昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ⑪

2010年12月06日 | 日記

大沢さんが「みんな、学生ではありません」と応えると、“ぽっこり”はもう一度鼻まで水中に没し僕たち全員をねめまわしたかと思うと、また口に含んだ水をプイと吹き出し、「そうか~~。学生ちゃうんか~~」と言った。

「二人は浪人ちゃうか?もう一人は、もう大人やもんなあ。何かあるんやろう」。水から上がり横に座った“ぽっこり”に“長髪”が訳知り顔を向ける。桑原君はそんな“長髪”に興味津々らしく、折られたという腕の傷跡と顔を交互に見遣っている。

「僕とグワグワは、まあ、浪人中という感じですかねえ」。頭を掻きながら僕が言うと、“筋肉”が僕の出身地を聞いてきた。「島根県です」と答えると、「ああ、北陸かいな。そら、寒いとこやなあ」と反応した。“白髪”が即座に「アホか!山陰や。山陰言うてもわからんやろうけど…」と口を挟んで笑ったが、僕たちは笑えなかった。

次いで、“筋肉”の故郷自慢が始まった。だが、「高知県なんや、わしは。高知県言うたら、坂本竜馬と横山やすしや!知ってるやろ?」「知ってますよ~~」「あと、鰹と酒。これも知ってるわなあ」「知ってます」と、さっさと終わってしまい、困ったのか“白髪”の話題に切り替えた。

「このおっさんが、現場で一番偉い人やねん。年やからちゃうで~。何でもよう知ってはんねん。なあ、おっさん」。肩を音高く叩かれ少し顔を顰めながら“白髪”は「小さな工務店やってたからなあ」と呟いた。すかさず“ぽっこり”が、「俺の社長だった人や。今でも面倒かけてるけどな」と、また水中に首まで浸かりながら言葉を継いだ。

やむをえず“白髪”は自らの過去に触れたが、言葉少なだった。“白髪”は戦後間もなく、空襲で亡くなった父親の跡を継ぎ、工務店の三代目社長となった。戦後の復興需要と高度経済成長のお蔭で、経営は順調に推移。数人の職人だけだった会社は数十名の社員を抱えるに至った。個人住宅主体だった受注も拡大。ビル建築まで請け負うようになった。そんな折、大手ゼネコンから提携の話が舞い込んだ。

「まあ、要は、下請けにならへんか、いう話や。仕事は約束する、言うんやけどな。わし、人のけつにくっつくのは嫌や、言うてな、断ったんよ。……で、まあ、いろいろあってな。わしが、追い出されてしもうたんや」

詳細は語らなかったが、どうも裏切りにあったようだった。会社を乗っ取られたのではないか、と思われた。“ぽっこり”の悔しそうな横顔に、そのことが窺えた。

“白髪”は咳払いをし、「もう電気はええ。頭がピリピリしてきたわ。出ようか~」と電気風呂を出て振り向き、「兄ちゃんら、まだ身体洗うてへんやろ。ゆっくり洗っといで。脱衣場で待ってたるし。コーヒー牛乳でもおごったるし、な」と、さっさと出て行った。

“筋肉”はウィンクをし、“ぽっこり”は身を屈めて「な!ええ人やろ」と小声で自慢し、“白髪”を追って行った。電気風呂には、僕たち4人と“長髪”が取り残された。

 

僕たちの間に、奇妙な沈黙が訪れた。1~2分は我慢したが、それが限界だった。僕は「大沢さん、洗いましょうか~~」と言って先に出た。大沢さんは付いてきたが、桑原君は“長髪”に話かけられ、電気風呂に残っていた。その時になって、とっちゃんがいないことに気付いた。首を伸ばし探すと、脱衣場にいた。“ぽっこり”に頭を小突かれながら笑っているのが見えた。

僕と大沢さんは、とりあえず身体を洗うことに専念することにした。大沢さんは、シャンプーの合間に「大変だったみたいやねえ、あのおっさん」とだけ、僕に言った。僕は桑原君が気になって仕方なかった。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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