昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   雨の術後 ③

2010年10月11日 | 日記

病院に到着。足音を潜めながら、階段を急ぐ。階段と廊下には、夕食の喧騒の余韻がまだ漂っている。病室にそっと入る。親父は、小さく口を開けて熟睡中だ。病室の奥、ソファの上にポーチを置き、ベッドの左側から親父を覗き込む。

入れ歯のおかげで、親父はいつもの親父の顔に戻っている。厳格でお人よし、照れ屋でプライドが高く、どこか甘えん坊な親父の顔だ。

ひとしきり親父の顔を見つめた後、一晩を過ごす準備に入る。文庫本はTV台の上に。ラジオは枕元に。枕の位置、形。毛布の収まり方……。一度潜り込んでみる。よし!

親父はまだ起きないと見て、売店へ。夕食、夜食の準備をしておかなくてはならない。夜は長くなるはずだ。

店じまい寸前の売店で、たった一つ残った弁当と、缶入りの緑茶と紅茶を購入。夜食用の軽食は諦める。休憩コーナーに立ち寄り、立て続けにタバコを2本吸う。雨音を聞きながら、ゆっくりと病室に戻る。

 

病室に入ろうとすると、中から人の気配。ドアを開け中を窺うと、主治医と看護師がいる。なぜ、わずかの間病室を出ている間に……。と思いつつ、弁当と飲み物の入った袋を後ろに回してしまう。

「順調ですね。まだ熱はありますが、あまり心配はいらないでしょう」と、主治医はにこやかだ。看護師も主治医の言葉に頷きながら微笑んでいる。

「そうですか。ありがとうございます」と、頭を下げる。背中に回した袋ががさつく。そっと前に回しソファの上に置き、再開された診察を見守る。ガーゼの下から現れた親父の手術痕が目に入る。大きく、痛々しい。

よりよくなるためには、時には傷つかざるを得ないこともあるんだなあ、と思う。それにしても、親父は78歳。払える犠牲にも限度がある。親父が摘出したのは肝臓癌だけでは、きっとない。貴重な残りの生命の一部も摘出したんだ、と思う。

診察が続く中、親父に近付き、そっと額に手を置いてみる。親父の目が一瞬僕を捉え、すぐに天井の一点に向けられる。厳しく、強い目線だ。気力まで奪われたわけじゃない、と言っているかのようだ。

「後は看護師がやりますから…。大丈夫です。順調です。何かあったら、できるだけ早く連絡してください」「わかりました」「じゃ、お大事に」「ありがとうございました」と、主治医と看護師を見送る。

と、突然「洋一!」と親父の声。「何?」と応えると、「お前、晩飯は?食ったんかい?」ときた。「弁当買ってきたから大丈夫!」と面倒くさそうに応えると、「弁当じゃあ、足りんで。足りゃあせんじゃろうが」としつこい。「平気、平気!」と言うと「いやあ、足りん、足りん」と粘る。「足りるって!」とうるさそうに言って、ふと気付く。

過分でうるさいまでの気遣いの言葉は、ひょっとすると、自らの内にある不安と闘うための方便かもしれない。だとしたら、いやそうではないとしても、今はともかく眠ることだ。

「もうええから、飯食ってホテルで寝りゃあええのに」とまだ呟く親父の頭を、黙って撫で続けることにする。「弁当じゃあ、お前、腹が……」と、目をつむりながらまだ喋ろうとしていた親父の言葉が急に止まる。それが、2~3分で寝息に。さらに2~3分でいびきに変わっていく。思わず心配になるほどの大きさだ。

そっと手を離すと、雨の音が一段と強くなっていることに気付く。静かに窓を開けてみる。尋常な降り方ではない。病院の壁に雨粒がぶつかり、砕け散っている。2階の小さく突き出た屋根の窪みは大きな水たまりになり、次々と降り注いでくる大きな雨の一粒一粒に、激しく揺らめいている。

“親父の“やらずの雨”だなあ、きっと“と思いながら、僕はしばらくただ茫然と、暗く激しい雨の景色を眺めていた。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


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