昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑥

2017年01月22日 | 日記

「さ、行こか~!」。

自分の配達を早めに終えたカズさんは、僕が販売所に到着するやいなや僕の尻をポンと叩いた。彼が乗った自転車には、僕の配達分と思われる新聞の束が載っている。

「付いといで!」

言うが早いか、カズさんの自転車は北山通りを突っ切り、鴨川沿いの道を下っていく。振り向きもしない。後を追う。朝の冷気が頬に心地よい。

「まず、ここに半分置いておくんやけど、雨の日は‥‥、ま、それはまた終わってからにしようか」

そこが、配達の中間地点らしい。僕のエリアは戸建てばかり。210部全てを一度に抱えて走るのは厳しい。最初に半分を中間地点に自転車で運んでおき、それからスタート地点に向かうという手順だ。

半分を道路脇に置き、北山通りから一本南の角に戻る。スタート地点だ。京都新聞の文字とマークの入った真新しい帆布と肩掛け紐を渡される。

「新しいのにしてもろうたんや。頑張ろうな」

カズさんは、慣れた手つきで100部余りの新聞を帆布でくるりと丸め、結んでぶら下げた僕の肩掛け紐の輪にひょいと差し込んだ。

「よし!重いか?」

「いいえ。そうでも‥‥」

「日曜日は日曜版のせいで倍くらいになるけどな。でもまあ、配れば減っていくもんやから。さ!行こうか~~」

僕はまた尻をぽんと叩かれ、走り始める。カズさんの厚底のシューズの音が、キュッキュと後ろから付いてくる。向こうには北白川通りが朝靄に霞んで見える。

「始まりだ!自立だ!」

僕は心の中で叫ぶ。

「最初は、佐伯!」

勢いよく走っていく僕の足をカズさんの声が止める。最初のポストを通り越していたようだ。カズさんは、手元の地図を見ながらの伴走。初心者には初心者のスピードがあると心得ている。

「もう少し速うてかまへんよ」

極端にのろくなった僕を、カズさんが笑う。

「次,堀田。その次、谷水‥‥」

東西一筋を配り終わる頃には、カズさんとの呼吸も合ってくる。しかし、カズさんは時々足踏みをして待たなくてはならない。僕が家々のポストの違いに戸惑い、新聞をすんなりと入れることができないからだ。

「ちょっとタ~~イム」

カズさんの声に立ち止まる。

「畳み方教えてへんかったなあ。2種類覚えとこうか。それで、どんなポストもいけるから」

畳み方は、正方形と細長い長方形の2種。カズさんは、左手の親指と人差し指で新聞を挟んで折り目を付け、素早く畳んでみせる。新聞がキシッキシッと音を立てる。プロの音に聞こえる。

同じようにやってみる。音は出ない。

「さ!走るで!」

走り出したカズさんを追い、追いつき追い越す。

「ほれ!佐古田!」

慌てて足を止める。ポストの口が小さいことを確認。新聞を長方形に折り畳む。長方形の角でポストの蓋をコツンと押し、中に押し入れる。スムーズだ。

振り向くと、カズさんは足踏みをしながら微笑んでいる。

「さ!次やで!‥‥榎木!」

僕はまたカズさんを追いかけ、追い越す‥‥。

そうして走り続けて、1時間半。春の朝の冷気に身震いしていた身体からは汗が湯気となって立ち上り、脇にした帆布は空っぽになっていた。爽快だった。

それから以降も順調だった。カズさんの予言通り、一週間後には配達先をほぼ覚え、さらに一週間後には、次のポストの口に合わせて自然に新聞を折ることさえできるようになっていた。新聞を折る音も小気味よいものになっていた。配達時間も10分以上短縮されていた。

 

販売所の仲間とも打ち解けていった。

いつも僕より早く配り終わっているのは、3人。大沢さんと桑原君は、販売所2階の住み込み。大沢さんは愛媛県出身の26歳。司法試験浪人で、4回連続一次試験で落ちているらしかった。桑原君は大阪出身。僕と同い年で、やはり3度目の大学受験を目指している。

