか、
「会社の教育がきちんとしている」のか、
だいたいわかってくる。

今日は最初に声をかけた人の対応で、「ああ、この会社はきちんとしてるな」
とわかった。
話を聞いてみれば、やはり「挨拶だけは厳しく指導している」という。

お客さんが入ってきたときに、自分とは関係なければ、
しらっとしている会社って、意外にたくさんあるのだ。
あれって本当に感じが悪い。
受付の女性だけが慌てて出てきて。

今日はみんなが「こんにちは!」と声をかけてくれるから、
最初からいい会社だなぁと思っていたら、
インタビューが終わった後、工場見学をさせてくれた。
小学生に戻った気分。

レーザーで抜型を加工していく機械や、
その機械を造る部品を組み立てる様子を見ていて、
これはやっぱり「男」の仕事だなぁと思った。
個人差はもちろんあるだろうが、基本的に女性には魅力のない仕事だ。
プラモデルを作るのは男ばっかりっていうのと同じ。

研究職の人の話も聞いたのだけど、
毎日、高度な理科の実験みたいなことばかりしている。
1mmくらいの薄いフィルムをレーザーで抜く機械を開発しているらしい。
そのために、温度や湿度や震度やらを変えて、機械を動かし、
データをとっているとか。
う~ん……聞くだけで面白くなさそう

でも、本人は楽しそうだった。

それから、対応してくれた人事担当者がとてもいい人で。
工場も1つ1つを丁寧に説明して歩いてくれた。

なんでも3年ほど前に、天皇・皇后陛下がこの工場に来られたらしい。
私は最初、「あ、そうですか」という程度の反応だったのだが、
何度も何度もその話をしてくれて、しまいにはその日のビデオや
記念碑、天皇がお座りになった椅子まで見せてくれた。

「こんな八尾の中小企業に……」と何度も言う。
それを聞いていて、その誇らしそうな顔を見て、
途中からなんだかじーんとしてしまった。

この工場で働いて20年だという。
「うちには大卒なんてこない」と言う。
この業界では特許もいくつもとっている、トップシェアの会社だけれど、
規模としては中小だし、ネームバリューもない。

それでも、この人はきっと20年間、ずっとこの仕事に誇りをもってきたのだろうなぁと思った。
街で見かける様々な箱。
お菓子の箱、クスリの箱、いろんな箱。
その箱を作っているのは別のメーカーだけど、その箱を作る抜型を造る機械を造っているのは自分たちなんだと、いつも誇りに思っていたに違いないのだ。

だけど、世間から見ればやはり町工場に過ぎない。
そんなとき、天皇・皇后陛下が来られた。
町中は大騒ぎ。
クロスも床も張り替えて、準備をして、迎えたその日。
自分たちの仕事を視察し、言葉をかける天皇。

きっとこの日初めて、自分の誇りがカタチになったのだ。

私は天皇には特に思い入れはないのだけど、
この人がすごく嬉しかったことだけはわかった。
いつものクセで、その気持ちにいつの間にか同化してしまい、
ビデオを観ながらちょっと泣きそうになってしまった。

世の中には本当にたくさんの仕事がある。
趣味的な面白さしか感じられない人よりも、社会に貢献していることを誇りに思って仕事ができる人のほうが、きっと仕事は楽しいのだろう。
それがどんな仕事であれ。

今日はとてもいい経験をした。

しかし、この工場見学がかなりハードで……。
まず、エレベーターなんかないから、3階まで階段でのぼる。
そのたびに、腰が……!

また、車で移動だったのだが、乗ったり降りたりするときに
かがめないといけないから、これがまた辛い

心の中の顔⇒
相手に見せる顔⇒

さらに、靴を脱いでスリッパに履き替えたりもしたので、
それがまた辛かった

今日は朝7時~9時までノンストップで働き続けた日。
神は試練を与えたまふ。
FAXが壊れて実家に借りに行ったり、プリンターのインクが切れて買いに行ったり、修正テープを使っていたら壊れたりと、うまくいかない。
自転車で実家と家を2往復し、取材帰りにヨドバシカメラへ行き……。
体を酷使し続けた。

そうしたら……
神は我を救いたまふ。
劇的に腰が治った!

いや、まだ痛いには痛いのだが、左半分がよくなっている。
痛いのは右だけだ。
これはやっぱりヘルニアじゃなかったのかもしれない。
今は右足をひきずる感じだけど、かなり調子がいい。

こんなに酷使して、絶対悪くなると思ったのに……
逆療法?!

そんなわけで、今日は疲れているのになんだか気持ちは明るい。
やっぱり健康っていいな。
半分痛みが減るだけで、こんなに気が晴れるなんて。

明日、ひどくなってないといいけど(笑)