昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ⑥

2010年11月19日 | 日記

左翼思想の持ち主と我々3人の間で決まった“おっさん”だったが、その発言は時として異質な雰囲気も漂わせた。

「欲張ったらあかん、言うんや、“おっさん”が。欲いうもんは、な~んもいいことないんやて。ない方が平和らしいわ」。

ポケットに入れたキスチョコのことを意識することもなく、したり顔で言い切るとっちゃんに笑いながら、僕たちはまた“おっさん”の誰たるかを話し合ったりするのだった。

そんな頃の大沢さんからの「とっちゃんは、一緒に遊んであげた方がええんちゃうかなあ」という話に、僕は乗った。遊んで親しくなれば、“おっさん”のことや給料の預け場所なども聞き出せるのでは、という期待が大いにあったからだった。

「何して遊びましょう?」と大沢さんに訊くと、「将棋がええんちゃう?」と応えた。その瞬間、桑原君はぶほっと飲みかけていたお茶を吹き出した。「まあまあ、一度やってみたら?」と、大沢さんは笑った。

 

翌日、早速僕は「とっちゃん、将棋好き?やるか?」と誘ってみた。「なんや、ガキガキ将棋すんの?ほな、しょうか~」。とっちゃんは即答だった。“おっちゃん”が「ガキガキ気い付けや~。とっちゃん強いで~~」と言うと、カズさんは「負け知らずやからなあ」と、目くばせをした。

階段を駆け上がっていくとっちゃんを追おうとすると、桑原君の声が「遊びやからな。遊び~~」と背中から追いかけてきた。

二階の北山通りに面して三つ並んでいる四畳半の、一番端の空いている部屋でとっちゃんは待っていた。西は鴨川に、南は北山通りを挟んで植物園に臨むという絶好の部屋だが、桑原君によると、「西日もろやからなあ。4月から汗だくやと、夏心配やろ。最初はええなあ思うてんけどな。替えてもろうてん」ということだった。

灰皿を横に胡坐を掻いて、駒をいそいそと並べ始めているとっちゃんに僕は、“相当強いんだろうなあ”と思った。負けた後のとっちゃんの言い様が気になったが、「遊びやからな。遊び~~」なのだから、と覚悟を決めた。

「わしからでええか~?」ととっちゃんが角道を開けて、対局は始まった。定石通りの手順でさっさと進んでいくのだが、とっちゃんは僕の一手毎に「そおか~~」「やるやないか~~」「そこ来るか~~」と大袈裟に首を振り、時には居住まいを正して盤を睨みこんだりしていた。

しかし、5~6分経つと、僕が首を振ることになった。とっちゃんは、すこぶる弱いのだ。順調に進んだ10手目くらいが終わると、もうバタバタ状態。何をしていいかわからないのでは、と思えるほどだった。

僕は、窓辺に並んで腰掛け盤面を見ている桑原君と大沢さんの笑顔に、小首をかしげながら両手を少し広げて見せた。僕は、みんなにすっかりからかわれていたんだ、と思った。

すると、大沢さんが口をとがらせ、盤面に注意を向けるよう促した。急いで振り向き、横を向いている間に駒の入れ替え、置き換えなどをしていなかったかと見てみたが、何も変わったようには見えなかった。

「矢倉囲いしよう思うて間違うたわ。今日は、あかんなあ」と照れくさそうに笑うとっちゃんを、「矢倉囲い知ってるだけで凄いやないか~」と少し煽てながら、僕は詰めのことを考え始めた。もう、ちょっと面倒くさくなっていた。

その時突然、“とっちゃんの強さの秘訣”を僕は、発見した。すぐに僕は言った。「とっちゃ~~ん。自分の王様隠したらあか~ん。そりゃ、卑怯や」。横を向いている間に、とっちゃんは自分の玉を隠してしまっていたのだ。

とっちゃんは悪びれることなく、「せやかて、これ取られたら負けるも~ん」と僕に玉を見せ、胸のポケットにポトリと入れた。「さあ、次はどう行こうかな~~」と、盤面に覆いかぶさる背中に春の日が射していた。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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