夏美さんの豹変
風呂敷包みを預かった翌朝、桑原君はその存在の重さを思い知らされる。簡易宿泊所に隠し場所はなく、持ち歩いていては仕事にありつけない。持って外に出てみたが、どうしていいものやら、まるで思いつかなかった。
風呂敷包みを小脇に、朝まだ早い路上に立ち尽くしていると、三々五々宿泊所から出てくる人たちの眠そうな目が、必ずと言っていいほど風呂敷包みに止まるのも気になった。
小杉さんは風呂敷包みを捨てることにさえ困り、預けるという形で所有するリスクを投棄しようとしたのではないか……。
桑原君の中にある小杉さんへの厚い信頼を、その風呂敷包みは崩し始めていた。
「どないしたんや。急がんと、あぶれてまうで」
簡易宿泊所の向かいの男が声をかけてきた。思わず胸にした風呂敷包みを見咎めるように立ち止まり、「なんや、引越しか」と言ったが、その目にはそれまで見たこともないような輝きがあった。
「神戸行こうかな、思うて」
その輝きに邪悪な匂いを察し、桑原君はその場から逃げるように走り去った。そして、それから約1か月間、大阪~京都と知り合いを尋ねて転々とすることになった。
「どっかに捨てよう思わへんかったの?」
「それはできひんかったなあ。不思議やろう?おかしな話やもんなあ。せやけど、いつも抱えてると、それが俺の何年かが凝縮したものに思えてきて……。小杉さんの骨壺のような錯覚もしてきてなあ」
「開けてみたらよかったんちゃうの。本当の姿を見れば、錯覚なんか消えてまうんちゃう?」
「そう思うやろう。そう思うのが普通かもしれへんけど、3日もすると怖くなってくるんやなあ、これが。結び目を解こうとしたこともあるんやけど…」
桑原君は一瞬思い出す風情になったが、すぐに顔を上げた。
「夏美さん、開けてみたんやろか?あの人やったらできそうやもんなあ」
彼がそう言って僕を見た時、その頭の向こうに近づいて来る夏美さんが見えた。ダウンライトの影になっているその表情には、怒りが混ざっているように感じた。それまで見たこともない表情だった。僕は桑原君の脇を小突き、顔で注意を促した。
「あんたら、まったく頭でっかちやなあ。さっさとやりたいことやったらええやないの?!学園闘争かて、恋愛かて!ぐちゃぐちゃ考えてばっかりで、聞いてて腹立つわ」
抑えた声だったが、その怒り様は予想外で、僕たちをうろたえさせた。
「同じとこグルグル回ってるだけやないの。悩んでるみたいなこと言うて、楽しんでるだけちゃうの?!本当は嫌なことは見たくない、いうだけのことやないの?!」
夏美さんはカウンターに身を屈めて僕達に顔を近付け、順に指差しながらそう言うと、身を起こして上から睨みつけるように僕達を凝視した。悪戯を叱責する教師のようだった。
顔を見合わせることもためらわれ、僕達はただただ夏美さんを見上げ、そのたぎった怒りが収まるのを待った。
しかし、1分も経たないうちに夏美さんは自ら怒りを鎮め、オールドの蓋を捻り始めた。僕達はやっと目を合わせ、“なんや?どないしたんや?夏美さん”と小さく首を捻った。
「あら?!なんや。もう空やったんやねえ。ごめん、ごめん」
僕達のグラスに注ごうとしたオールドを、最後の一滴まで絞るように振り、夏美さんは僕達の前から去った。その後姿は、まるで何もなかったかのようだ。
「なんやったんや?」
桑原君が夏美さんを振り返りながら、大きく息をつく。
「びっくりしたなあ。初めてやもんなあ、あんな夏美さん」
喉の奥に詰まっていた息を,僕も大きく吐き出す。
「僕達の話、聞いてたみ……」
桑原君の言葉を僕は、肘で突いて遮る。夏美さんがボトルを持って現れたのだ。
「ごめんね。ちょこちょこと聞こえてた話に、ついイライラしてもうたみたいやねえ。びっくりした?」
さっきの怒りの色はどこへやら、夏美さんはいつもの、明るいものわかりのいいお姉さんに戻っていた。手にしたオールドは新品のように見える。
「一本奮発するね、お詫びに。一緒に飲もう!」
まだ少し恐々な僕達にグラスを持たせ、夏美さんは自らのグラスを重ねる。
「ほら、私は“ちんちんがおしゃれな服着てギター持ってるような男”と結婚したでしょ、若い頃。それからいろいろあって小杉君やから、今度は“ちんちんが理屈言うてるような男”やからねえ」
