昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章“とっちゃんの宵山”(短期集中再掲載)  7.とっちゃんと、宵山へ。

2012年09月26日 | 日記

7月11日は、すぐにやってきた。

その日は、朝刊の配達が始まる前から、とっちゃんは上機嫌だった。

朝一番の「ガキガキ~~、おはよう。ええ天気やなあ。宵山日和やで~~~」という挨拶に、僕の配達の足取りは重くなり、いつもより10分以上配達終了が遅くなったほどだった。

販売所に帰ってくると、迎えてくれたのもとっちゃんの陽気なねぎらいだった。「ガキガキ~~~。お疲れさ~~ん。まあまあ。お茶でも飲みいいな。お菓子、どうや?」と、いつもになく、お盆ごと差し出してくる。遠慮がちにお菓子を手にし、湯呑に口先を近づけると、質問攻撃が始まった。

「何時ごろやろ~?宵山始まんの」「わし、何着てったらええ?なあ、ガキガキ~~~」「昼飯食ったら行くんか?なあ、ガキガキ~~」「人いっぱいやろうなあ。電車通ってるんやろか?なあ、ガキガキ~~」「なあなあ、いつ行くの~~~?」………。お菓子を頬張った口先を尖らせ、タバコの煙とお菓子の食べかすと一緒に吐き出される質問の数々に、僕は閉口した。僕だって、初めての宵山。事情など知る由もない。ましてや、とっちゃんの服装のアドバイスなんて……。

「焦ってもしゃあないやないか。とにかく、一番ええもん着て、人に迷惑かけんようにするこっちゃで。なあ、とっちゃん」

“おっちゃん”の助け舟で質問攻撃は終わったが、代わりに笑顔と目くばせを繰り返し向けてくるとっちゃんに、遂にいたたまれなくなり、「夕刊終わったらすぐ、ここから出発しょうか」と僕は帰って行った。

大いなるミスを犯した気分だった。販売所で着替えて出かけるだけでも十分面倒な上に、“とっちゃん付き”とは!

帰りの自転車のペダルはひどく重かった。その重さは、まだ郵便が届く時間でもないのに、帰るや否やポストをチェックしてしまう自分の重さへと連なっていった。返事を一向によこさない彼女への想いが、暗い怒りと恨みに変わっていく予感がした。下宿生活を始めて、初めて引っ越しを考えた。

 

天井の木目を漫然と見つめている間に、眠りに落ちた。目覚めると、午後3時を回っている。空腹を抱えたまま、販売所へと急いだ。ジーンズとチェックの半袖シャツを自転車の籠に突っ込み、洗いたてのスニーカーを荷台のゴムに挟んでおいた。

真夏の日差しが照りつけていた。配達エリアのお屋敷の何軒かでは、お手伝いさんと思しき女性が庭や玄関先に水を打っていた。生温かく立ち昇る土埃の匂いを走り抜けると、少年時代に誘い込まれるようだった。日曜の夕刊配達の時にいつもオルガンの音が漏れてくる洋館の高い窓から、端正なメロディが流れてくる。立ち止まり耳を澄ませて、また走る。小学校の校庭を走っている気分だ。

「こんにちは~~。祇園さん日和やね~~。いつも、ご苦労さん~~」。

顔を合わせると声を掛けてくれる女性の声に、「こんにちは~」と頭を下げる。顎と眉から汗が滴る。

 

「お!気合入ってるんちゃうか~~、今日は。ごっつう早いんちゃう?」。販売所に帰るやいなや、“おっちゃん”にからかわれる。

階段に目を向けると、とっちゃんの足が見える。僕が着替えを置いたために、いつもより上の段に座らざるを得なかったようだ。着替えを汚されては、と取りに行くと、「お帰り~~。早かったな~~」と上から声を掛けられた。その恰好は、着替えたとは思えないほどいつも通りだ。

「とっちゃん、着替え持ってきた?」と訊くと、「え?!これじゃ、あかんか?」と意外そうに首を傾げる。

「う~~ん」と判定するように足元から胸元まで観察。「いつもと変わらへん……」と不満を言おうとしていると、「お風呂、入って行き~。用意してあるし。とっちゃんは、もう入ったんやで」と“おばちゃん”が顔を出してきた。

「ありがとうございます。そうさせてもらいます」。

お礼を言う間もなく、「汗付いたらあかんし、持って行っとくし。な」と僕の着替えは“おばちゃん”に運ばれていく。

「そこ、通って行き。足は気にせんでええからな」。

“おっちゃん”の指示通り、カウンター脇から事務所へ。事務所から居間へと抜けて行く。途中まで一緒に来た“おっちゃん”が、小声で「格好のことは、勘弁したって。な」と目配せをする。僕はやむなく「わかりました」と、風呂場へ行った。

初めて見た“おっちゃん”と“おばちゃん”の居間は広く、奥の方には蚊帳が吊られたまま。寝乱れた布団もそのままだった。通り抜けると、開け放った外廊下。その向こうには、手入れされた広い庭があった。

