昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章“とっちゃんの宵山”(短期集中再掲載)  6.とっちゃんの、突然の変化

2012年09月25日 | 日記

いつものように配達が終わり、いつものようにお菓子が出され、いつものようにとっちゃんがむさぼってはポケットに押し込み、いつものように4人で残り物を食べる……。

銭湯に行った翌日から、そんな風景の空気が変わった。

桑原君は山下君と額を寄せ合い、大沢さんは僕と話をしたいと思っているようだった。

とっちゃんはそんな4人を階段から高みの見物といった風情。“おばちゃん”の「あんたら、どないしたん?仲良うせんとあかんえ」という訝しむ声に、「大丈夫です」と大沢さんが応えると、とっちゃんは、ズヒヒヒ~~と笑い「“おばちゃん”。心配せんでええで。何か考えとんねんて」と言うと、悠然とタバコに火を点けた。

元自衛隊員ということが桑原君の山下君に対する興味の核になっているのは明らかだった。山下君は、昨晩から質問を投げかけられ続けているようで、いささか閉口気味に見えた。精一杯受け止めようとしている姿は可愛らしかったが、少し悲しくもあった。

大沢さんの関心は、“おっさん”が帰る間際に僕に語った一言に集中していた。その意味するところは何か、それが何故僕に向けて語られたのか、が気になって仕方ないようだった。

「一番ぼーっとした顔してたん違います?」「都会も世間も、まだまだ知らない田舎もんや、思うたん違います?僕のこと」といった感想しか僕にはない。

「いや、とっちゃんから何か聞いてるんちゃうかなあ」と大沢さんは声を潜める。

「君が気にかけてくれてることを、とっちゃん感じ取ってるんや、思うわ。期待したり、がっかりしたりしては、銭湯で全部喋ってるんちゃうかなあ」「………」「とっちゃんの嫌な部分も感じ取ってる“おっさん”が、君のことを心配してくれたんちゃうかなあ」

何かしてあげたいと思った自覚が、僕にはない。あるとすれば、将棋の相手をしたことくらいだ。

「考え過ぎちゃいますか?」と微笑んだ瞬間、「なあ、九州は梅雨入りしたらしいやないか。こっちにはいつ頃来るんやろう、梅雨」と、とっちゃんが大声を上げ、話は中断した。退屈に耐えきれなかったようだ。

「南ベトナム臨時政府が……」と話に力が籠っていた桑原君も中断。山下君は、救われたとばかりに曖昧な笑みを向けてくる。

カウンター後ろに座り、様子見を続けていた“おばちゃん”の「今年は遅いみたいやねえ、梅雨入り。じめじめするのは嫌やけど、雨にも降ってもらわんとねえ」という言葉に、みんなが口々に相槌を打つ。それをきっかけに、朝刊配達後の団欒は終わった。

 

銭湯で受けた刺激が変容させた朝の風景がまた元に戻るのに、そう時間はかからなかった。ただ、販売所2階は変化を続けていた。

桑原君の夜の外出が増え、時には徹夜したまま配達に出ることさえあった。山下君は、桑原君の質問攻撃から解放された時間を大沢さんの部屋で過ごすようになっていた。

そして10日ほど経った頃、とっちゃんの顔付が突然変わった。前触れはなかった。思い当たる節も、誰にもなかった。

口数が減り、笑いが少なくなり、タバコの本数が増えた。タバコを口から抜く時の音が聞こえなくなり、替わりに深い溜め息を耳にすることが多くなった。

「カズさんが“壺に入れて庭に埋めてるみたいやで”言うてたとっちゃんの金、またおかんに使われたんちゃう?」「それやったら、口に出すやろう」「“おっちゃん”と何かあったんやろか?」「それはないな。“おっちゃん”が黙ってるはずないもん」

色々詮索してみるのだが、思い当たるものがない。「君が聞き出すべき話ちゃうかなあ」とか「僕は話したこと、ほとんどないですから」とか「俺には、絶対話してくれへん思うわ」言われ、僕が話を聞いてみることになった。

ところが、なかなか機会が見つからない。そのうちに、京都地方も梅雨入り。雨がここぞとばかりに続いた。そして、ぽつんと晴れ間ができた日の夕方、突然チャンスはやってきた。

 

7月に入って間もない夕方、夕刊を配り終わって販売所に戻ると、とっちゃんがいない。おやつも手つかずだ。奇妙に穏やかで静かだが、なぜか心許ない。

「とっちゃんは?」。桑原君に尋ねると、彼が顔を横に振ると同時に“おっちゃん”が「帰ったんちゃうか~~?なんか落ち着かへんかったなあ。お菓子かて、食べてへんやろ~。よっぽどのことがあるんやろな~~」と笑った。

