昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

風に揺れる蛹 ⑥

2017年06月07日 | 日記

4日前、自宅のある高層マンション近くの図書館のトイレの入り口でのことだった。向こうからやってくる彼と目が合った時は、身がすくんだ。

遠目にも上質な素材だとわかるネイビーのスーツ。敢えてグレーに染めたのではと思われる、艶やかに整った髪。ふわりと掻き上げた前髪の下にはメタルフレームの眼鏡。明らかに見かけたことのある紳士だった。

見かけただけではない。挨拶さえ交わしたことがある。間違いなく、同じ高層マンション。それも上層階の住人だ。

トイレに素早く逃げ込むべきだと思ったが、あまりの意外さにノブを手にするのが遅れた。

ドアに正対し、一度飲んでしまった息を吐き出した瞬間、横目に映っていた彼の歩みが止まった。遠目には自負心と誇りにスキっと伸びているように見えた背筋が、心なしか前屈みにへこんでいる。

キュッキュと皮底らしい音を響かせていた靴音のリズムが途切れる。声を掛けるべきかどうか。彼の躊躇が衝撃波のように伝わってくる。

どのような挨拶の言葉が投げかけられてくるのか。どんな言葉を返すべきか。ドアノブを握ったまま、身を固くする。

と、次の瞬間、衝撃波は消えた。靴音はリズムを取り戻し、左横から背中へ、そして右横へと移動していく。

ふうと息をつき右へそっと目をやると、自負心と誇りを取り戻し歩く彼を中庭からの初夏の陽がくっきりと照らし出し、右手のブリーフケースがブランド物らしい輝きを放っていた。

中層階の住人と高層階の住人の、ありうべからざる、あってはならない場所での遭遇。それがきっかけで何かが生み出されることもない不測の出会いを、二度と起きないものにしてしまわなくてはいけない。やっと入ったトイレで用を足しながらそう思った。

だからこその、区立図書館への行き先の変更。住まいのある高層マンションから地下鉄で6駅。ここまで離れれば大丈夫と思った場所だった。

 

ただ、用心はするに越したことはない。あの男が、同じように考え、同じコースをトレースするかのようにしてここへ辿り着いたとしても不思議ではない。人が考えることに大差はないのだから。

物陰、人陰を選び、気配を消し、ただただパソコンに没頭する中年男になり切らねばならない。

踊り場から首を伸ばし、3階に到着後は顔を伏せ気味に、しかるべき席を探す。

すぐに見つかった。若い女性二人連れの向こう、窓側の席。絶好のポジションだと思われた。

二人の横をすり抜ける。女性二人の間に会社四季報が見える。就活中の女子大生なのだろうか。何か熱心に調べているようだが、付け焼刃の匂いが漂っている。さして真剣でも、深刻でもない。隣席の主としてはうってつけだろう。

目星を付けた席に陣取る。就活生たちとの間には一席の空席。まさにお誂え向きだ。東向きの高い窓からの陽射しも心地良い。

バッグを横倒しに置き、ノートパソコンを出す。弁当がつられて出てきそうになる。押し戻すと、抗うようにハンカチの結び目がバッグの口に引っ掛かった。さらに押すと、ゆるく結んだらしい結び目が解けそうになる。やむをえず、弁当には顔を半分出させたままにしておき、ノートパソコンを引っ張り出した。

パソコンを開いたところで、ネットサーフィンをするわけでもなし、仕上げなくてはならない書類があるわけでもない。電子ブックを読むだけのこと。

青空文庫から無料でダウンロードした、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎といった文豪たちの名作にもう一度触れてみようとしているだけだ。時間だって、たっぷりある。

            Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyの個人ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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