外廊下を左右に見ると、右に二階へと続く階段。左に風呂場への入り口。その向こうにトイレの入り口が見える。

「夜中にトイレ行くの、気い使うでえ」と苦笑いしていた大沢さんの言葉の意味が分かったような気がした。

入り口で待ち受けていた“おばちゃん”からタオルを受け取り、引き戸を開けて風呂場に入る。湯船に入らずお湯をかぶり、簡単に身体を洗う。早く宵山に行きたいわけではなく、嫌な予感がしてならず、気が急いた。

案の定、“おばちゃん”が声もかけずに三度も引き戸を開けてきた。「石鹸、あったか?」「下着、“おっちゃん”のやけど、置いといたし。使ってな」「あんた、カルピス嫌いやない?そうか~。好きか~~。入れといたるからな。上がったら、飲み」。

覗く度に長くなっていく台詞と好奇に光る眼に、僕は思わずタオルで身体を隠したほどだった。

急いで着替え、“おっちゃん”と目を合わせないようにしながら階段下まで戻ると、とっちゃんが待ちかねたように大きな声を上げて立ち上がった。

「さ!行こうか~~~。ガキガキ~~~」。僕には、獣の雄叫びのように聞こえた。

 

祇園祭の山鉾巡行は、四条烏丸から四条通り、河原町通り、御池通りと曲がって行き、烏丸通りを下る一周コース。だから、宵山の日の夕方にはコースにある市電の架線は外される。市電で行くのは止めた方がいい……。と、カズさんから忠告を受け、僕たちは鴨川の堤防を三条大橋まで下っていくことにした。

「よろしゅう頼むで~~」という“おっちゃん”の大きな声に押されるように北山通りに出て賀茂川の堤防の上に着くと、「川べり行かへん?」と、とっちゃん。声は弾み、足取りは軽い。

土手の上を歩くよりも河川敷を歩く方が、確かに心地よい。しかし、いつもとは明らかに景色が異なる。浴衣姿のカップルや、数人の女の子のグループが、こぞって川下の方へと向かっている。いつもにはない華やかな賑わいが、香ってくるようだ。夕方の日差しに伸びた人影も、どこか楽しげな動きを見せている。

さっさと河川敷に降りていくとっちゃんをゆっくりと追いながら、じわりと湧き起ってくる惨めな寂しさに、僕はしゃがみこみたい気分だった。

一瞬立ち止まると、振り向き近付いたとっちゃんが手を握ってくる。

「何してんの!早う」と引っ張られる右手を振り払い、「わかってるって!」とついつい語気荒く言ってしまう。土手の上を行く犬の散歩の人を羨ましく目で追い、深呼吸をして気持ちを引き締める。油断してはいけない。人に迷惑をかけてはならない。まだまだスタート地点に付いたばかりだ。

出雲路橋、葵橋と無難に過ぎ、出町柳で賀茂大橋を渡る。全身が巨大な眼になったかのようだったとっちゃんも、橋を渡る頃にはやや落ち着きを取り戻したようだった。

「えらい人やろなあ。川べりであんなんやもんなあ」

まだ明るい河原町通りを歩き始めると、初めてとっちゃんの弱気が顔を出す。「大勢の人がいる所に行ったことない子やからなあ。びっくりするかもしれんなあ」という“おばちゃん”の心配を思い出す。

「絶対離れたらあかんで。迷子になったら、自分で帰りや。とっちゃん、もう大人なんやから。な」

肩を掴み顔を覗き込んで念を押す。「もう~~。ガキガキも、わしのこと、大人や言うたり……」。不満げなとっちゃんの目が動く。その先を追うと、道路反対側の少女三人連れ。中学生と思しき三人の浴衣姿は、ひと際眩しい。

「とっちゃん!きょろきょろして、僕を見失わんようにな!」

もう一度強く言い聞かせ、シャツの袖を引っ張るようにして道を急いだ。

 

市電の架線が外された河原町通りの景色は、遠目にも開放的に見えた。道路の真ん中を走る架線とそれを支えるために道路脇から伸びたバーが頭上から与えていた圧迫感は、それらがなくなってみて、やっと大きかったのだと分かる。でもなぜか、同時に間が抜けた感じがしなくもない。

御池通りが見える辺りからは、もう人の波。歩行者天国の準備のためか、多くの警官の姿も見える。屋台もちらほら出ている。

ふと気付くと、とっちゃんのことを忘れ去り、頬が熱くなってきていることに気付く。人混みは、それ自体が人を興奮させるもののようだ。

とっちゃんが、僕のジーンズのループを握っている。不安が伝わってくる。

「大丈夫だよ、とっちゃん。離れないでね」

父親が子供に不意に使うような標準語で声を掛けると、こくんと頷いた。

                            Kakky(柿本)

次回は、明日9月27日(木)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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