昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ④

2010年11月12日 | 日記

お菓子を食べる合間に、“おっさん”から聞いたという話を、とっちゃんは披露した。おっちゃんは販売所の所長。おばちゃんはその夫人。おばはんは母親。と、微妙に使い分けているとっちゃんの“おっさん”が誰なのかわからず、最初は戸惑った。

僕の怪訝な顔付に気付いたおっちゃんが、とっちゃんが帰った直後に説明をしてくれた。

しかし、「とっちゃんは、母一人息子一人やから、“おっさん”いうのは、近所の人やと思うんやけどなあ。誰なんや?その“おっさん”いう人は?言うても、ニタニタして教えてくれへんのや。カズさんは、いつも行ってる銭湯で会う人やないか、言うんやけどなあ」と、はっきりとはしてないようだった。しかし、“おっさん”がとっちゃんにとって特別な存在であることは、その話しぶりから窺い知れた。僕は、“おっさん”に興味が湧いた。桑原君も大沢さんも、その人物像が気になっているようだった。

数日経つと、僕たち3人は、“おっさん”の話題で盛り上がるようになった。とっちゃんから聞こえてくる“おっさん”の言葉には、不思議が一杯詰まっていたからだった。

大沢さんはまず、とっちゃんが“おっさん”を信頼するに至った経緯を、語ってくれた。それはちょっと悲しい物語だった。

 

とっちゃんのお父さんは、とっちゃんが小学校に入って間もなく家を出ていった。それからは、お母さんが女手一つでとっちゃんを育てた。販売所のおっちゃんが「ウチで配達でもさせてみたらどやろ?」とお母さんに提案したのは、とっちゃんが中学校を卒業した時。カズさんにとっちゃんの将来を相談したお母さんの話を耳にしたからだった。

とっちゃんはヤル気満々で現れ、「配るだけやろ。簡単、簡単。任しといて」と豪語したが、カズさんの付き添いなしに配り終われるようになるのに2ヶ月、欠配がなくなるのにはさらに1ヶ月を要した。

給料日に初給料を受け取った時のとっちゃんの喜びようはなかった。封筒に入った2万円弱の給料をゆっくりと数えて確かめ、丁寧に封筒に戻すと、ポケットから布袋を取り出し、その中に入れた。

「通帳入ってんねん。おかんが作ってくれてん」と、うれしそうに布袋を振って見せた。「印鑑も入ってんのか?落とさんようにしいや。おかんに何か買ってあげへんのか?」とおっちゃんが聞くと「全部貯金すんねん」と、とっちゃんは布袋をポケットに戻し、「おかんに預かってもらうんやで~~」と追いかけるおっちゃんの声に手を振り帰って行った。

それから2年後。とっちゃんはふと嫌な予感がした。お母さんが働きに出た後、箪笥の引き出しから布袋を取り出した。通帳を開くのは2年ぶりだった。とっちゃんは、目を疑った。残高は、ゼロだった。

翌日からとっちゃんは、変わった。お母さんを“おばはん”と呼ぶようになり、配達後に出てくるお菓子に異常な執着を見せるようになった。

そのしばらく後に住み込みになった大沢さんは、「母親に裏切られた思うてる子やから、多少のことは我慢したってな」と、おばちゃんに言われたという。

とっちゃんはしばらくの間、口数も少なく険しい顔つきになっていたが、ある日ふっ切れたように笑顔と饒舌を取り戻した。その時の話題の主が“おっさん”だったのだ。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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