昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑤

2017年01月20日 | 日記

4月になった。

勉強しなければ、と思う心に反して、気力は生まれてこなかった。このまま気力なんて完全に喪失してしまうのではないかとさえ思った。

寝転び天井を見つめると、想い浮かぶのは初恋の人と会ったごくわずかの時間と、啓子と過ごした2時間のことばかり。突然背中を突き抜ける不安に襲われても、身体は敷きっ放しの布団にだらしなく沈みこんだまま。どこか確かな処へ向かって動く気配も見せない。そんな状態だった。

4月6日。啓子から手紙が届いた。便箋2枚の短いものだった。好奇心と意欲に溢れている彼女の状況が僕への気遣いで抑制された文面の向こうに見て取れた。

その日の夜、返事を書いた。書いては書き直しを繰り返し、書き終わったのは明け方だった。

翌日、うたた寝から覚めて読み返した。ひどくがっかりした。僕の手紙は、冷静を装うプライドと自己撞着の繰り返しだった。破り捨てようと手にかけたが、思い留まった。ひょっとすると、今の僕を最も鮮明に映し出している手紙じゃないか。啓子はこれを読んで、それでも、今の僕を受け止め応援してくれるだろうか。それを見届けることが、この手紙が持っている意味ではないか。などと思ったからだった。

思い切って投函して1週間後、返事が着た。僕のプライドや自己撞着はさらりとかわし、女子大の女子寮という、共学育ちの啓子には無縁だった世界のおもしろさが綴られていた。そして、アナウンサーになる夢に向かっていく自らの決意と、僕への激励で締められていた。

読み終わり、僕はいささか不満だった。僕が行間に込めたはずの啓子への想いや、京都で一緒に過ごした2時間には一切触れられていなかったからだ。さらには、僕のプライドや自己撞着をさらりとかわした、その背景に“今の栗塚さんは普通の状態ではないのでは?”という疑念と気遣いをそこはかとなく感じたからでもあった。

これはまずいぞ、と僕は思った。二人で一年育んできたはずの関係と、僕自身の中で育ってきている啓子を愛おしく想う心が萎んでしまう、と思った。僕はその夜、また手紙を書いた。

“僕は、高校生であろうと浪人生であろうと、たとえ大学生になろうと、僕自身として変わることはない。そう思っている。持ち物や環境や肩書きで人に対する感情が変わるようだったら、その感情は人に向かっているものではないと思う。僕は、高校生だった君も京都に立ち寄ってくれた時の君も、そして来年東京で会うことになるはずの大学生の君も、変わらず気に掛け続けると思う”。そんなことを書いた。

そして、一度読み終わり、最後に“と、今は信じています。”と書き足した。書き足してすぐに後悔したが、そのまま封筒に入れて念入りに糊で閉じた。

銭湯の先のポストに投函した。手紙がパサリと落ちる音がした。思い切り投げた小石が遠くの川面に落ちたような、微かな音だった。波紋は小さく、こちらの岸までは返ってこないような気がした。

返事は来なかった。じりじりと10日間待った。そして11日目の午後、もう返事が来ることはない、と思うことにした。しかし、そう思おうとすればするほど、憶測が憶測を生み、僕を苦しめた。

僕はもう一度手紙を書いた。深夜まで書き続けた手紙は、分厚いものになった。しかし、その手紙を僕は投函しなかった。読み返してみて、投函できる代物ではないと思ったからだった。

その手紙は、啓子のことを語っているようで語っておらず、理解しようというよりも理解して欲しいという身勝手な要求だけに満たされていた。自己憐憫や羨望が根拠のないプライドに包まれているようにも読めた。

すべては僕の心の芯が定まっていないからだ、と僕は思った。心の寄る辺がなく、視線を注ぐ確かな対象がないからだ、と思った。ふわふわと流れながら、取りつく島を漠然と探す小枝のようだ、と思った。僕が彼女だったら、こんな手紙の主は手紙と一緒に千切り捨てることだろう……。

それから一週間、電気ポットの水と食パンとココナッツサブレを枕元に、ほとんど外出することもなく過ごした。するとやがて、頭の中を漂っていた言葉の渦が“自立”という2文字を形作っていた。僕はまず自活の道を探ろうと思った。その想いに駆られるように日記を書き始めた。

そして、僕自身の中に起きつつある変化の兆しを逃してはならない、そう決意して行動を開始した。その直後に出遭ったのが新聞配達だった。

自堕落な生活が身に付いてしまっている僕の心配はただ一つ。起床時間だけだった。が、それを僕以上に心配してくれたのは、下宿のおばあちゃんだった。新聞配達を始めることを知り「ちゃんと起きるんやで。頑張ってな」と励ましてくれたおばあちゃんは、初日の朝、悪い足を引きずりながら二階まで起こしに来てくれたほどだった。

そのお蔭で、初日から遅刻という失敗をすることもなく、僕の新聞配達はスタートした。

                   Kakky(柿本洋一)

  *ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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