昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との二泊三日 ⑧

2017年09月02日 | 日記

「まず、君は“定型化の罠”って言葉を使った。その言葉について聞きたいな」

「どんな話題の時に使った言葉でしょう。話題が惹起させた言葉かもしれないですね」

「それははっきりしない。はっきりしていたとしても言わない。だって、話題に応じて浮き沈みするような言葉だとは思わなかったから」

「じゃ、せめて“定型化の罠”って言葉を僕が使う直前、ナオミさんが口にした言葉を……」

「覚えてない」

「随分こだわるんですねえ、“定型化の罠”に」

「気になった言葉をないがしろにしないことにしてるんだ、私。気になった理由を自分の中に見つけたいし、自分の中で見つけることが出来なかったら、気になった言葉を使った人にその言葉を使った背景を教えてもらって自分の中に取り込まなくちゃいけないし」

「言葉を大切にしてるんですね。でも……」

「ううん。そうでもないよ。バラバラと降ってくる水滴を雨だと認識するようなもんでもあるでしょ、言葉なんて。たった一つのことを伝えるためにたくさんの言葉を使わなくちゃいけない時がある。でも、それは言葉の一つの側面。たった一つの言葉だけど、多種多様な意味や、場合によっては時間や経験まで練り込まれてる場合もあるでしょ」

「思考や経験が一つの言葉に収斂されていくという……」

「そう。あるいは収斂と言うよりも“降りて来る”というような。啓示は特別な人だけが受ける権利を持っているものじゃなくて、誰にでも訪れるものだと思ってる」

「それは同意します。でも、そこまでの……」

「言葉じゃない、と言いたいんだよね、“定型化の罠”って。そうかもしれない。でも、いいんだ、そうであっても。私にとっての価値は私が判定するから」

「わかりました。確かに、僕が気に入ってる言葉なんですよね、“定型化の罠”って。ただ、言葉にもTPOがあって、色んな衣装を纏っていたりする。骨格は変わらなくても肉付きが変わったりするし、顔付なんて化粧次第だし……」

「もうもう、いいから。……隆志君、本当はどんな場面でどんな意図を持ってその言葉を使ったのか、覚えてるな。だから、改めて私を目の前にして言いたくないと……」

「そんなことはありません。本当です。誤解があってはならないと思っただけで」

「人は己を以て人を量るって言うじゃない?言葉もそう。基本的に誤解なんてない。人が自分の想定通りの解釈をしてくれてないと判断した時に“誤解だ!”って騒ぐだけ。……会話って、二人の間にどちらかが提出した言葉をお互いがどう思うか、どう判断するか、それぞれから見える側面を通して語り合うことでしょ。私と隆志君の間の空中に、“定型化の罠”をポンと浮かせてみない?」

「了解です。じゃ、誤解を恐れずに……。体験したことから」

小学校6年の時、同じクラスにAという男の子がいた。みんなから少し煙たがられていた。普段はさしたる問題もない普通の子なのだが、気が短い所があるのが玉に瑕で、一旦怒りに火が付くと止めようがなくなった。何が彼の怒りを誘発するのかもわからなかった。ある男の子は、学校帰りに肩を組んだ瞬間に殴られた。また、ある女の子は「消しゴム貸してあげようか」と言った途端、胸倉をつかまれた。

ある日、“貧しさが原因かもしれない”と、Bが言い始める。見ていて危なっかしいほど世話好きな男の子だった。彼はわざわざ帰宅するAを尾行し、Aの家を確認。“貧しい家には見えなかった”とクラスメイトに報告した。

数日後、AとBが喧嘩を始める。現場は手洗い場の脇。一部始終を見ていた女の子によると、BがAに自分の使っていた石鹸を渡した瞬間、Aの何かがキレたようだという。駆け付けた数人でなんとか二人を引き剥がした時、女の子からの通報を受けた担任が飛んできた。

二人に担任が喧嘩に至った理由を訊くが、黙りこくったまま動かない。業を煮やした担任は二人を強引に教室に連れて行き、三々五々教室に戻ってきたクラス全員を席に着かせた。

担任は教壇の前で二人を向き合わせ、こう言った。

「喧嘩したいんだったら、さあ、みんなの前でやれ!さあ!」

AとBはピクリとも動かない。

「さあ、ほら!」

教師は二人の腕を掴み、それぞれが相手を殴るように促す。クラスを静寂が包み、全員が固唾を飲む音が聞こえるようだった。

「ほら!ほら!」

明らかに苛立ちを見せながら、担任は二人に拳を握らせる。

「ほら!ほら!喧嘩してみろよ、みんなの前で」

二人の握った拳をそれぞれの顔に近寄せ、担任は軽く殴ってみせる。

その瞬間、Aがキレた。担任の手を振り払い、Bの顎にフックを見舞う。Bは大きくよろめくが、なんとか踏みとどまった。立て直したBに、すかさず担任が言う。

「ほら、B.今度はお前の番だ。さあ、殴れ!ほら、殴れ!」

俯いて痛みに耐えているように見えたBが、意を決したように構える。

隆志は、きっと精一杯のパンチをBは繰り出すのだろうと思った。と言うより、心からそう願った。おとなしいBの反撃によろめくAを見たかった。しかし、Bが突き出した拳はAの胸を撫でるように押しただけだった。次の瞬間、AのパンチがBの腹をえぐった。Bは呻き声をあげて身を屈めたが、今度もなんとか持ちこたえた。すると担任は“やられてばっかりじゃダメだろう!さあ、思いっきり殴れ!さあ!”とBを煽った。でも、同じだった。Bの拳は遠慮がちにAの胸を撫で、Aのパンチは容赦なくBの腹をえぐった。そんな“悲惨な喧嘩”はクラス全員の前で、Bが屈辱の涙をこぼすまで続いた。

「よし、もういい!」

担任の一言で、とっくに決着は付いていた喧嘩に終わりが告げられる。

Aは胸を張って席に着き、Bは嗚咽を漏らしながら自分の席まで移動して行く。その嗚咽は、クラス全員の心を締め付けた。女の子の押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。

教壇に立った担任の「さ、みんな!」という声に、Aの横顔を盗み見ていた目を向けた。

「見ただろう、みんな。喧嘩は本当につまらないものだ。買っても負けてもいいことは何もない。喧嘩に勝者なし!わかったな」

担任は微笑んでいた。“いい教訓を与えてやった”と言わんばかりの傲岸な微笑だった。


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