グラス一杯のオールドを一気飲みすると、突然夏美さんの話は砕けた調子になった。どう対応していいかわからず、僕達はグラスを手にしたまま呆然と成り行きを見つめる。
「私はね、真っ直ぐな行動に弱いんよ。…女はみんなそうちゃう?違うかなあ」
応えようもなく、僕は曖昧に頷く。桑原君は、夏美さんを凝視したままだ。
「それが男らしいいうもんや、とは言わへんけど、待ってる側はイライラするし、行動しやすいように気い使うてあげると、肝心な時に立ち止まるやろう。そんなんされると、“もうええ!私がやる!”て、切れそうにもなるわなあ。……思い出してみると、何か決断した時って、いつも切れてただけのような気もするんやなあ。どう?柿本君」
2杯目も一気に飲み干し僕に向けてきた質問を僕は、僕が奈緒子にそうさせてしまっていたのではないのか、という詰問と捉える。
「僕からアクションを起こさないのはずるいんちゃうかなあ、とは思うてましたけど……」
「“けど”いうのは、これから自己弁護するでえいう合図や言うてたなあ、小杉君。本人が一番よく使うてたけどな」
夏美さんが微笑む。すっかりいつもの夏美さんに戻ったようだ。
しかし、桑原君は相変わらず凝視を続けている。警戒心が解けないのか、それとも何かを思いつめつつあるのか、その横顔からはわからない。
「いい方法教えてあげようか?私が長年かけて身に着けた方法なんやけど」
「ぜひ、教えてください。……でも、何の方法なんですか?」
「そうか。それ言わんとわからへんわねえ。……柿本君が“考え過ぎのちんちん”になってまうのは、相手を傷つけたらあかん思う気持ちがあるからやろう?でも……そうや、“でも”いうのは、これから本当の気持ち言うでえ、いう合図やとも言うてたなあ、小杉君。やっぱりよう使うてたけどな、本人が。……でも、ほんまに一番恐れてんのは、自分が傷つくことちゃうの?」
僕は一瞬返事に窮した。“そのとおりだ”という気持ちと“けど”と“でも”が心の中で戦っていた。
「相手のせいにしてるんちゃうの?結局、いつも。その方が楽やもんなあ」
やや意地悪にも見える目で見つめられ、僕はコクリと頷く。頷いてみると、その通りだと思った。
「いい方法いうのを教えてください」
僕が身を乗り出すと、桑原君の横目と出くわした。その目は、冷ややかだった。
「こういう風に話してくると、なんやあほみたいなことに聞こえるかもしれへんけど、“傷つくことを恐れない”いうことやね」
膝を折られたような言葉にきょとんとした目をしていると、
「なんや、そんなことか、思うやろ?ところが、これ、本当にやろうと思うと大変なことなんよ~~。痛みを感じなくなるんやのうて、痛みはわかりながら傷つくことを恐れないいうのんは」
「それ、方法いうより、目標ちゃいますか?」
桑原君が突如口を挟んでくる。
「そやね。そうかもしれへんね。……うん、きっとそうなんやね」
夏美さんはあっさりと同調し、疲れたような表情を見せる。すると突然、桑原君が僕を促し立ち上がった。
「突然お邪魔して、いろいろすんませんでした」
最早、身体は外へと向かっている。僕の肘が強く引かれる。事態の急変に戸惑いながらも、やむを得ず僕は、桑原君と一緒に出口へと向かう。振り返り夏美さんに声を掛けようとすると、彼女の横顔はすっかり沈んで見えた。
「あの~~」
僕よりも早く、桑原君が声を掛ける。振り向いた夏美さんはいつもの笑顔だ。
「風呂敷包み、やっぱり僕が持って行きます」
意外な言葉だった。しかも、夏美さんもあっさり「そうする?じゃ、待ってて」と、すんなり了承するや、そうなることを予測していたかのように、すぐに持って現れた。僕は、改めて風呂敷包みを見つめたが、その存在の持つ意味と重さを伝わってこなかった。ただ、桑原君がそれをどうしようとしているのか、気になってならなかった。今夜からしばらくは泊めてあげようと決めたばかりだった。
次回は、3月22~23日頃を予定しています。
*第一章:親父への旅 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7
*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981
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