少し毒気を含んだ言い方に、僕はとりあえず北山通りに出てみた。首を巡らせてみると、とっちゃんの姿が見えた。北山橋の欄干に両手で捕まり、大きく身体を乗り出している。表情ははっきりとしないが、その身体には真剣さが滲み出ている。

「とっちゃん、見つけました」と“おっちゃん”に一言告げて、僕は駆けだした。橋のたもと辺りからは「とっちゃ~~ん」と呼びながら、手を振った。2度呼んだが、とっちゃんは振り向かず、体勢を変えることもなかった。

「何してんの?」。息を弾ませながらとっちゃんの隣で欄干に掴まると、とっちゃんが上気した顔を向けてきた。目に真剣な色はあるが、頬は緩んでいる。

「見てみいな、ガキガキ。きれいなネエチャンやで~~」

言われて欄干から身を乗り出すと、浴衣姿の若い女性が橋の下に3~4人、小さな輪になっている。落ち始めた日の光に赤く染まった色とりどりの浴衣は、溌剌として艶めかしい。とっちゃんが目を細めているのは、鴨川の水面のきらめきのせいではなさそうだ。

「とっちゃん!危ないやんか。…もうええやろ。行こう」

さらに身を乗り出すとっちゃんに注意をすると、橋の下の浴衣姿が動いた。くるりと上を向いた顔が一瞬にして、微笑みから訝しげな表情に変わる。

僕は慌てて顔を引っ込めたが、とっちゃんは違った。「こっち向いたでえ。なあ、ガキガキ~、見てみい。きれいなネエチャンやで~~」と、僕に声を掛けながら彼女たちを指差す。

堪らず肘を引っ張り欄干から引き剥がすと、とっちゃんは「なにすんねんな」と不満そうに口を尖らせ、未練がましく欄干に手を伸ばした。

「もうええから!帰ろう」と、僕は肘を引く手に力を込めた。やるせない気分が腹から込み上げてきていた。少し粘って、とっちゃんは渋々付いてきた。

数歩進むと、とっちゃんは突然駄々っ子のように立ち止まった。

「“おっさん”、おらんようなってん」「なに?どないしたん?」「銭湯に来いひんねん」「みんな?」「銭湯の“おっちゃん”も、もう来いひんやろなあ、言うてたわ」。

きっと工事が終わったのだろう。北山通り北側のビル工事だったのかもしれない。そう言えばここ一週間、大型トラックが行き交う姿を目にしていない。

「とっちゃん、それで元気なかったんちゃう?」。立ち止まったとっちゃんの胸の内を想い、僕は肩に手を回した。ささやかな心の拠り所を失い、19歳の少年の好奇心が噴出したのかもしれない。欄干にしがみつこうとした、その力の強さの分だけ、彼は寂しさも抱え込んでいるのだろう。……と、僕は思った。

「別に。……“おっさん”もええ加減、ええ加減やったからなあ。話聞いたらんとあかんし、おかしいなあ思うてもびっくりしたらなあかんし……。わし苦労してたんや」

肩に回された手をちらりと見た後、あっけらかんと言い放ったとっちゃんの言葉に、僕は膝から折れてしまいそうだった。

「せやけど、何か言いたいことあるんちゃうの?」

駄々っ子のように立ち止まったのには訳がある。僕はそう思わないではいられない。きっと、何かが起きている。とっちゃんの中に起きているはずの、その無自覚な変化の何であるかを知る手がかりだけでも掴みたい。僕はそう思った。少しばかり意地になっていた。

歩み始めようとしたとっちゃんが、また立ち止まる。肘を引いても動かない。

「言いたいことあるんやったら、言い?言うてくれんと、わからへんがな。怒らへんし。な!」肩に回した手に力を込めると、とっちゃんの顔が下から見上げてきた。いつものとっちゃんだが、表情はこれまで見たことのないものだった。

 

「なあ、宵山に連れてってくれへんか~?」

甘える目つきで見上げるとっちゃんの言葉が粘りつく。

もう一度折れそうになった膝を立て直し、糸を引きそうな言葉を振り払うように、手を左右に振る。

「なんで?なんでや~?ええがな。ええやんか~~。行こうや」

「とっちゃん一人で行き。僕は、ええわ」

突っぱね歩き始めると、とっちゃんは僕の前に立ち塞がった。

「ガキガキ~。まあ、聞いてえな。いろいろあんねん、わしも」

「何が!」。裏切られた気分に、僕の言葉には怒気が含まれている。

「まあまあ。聞いてえな。聞いて!って」

両手で肩を抑えられ立ち止まると、とっちゃんはくるりと欄干に肘を乗せた。その仕草は、芝居じみていた。やむなく付き合い、下の鴨川土手に浴衣姿が見えないのを確認して、「なんやねん」と小突いた。怒りの代わりに苛立ちが込み上げてきていた。