とっちゃんは、近くのアパートでおかあさんと二人暮らし。僕と同い年だが、僕よりも少し早く20歳を迎えるようだった。

僕が帰ってきて、まず目にするのはとっちゃん。初めて販売所を訪れた時のように階段の下から三段目にいつも陣取っていて、僕が玄関の引き戸を開けるなり、明るく元気に迎えてくれた。

「グリグリ~~!お疲れ~~!」

その甲高い大声に一瞬戸惑う僕に、階段下に並んで座る桑原君と大沢さんは必ず苦笑いを見せた。

とっちゃんの足元には、販売所のおばちゃんが毎朝用意してくれるお盆一杯のお菓子。

「まあまあ、こっち来て食べたらええがな」

とっちゃんは、お盆を持ち上げ抱きかかえるようにして、手招きをする。

「うん。ありがとう」

礼を言って近づく。どこか釈然としないが、とっちゃんはご機嫌だ。うれしい時の笑い声をグヒグヒと漏らしながら、僕の目の前にお盆を突き出す。

「好きなもん食ってええんやで」

そう言いながら、僕が手を延ばすとお盆を少し傾け、微かに回転させる。明らかに特定のものを手に取らせようとしているのがわかる。

「ありがとう」

もう一度礼を言い、おかきを数個手に取る。

「そんだけかいな。もっと食べえな」

面倒見のいい先輩の顔で、とっちゃんは口を尖らせる。が、お盆はもうしっかり彼の胸の中に戻っている。

「とっちゃん!独り占めにしたらあかんえ」

そう言いながら、おばちゃんがお茶を運んでくる。

「してへんがな。気い悪いこと言わんといて。グリグリが欲しがらへんだけや。なあ、グリグリ~~」

開いた脚の間にお盆を下ろし、尖ったままの口をおばちゃんに向ける。お盆の向きは微妙に変えてあり、僕の側にピーナッツがきている。

「そうなんですよ。ね!とっちゃん」

湯飲みを受け取りながら僕がそう言うと、窺うように見ていたとっちゃんの目が緩む。

「グリグリ、まだ緊張してるんちゃうか~~?」

とっちゃんはゆったりと、タバコに火をつける。

「とっちゃん。灰皿あるか?灰落としたらあかんで」

おっちゃんがタイミングよく声を掛ける。

「わかってるて、おっちゃん。ほれ!」

大きな灰皿を片手でわざとらしく持ち上げ、タバコの灰をポンと落としてみせる。

「そうや。それでええんやで。こぼさんようにな」

おっちゃんはそう言って、奥に消えていく。

「おっちゃんにも困ったもんやで。なあ、グリグリ」

とっちゃんは大げさに眉を顰め、深く咥えたタバコを一息吸うと、ブゥと煙を吹き出す。

そんなやり取りが終わる頃、勢いよくスーパーカブを唸らせて帰ってくるのがカズさん。

住宅開発著しい北山通り北側から松ヶ崎あたりまでを一人で担当しているカズさんの配達に要する時間は2時間以上。いつも帰ってくるのは一番最後にならざるを得ない。

カズさんは帰ってくると必ず同じ台詞を口にした。

「とっちゃん、お菓子独り占めにしたらあかんで~~」

ガラス戸が開いた瞬間にもう腰を浮かせているとっちゃんは、それに対して決まってこう返した。

「誰も欲しい言わへんねんもん。いつでも分けたるでえ、わし」

そして、

「グリグリ~、グワグワ~、オオさ~ん、食べるか~?」

とお盆を差し出すのだった。

桑原君と大沢さんはそれを機に手を延ばし、僕にさりげなく目配せをする。

元はと言えば、販売所のおばちゃんのささやかなねぎらいのお菓子。そこに小さな欲が絡んだところで目くじらを立てるようなことではない。二人の目配せは、僕にそう伝えているように思えた。

大沢さんと桑原君それぞれの個性はまだ掴めず、二人の関係も未知数だったが、同じ職場で働く者としての二人の適度な気遣いは心地よかった。

そうして2週間が淡々と過ぎ、仕事にも仲間にも慣れた5月4日。休刊日を前にして、僕と大沢さんの関係は進展を見せることになった。

                   Kakky(柿本洋一)

  *ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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