ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝ことばの力〟

2019年05月16日 | 俳句

 今日も快晴…まだ五月の半ばだというのに、九州の熊本や大分では最高気温が30度を超すという。このままいけば真夏にはどこまで気温が上がるのでしょうか。でも宇部は山口県の中でもいつも気温が低く、今日も23度止まりなんですよ。いいのかな~。

 ブログ2日ほど休んでしまいました。今日は一日何も予定がないので…ゆっくりして…先程まで友人と久し振りのおしゃべりをしていました。

 さて、14日はMでの定例俳句教室。先月から人が増えて11人、ちょうどいい人数です。兼題は〝葉桜〟で、初夏の季語。葉桜といえばすぐに篠原梵の〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉が思い出されるのですが、以前にも書いたような気がしますので…やめておきます。

 その時に出た句で、高点句ではありませんでしたが〈葉桜や地下足袋脱ぎて休む人〉というのがありました。よく分かる句ですね。作者も、〝道路の草刈などの作業をしていた人が葉桜の下で休憩をしようと、地下足袋を脱いでいたので…〟と。一応型どおりの詠み方で季語もほどほどに効いて、まあまあの句だと思いました。特にこの句のいいところは、〈地下足袋〉に目を付けたところ。葉桜の下で休んでいるというだけならどんな人かは分かりませんね。でも、この語によってそれが作業員などの肉体労働者であることが見えてきます。

 しかし、惜しい!折角〈地下足袋〉を使ったんならもう〈人〉は言わなくていいでしょう。かえってくどくなりますもの。そこで、単純に〈休みをり〉にしたらどうと言うと、〝それだったら自分のようになるので、考えた末なんですよ〟と作者。どうでしょう?みなさんもそう思いますか?〝もし自分が地下足袋を脱いで休んでいるとするなら〈休みたる〉とか〈休みける〉とすれば作者になります〟と答えると、うう~ん!と。

 ちょっとした動詞や助詞などの使い方で主体は変ります。俳句にとって句の〝主体〟は概ね作者と決まっています。だって俳句は一人称の文芸と言われていますからね。しかし、そこに描かれる場面は自分の姿や思いだけとは限りません。「見たもの・感じたもの」などを描写するとき、いちいち「私は(自分は)」とは言いません。しかし、そこは「作者の目を、耳を」通して実感したものなんですからつねに作者が存在するのです。「他人」が見たり聞いたりした感動を伝えるものではないということ。

 句を詠むときは余り考えすぎないようにしましょう!要するに、もう少し〝ことばの力〟を信じることです。もちろんそのためには、本当の〝ことばの意味〟に習熟することが必要でしょうが…。

 この日は午後の教室が夕方終って、夜7時からの〝若き経営者の会〟の講義と懇親会に出ましたので、疲れて帰りました。その話はまた長くなりますので、今度また…。

 写真は、我が家の〝英彦山姫沙羅〟です。エエッと思うでしょ!「沙羅の花」は「夏椿」ともいい、挽夏の季語で、七月頃、白色大形の花が開きますと、歳時記にもあります。「姫沙羅」もただ花が小振りというだけで同じ種類。ただし、我が家にある「英彦山姫沙羅」は、大分県の英彦山に見られる姫沙羅で、普通の姫沙羅は全部真っ白なのですが、これは蕾も紅を帯びています。花が開いても花弁の一つに薄く紅色が付いているところが特徴なんです。とてもカワイイ花で、今年はたくさん蕾を付けました。ズームにしたからでしょうか、またボケていますね。スミマセン!まだ咲き始めですから、今度また挑戦してみます。

 

 

  

コメント (2)
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