昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   10か月後の再発。 ③

2010年10月20日 | 日記

5月、連休が明けた7日。僕は午後の便で帰省した。

ぼくは機中でずっと、親父がこの世からいなくなる、僕より先にいなくなる、と思うと涙が止まらなくなった中学2年生の秋を、思い出そうとしていた。あの時の心の動きは遂に思い出せなかったが、悲しさの片鱗は蘇っていた。

空港から病院に直行。階段を上がっていくと、あの少女の悲しさが蘇てきた。二つの悲しさが重なり、僕の中で親父の死は今すぐそこにあるもののように思えてきた。急きたてられるように駆け上がり、病室のドアを開けた。

親父は、いつものようにベッドに端座。「おう、来たか」と微笑んでいる。最後に見たのが手術後のベッドだったとはいえ、血色はよく、心なしかふくよかになったように見える。

「元気そうじゃない。本当なの?再発したって。間違いなんじゃないの?」。笑顔に会えた喜びに、明るい声になってしまう。

「まあのお。大手術をしたんじゃけえ、体力はしょうがないとしてものお。どこというてのお、特に悪うなった気はせんのじゃがのお」。親父は、不安と言うより、不満そうだ。

「粉雪が降ってるみたいなんだって?」「そうなんじゃ。わしも見せてもろうたんじゃが、ありゃあ確かに一つずつ手術で取るのは無理な感じじゃのお」「ピントが合ってなかったんじゃない?故障とか、さ」「それは、ない。……まあ、化学療法があるけえ……」。と説明が続いていく。まるで、主治医の話を的確に伝える看護師かのようだ。

唇と目を交互に見ながら、この78歳、しっかりしてるなあ、と思う。誇らしく、悔しい。

「制癌剤治療になるんだね、これから。スケジュールは決まったの?」「いやあ、そこまでせんでもええんじゃないかと、わしは思うとるんじゃが……」「制癌剤治療のこと?」「うん」「だめ、だめ!向こうが我儘を言う時は、懲らしめてやらなくちゃ!元々親父の肝臓なんだから、さ。それより、これからは?どうするの?」。電話で聞いた“制癌剤を入れることができるようにする手術”とは何か?また、その後はどのような治療になるのか?の確認を始める。

 

親父の説明は、相変わらず淡々としてわかりやすかった。

これからすぐに行う手術は、制癌剤のパイプライン作り。太腿の血管から細い管を差し込み、その先端を肝臓に到達させるための手術だ。その管に制癌剤を流し込み、肝臓の無数にある癌細胞全体に効くようにしようという、言わば基礎工事。太腿側の開口部は通常は閉じておき、月に1度の制癌剤注入時にのみ利用する。その際は、制癌剤の副作用で発熱すると思われるので、1~2日程度の入院が望ましい……ということだった。

 

「わかった。月に一度きっちり戦い続ければ、長生きできるってことだ」と、肩を叩くと、不愉快そうだった親父の顔がさらに歪む。

「ただ生きてる、というのはどうもなあ、わしゃあ好かんのお。クウォリティ・オブ・ライフがのお」。“クウォリティ・オブ・ライフ”という言葉が出てきたことに少し驚きながら、「入院しっ放しってわけじゃないし。月に1回のことだからさあ。頑張ろうよ」と、肩に置いたままの手を2~3度揺らす。「そう思うじゃろ?制癌剤治療してる人に聞いてみたんじゃが、やっぱり相当きついらしいんじゃ、副作用が。一週間くらいは大変らしいんじゃ、熱や色んな体調不良で。そしたらお前、月の半分は苦しむことになるんじゃで。半分じゃ。月に1回言うても」。

僕は反論も反証もできない。確かに、親父の言うとおりだ。しかしかと言って、肝臓全体に散り、これから繁殖しようという癌細胞をそのままにしておくことは、できない。

「他に方法がないんだし…。このままにしておくってわけにもいかないんだから、ね。ね!治療を続けよう!ね!」。

それ以上語るべき言葉が見つからない。「いやあ、でも……」と“クウォリティ・オブ・ライフ”の大切さを語る親父を見つめるだけだ。しかし、パイプライン作りの手術のために、こうして入院しているということは、制癌剤治療を受ける決断をしたからに違いない。それでよしとしよう、と思う。後は、治療がスタートしてからだ。

手術は、翌日午後。その必要がないということで、朝の便では帰京する予定になっている。

せめて開業医の従兄弟に、制癌剤治療の問題点と可能性、そして何よりも親父の病状に関する判断を聞こう、と僕は思う。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


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