昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

風に揺れる蛹 ⑩

2017年06月15日 | 日記

そう考えて始めた図書館通いは、しかし、二日にして目的地変更を余儀なくされた。同じマンションの住人と出くわしたからだ。

が、そのことが、一旦芽生えた読書に向かうエネルギーを沈滞させることはなかった。

次の候補を探した。

区立図書館の3階。後一週間余り、ともかくここに通おう、と決めた。

 

パソコンを開く。右頬に風を感じる。窓に目をやると、わずかに開いている。

一陣の風が突然吹き抜ける。左の就活生二人が同時にこちらを向く。目に非難の色が見える。

口に手を当て、息をそっと嗅いでみる。ガムの効果か、アルコール臭はない。なら、気になるのは風か?それなら、同感だ。

席を立ち窓に近づく。開いた窓を押すがびくともしない。工事ミスか。それともコツでもあるのか。

開閉の仕組みをつぶさにチェックしてみる。このまま席に戻ることはできない。二人組に顔が立たない。が、どう見てもホテルの窓のような仕組みで、そう複雑なものではない。

開いた隙間を覗き込み、無駄とは思いつつも異物が挟まっていないかもチェックする。何もない。

諦め顔を上げた時、視界の端に白い影が二つ動いた。窓に目を戻すと、一対のモンシロチョウ。風に屈することなく、ひらひらと舞っている。

しばし見とれているうちに、中学の同窓会のことを思い出した。

案内葉書には、世話人として男女二人の名前があった。両方とも懐かしい名前だった。義郎は近所の遊び仲間。仲が良く、なんでも言い合える仲だった。久美子はみんなのマドンナ。お互いが好意を持っていることを知りつつ、言葉を交わしたことはほとんどなかった。

そんな二人の連絡先が名前の横に添えてあった。それも携帯電話の番号が。個人情報の漏洩に神経を尖らせている身には、なんともおおらかに映った。

昨日の夜、夕食後に飲み始めたバーボンが頭の芯まで回ってきた頃、葉書を手にしたまでは記憶がある。が、それから以降の記憶が曖昧だ。電話したような気がするのだが、それが誰宛だったのか、どんな話をしたのか聞いたのか、つぶさには思い出せない。

 

席に戻る。就活二人組と目が合う。軽い会釈を交換。「だめでした」「お疲れ様でした」といったところか。

スリープ状態になっているパソコンをリスタート。内ポケットからブルーライト対応の老眼鏡を取り出す。

俯き眼鏡を拭いていると、二人組が額を寄せひそひそと言葉を交わしている。向こう側の一人が少し背筋を伸ばし、こちらを盗み見る。その表情からは、ひそひそ話の内容が好意的なものだったとは思えない。

すると、あの軽い会釈の交換も、その内容は書き換えられるべきだろう。「締め方わかりませんでした」「そう。ダメかあ。無理そうだったけどね」といったところか。

想像を巡らせた瞬間、思い出した。確かに昨晩、それも恐らく深夜、電話をしている。世話人二人に、順に。

義朗の第一声は思い出せないが、久美子の第一声ははっきりと耳に蘇ってきた。

「繁君でしょ」

あたかも予測していたかのように、それでいてやや不快そうに発せられた言葉に、名前を名乗るのが遅れる。

あれは何時頃だったのだろう。深夜だったと思い込んでいるが、飲み始めた時間は早い。グラスを空けるピッチも速かった。携帯に出てきた速さから察しても、眠っていたのを起こしてしまったとは思えない。深夜ではなく、せいぜい10時頃だったと考えるのが妥当ではないか。

だとすると、久美子の不快は、電話した時間に向けられたものではなく電話の主に向けられたものとは言えないか。

しかし、ほとんど会話した記憶はなく、お互いに好意を持っていたはずの久美子が、40年近くの時を経て掛かってきた電話に、いきなり不快を示す理由は見当たらない。

理由を見つけるとしたら電話の内容に探るしかないのだが、いかんせん記憶が曖昧だ。

 

青空文庫のリストから夏目漱石の“こころ”を選択。タイトル画面を開いたものの、電話の記憶が気になり読み進めることができない。体には気だるさが戻ってきている。横になりたいくらいだ。

キーボードに両手を乗せ、その上に右頬から頭を置く。左の就活生の掻き上げた髪が右耳を露わにしている。ピアスはつけていない。横顔は髪に覆われ見えない。

 

同じクラス、左に2列離れた席の久美子の横顔が懐かしく、眩しく思い出される。中学1年の時だった。いつも窓からの光を左から浴びていた久美子の横顔は、額、鼻先から顎への輪郭が陽に煌き、右頬の陰影を魅力的に際立たせていた。

特に目が離せないのは、教師のつまらないジョークにも快活な笑いで反応する時の久美子だった。

日差しの強い日はなおさらだった。無用心に大きく開かれる口が、輪郭の動きで見て取れる。笑い終わった時が見逃せない。右頬の陰影の中に浮かぶ小さなえくぼは、ひょっとすると、まだ他の誰も気づいていないかもしれない。

初恋を意識した。そしてある日、視線に気づいた久美子が振り向き顔を赤らめた時、初恋は半ば成就したと思った。

三年生の秋、体育祭の準備で同じチームとなり、初めて会話らしい会話をした。彼女の好意を確信した。

           Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyの個人ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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