「“おっさん”に言われたんや。これからのこと、考えんとあかん、言うてな」

「………。何言うてた?“おっさん”」

「社員にしてもらわなあかん、言うてな。ほんでな、結婚せんとあかん、言うてなあ」

“おっさん”の言葉はおそらく置手紙のようなものだろうが、正論のように見えて無理難題を押し付けているもののように思えた。とっちゃんの「なあ、宵山に連れてってくれへんか~?」の動機付けになっただけのようにも思えた。

「で、とっちゃんはどうやの。どう思ってんの?」

「社員言われてもなあ……。カズさん、そやろか?新聞配って社員なれるんやろか?」

「あそこは、会社ちゃうやろ。会社に入らんと、社員にはなられへんしなあ。……で、とっちゃんどないすんの?」

「せやかて、“おっちゃん”と“おばちゃん”結婚してるんやろ?会社やないのに。なあ。わしかて結婚はできる、いうこっちゃで」

「…………」

酷な話である。“おっさん”は、社員になるということを結婚の前提条件かのように言うことで、とっちゃんの新聞配達員としてのプライドまで傷付けている。

何を言うべきか、言えるのか、僕は言葉を探しあぐねた。

「わし、ネエチャンと話したこともないやろう。結婚もできひんしなあ、そんなんじゃ。……なあ。“おっさん”、慣れればええんや、慣れたら何でもできるようになる、言うてたし。……なあ」

「だから、宵山か!とっちゃん、女の子が一杯いる所に行ってみたいだけやんか!」

苛立ちに怒りが混ざり小さく爆発した。

「行きとうないわ!とっちゃんとなんか。1人で行ったらええやんか!」

販売所まで残っていたわずか100mを早歩きで、僕は急いだ。とっちゃんだけを対象としているわけでもない怒りが、行き場を探して身体の中を駆け巡っていた。

 

「お帰り~~。とっちゃん、何してた~~?」

販売所には全員が揃っていた。とっちゃんと彼を追った僕を心配してくれていたのだろう。 “おっちゃん”ののどかな声と笑顔に気を落ち着かせ、宵山行きの話を伝える。

大沢さんと話していたカズさんが、「止めとき、止めとき~」と大きな声を上げる。振り向くと、手を左右に振りながら渋面を見せている。

「とっちゃんも、もうじき二十歳の青年やからなあ。そら、一丁前に、あるものはあるからなあ」と意味深に笑いながら“おっちゃん”は奥へ。「あんた、やらしいこと言わんとき!」と“おばちゃん”がその後を追う。桑原君は相変わらず山下君と額を寄せ合っている。ここのところ、“座り込み”に誘っているようだ。

僕は大きく溜め息をつかざるをえなかった。そして、溜め息をつくと怒りも抜け出て行き、替わりにとっちゃんへの同情が強く頭をもたげてきた。

「宵山って、いつですか?」。カズさんに訊くと、「今年は7月11日やった、思うけど。……一緒に行ったらあかんで」という答が返ってきた。そう言われて僕は逆に、とっちゃんと一緒に行くことを決めた。

 

しかし、下宿の6畳に戻ると、決心が揺らぎ始めた。とっちゃんにはまだ告げていないばかりか、販売所の誰にも「とっちゃんと宵山に行ってきます」と宣言していないことにホッとする気持ちが強くなっていた。日々待ち続けている手紙がその日も着いていないことが、僕の心を小さくしているようでもあった。

夕闇が迫る頃、未練がましく一階のポストを見に行き、そのまま食事にと思ったが、その気になれない。暗い6畳に戻り、窓を開けた。

窓辺に肘を掛け、生暖かい夏の京都の夕風に顔を曝していると、やけに田舎が恋しくなった。きっと人恋しいだけなんだ、田舎はもう出てきてしまったんだから、と込み上げてくる寂寥感を抑え込む。

そうはいくものかと、寂寥感は自責の念に姿を変え、じんわりと身体を浸していく。こんな無為な時間を過ごしていていいのか、為すべきことを見つけなくていいのか……。

白地図に色を付けるように、心の端に浮かぶ言葉一つひとつを塗り固めようとする。右脳と左脳が仲違いをしているような気分だ。

と、突然自転車のブレーキ音。道路を見下ろすと、2台の自転車に見慣れた姿がある。桑原君ととっちゃんだ。何事かと立ち上がると同時に、「ガキガキ~~~」と呼ぶ大きな声が届く。慌てて僕は、階下へと降りていった。

それから僕たち3人は、一緒に90円定食を食べに行った。桑原君ととっちゃん、それぞれが僕に話があるようだった。しかし、幸いなことに、桑原君はとっちゃんに話す機会を譲ることになった。そして、不幸なことに、僕はとっちゃんに“宵山への同行”を約束する羽目になった。9時過ぎ、桑原君と僕で3人分の食事代を割り勘で支払い、別れた。

                            Kakky(柿本)

次回は、明日9月26日(水)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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