KAMATA CYCLE

子供の時から自転車に乗り続けて現在でもMTBを中心に活動しています。

大晦日の大掃除

2010年12月31日 16時52分43秒 | OUTDOOR

年末年始の長期休暇に入ったが寒波到来でアウトドア活動が出来ず掃除ばかりしていた。

一年でこんなにも不要な物で溢れるとは・・・

今日の朝はごみ収集車の音で起きた。

あっ!ごみ捨てらんなあかんと思い慌てて起きてごみ袋を抱え玄関から出たが・・・

新年は酒とごみ5袋と共に迎えることになったよ。

今年はトレッキングに目覚めた年だったなぁ。

あの猛暑の中をよく歩いて本宮まで歩いたと思う。

朝と夕方で4Kgも体重が減るんやから過酷やったんやなぁ。

来年はMTBに乗りたいがMTBが浜寺にあると中々乗りにくいので近場でガレージでも借りて・・・

後は吉野と高野山から熊野へ行きたい。(願望)

 

今年歩いた熊野古道をグーグルの地図で辿ってきたが海南から山中が多くなり道の表記が無くルートを描けなくなりました。


高野山女人道ハイキング

2010年12月18日 18時48分29秒 | OUTDOOR

 今日は高野山の女人道コースをハイキングする。
ケーブルカーで昇ると白い物が・・・先週には無かった雪だ。

どうやら昨日は降ったらしい。


 女人堂で御朱印をしてもらい8時半に歩き始めて先ずは984.5mの弁天岳を目指す。
谷上女人堂跡からは坂もきつくなり凍結した地面で滑りそうになる。


鳥居が見えて来ると弁天岳の頂上に到着だ。
山頂からは和泉山脈が望めるらしいが視界が悪くて見えず。


 大門を目指し降っていると倒木から氷柱が出来ているのを発見、

今何℃かな?と確かめるとゼロのぎり上、1度あるかないか。

大門も人の気配が無いが日当たりが少しあって助かった。

ここで休憩するが三分も経つと震えてくるので慌てておにぎりを頬張り歩き始めた。



 お助け地蔵尊は一言地蔵とも一願地蔵とも呼ばれている。


 お助け地蔵から暫くアップダウンの少ない道だったが山肌一面が伐採されたところから急な坂となり、

はげ山のてっぺんからは皮肉にも展望は良かった。

 


 相の浦口には小辺路の要所にあるお地蔵様があった。

小辺路はもう少し先の大滝口が始点だが相の浦口にも小辺路の文字があった。

 そして少し歩くと946mのピークに着く。

此処からは南紀の山々が幾重にも重なり果てしないこの彼方に熊野本宮があるんだと思い。

昔の人は良く此処から本宮まで歩くなぁと感心した。


 大滝口はろくろ峠にあり熊野古道の小辺路の始点として、

また、この先へ入れない女性が大塔や金堂を拝もうと首を伸ばしてみたことから轆轤峠とも言われている。

 

 真別処分岐で小辺路と別れて降り始める。

降りも落ち着き始めた頃に円通律寺の入り口に着く。

ここは修行の場として一般の人は入ることが出来ない。

当然私も入れない・・・

  高野山女人道七口の最後は奥の院の駐車場の直ぐ側にある東口(大峰口)は

弘法大師が高野山へ始めて入山したのもこの東口からだと言われている。

 ここからは奥の院へ参拝する。

奥の院の五輪塔の中で一番大きなこの五輪塔は徳川二代将軍秀忠公の夫人(祟源院)の墓所。

五輪塔は一番上から頭、首、肩、胴、脚を現しており5つから成り立っているので五輪塔と呼ばれている。

 徳川家康公の次男で結城秀康公の石廟。

 豊臣一族の墓所。

高野山は徳川家の命を受けた豊臣家が高野山の修繕費用を捻出した武家であり

豊臣家の財力を減らそうとする徳川家の意図はともかく高野山では豊臣家の家紋や功績を多く称えている。

 なんとあの織田信長公の墓所があった。

他の諸大名の墓と比べても高名な信長公としても小さいのは、やはり神仏に対しての行いの為なのかな?

 


西高野街道 学文路駅~高野山女人堂

2010年12月12日 23時46分21秒 | OUTDOOR

  朝7時40分に学文路駅に着いた。

今日は高野山の女人堂まで歩き西高野街道完歩をする予定だ。


 学文路の集落を登り始めると高野街道のプレートが埋め込まれていた、高野山が近いからなぁ?

流石に道標も在るだろうと楽観的になっていた。



ところがやっぱりというか道標が少なくて街道を歩いてるのか常に不安が付き纏う。

そして弘法清水を過ぎ分岐している道を曲がらず直進して迷子となる。小一時間はロスしたなぁ。

写真の分岐でまさか左折とは・・・

 



河根の集落を抜けると急坂が現れる。高野街道は整備されているので急な坂は無いだろと思っていただけに苦しい。
でもその後に歩いた車道も道幅が狭いにもかかわらず地元の車はガンガン飛ばして来る、二回程当たりかけたぞ。

 


 ブツブツ文句を言いながら歩いていると日本最後の仇討ちの地と書いている看板を発見。あれ?熊野古道の大阪と和歌山の県境にも同じようなものがあったぞ?


 相変わらず道標が無く不安だったが無事に極楽橋駅に着いた。ここからは不動坂を登って高野山女人堂を目指すだけだ。迷う事はもう無い。

 40分後に高野山女人堂に着いたが人の気配が無い。寂しいなぁ。冬はこんなもんかな?ベンチで休んでいると身体が冷えてきた。

気温は4度しかない学文路でスタート時に3度やったからそりゃ寒いわ。
バス乗ってケーブルカーで降りて電車で帰ろうっと!その前に電車の検索をした。

極楽橋駅って谷底に在るんやなぁ。登ってる時は気にならなかったが降っていると良くわかるわ。

三方を山に囲まれた凄い場所に駅があるから驚く。駅舎も凄く古いなぁ、ビックリするのは券売機が無いことやな。


今日は知り合いM氏の二次会に呼ばれているので無茶は出来なく特急で帰ろうと思ったときに特急は無し


西高野街道 千早口駅~学文路駅

2010年12月05日 17時17分16秒 | OUTDOOR

 今日は西高野街道の続きを歩きに行った。

しかも突然だったので朝から大慌てで準備して家を出た。

以前にもあったが人間慌てると忘れ物をする・・・

今日は日差し対策系を忘れた・・・目をやられそうだなぁ。

  7:25頃千早駅に着き歩き出した。

先ずは以前歩いていた箇所まで戻った。

街道では無いがお勧めルートだったので歩いていた道だ。

その道を進むと駅を周り込むように道が進み気がつくと再び駅が見えた。

ここから歩行者・自転車専用道路を歩いた。

何だか寒いと思ったら外気温2℃で路面も所々で凍結していてスベルぞぉ。

天見駅まで遊歩道を歩き国道に出る。

こっから国道沿いを歩き紀見峠トンネル手前で旧国道の方に入る。

旧道に入って直ぐのお店が紀伊峠までの最後の自販機だ。

と言っても紀伊峠まで1時間も掛からないが・・・

 

  8:45頃に紀伊峠に到着。

こっから和歌山県だぞ。

紀伊峠の集落を抜けると街道を進むコースとお勧めコースとがあり私はお勧めコースを選んだが・・・

はて?どこがお勧めだったんだろう?

国道に出たら大半は国道を歩き橋本市内に入る。

  紀ノ川の橋本橋たもとに記念碑が建っている。

読むと大正時代に、ここに橋が出来て以来、高野山との往来が激しくなり人が住み始めて橋本市が発展したとのこと。

やっぱ橋は大事なんだなぁ。

  橋を渡り清水の集落を歩くと常夜燈が現れた。

当然昔は橋がなかったので当時は渡し舟が交通手段の一つだった。

対岸にも常夜燈があって、渡し舟が往来していたのだそうだ。

  街道の面影を残す清水の街並み。

昭和初期にタイムスリップしたみたいだった。

  街道の途中にあった成就寺。

変わった門構えだったなぁ。何宗になるのかなぁ?

 

  かむろ大師の壁にあったよ。

ここでトイレを借りたが綺麗なトイレだった。

街道沿いにトイレが無くて今日は大変だったなぁ。

 ついでにお昼も食べれず今日は抜きかと思ったら学文路駅の近くで柿の葉寿しを売っていたので助かった。

12:46発の電車を待つ間や車内で腹に収め、橋本駅から贅沢にも特急で帰宅。