大沢さんの部屋も決して暗くはなかったのだが、桑原君の部屋は南側だけではなく西にも窓があり、一段と明るく感じられた。大沢さんの部屋と同様、二つの大きな窓は腰窓よりもやや低く、手摺が取り付けられていた。西の窓からはちょうど西日が差し込んでいる。その向こうに広がっているのは、賀茂川だ。
「紅茶、どうや?」
ソーサーに乗せた紅茶カップを手にした桑原君が、窓辺に立つ僕に近づいてくる。
「君、ほんま危ないとこやったんで」
ちらりと部屋の入り口を振り返る。
「え?!僕、危なかったの?」
立ったまま、紅茶を受け取る。桑原君はタイミングを見計らい、僕の救出に来てくれたのだろうか。
「いや、あぶない言うても、そんな大袈裟なことでもないんやけどな」
桑原君は声を潜めながら、机の上の電気ポットから自分用のマグカップに紅茶を注ぐ。
「勧誘が始まるとこやったんや」
「何の?」
「宗教や。僕も誘われたんやけどな。断ればしつこく言うてくる人やないけど、君がもし入ってもうて、後悔することになってもあかんし。話しにくうなってもあかんしなあ。仕事仲間やからなあ」
そう言って、桑原君は紅茶を啜った。押入れ一つ、襖2枚隔てて隣り合わせに住み、同じ仕事をしている二人の間に、実際の距離よりも微妙に遠い距離感を作ったのは、このことなのかもしれない。
「眺めいいねえ」
窓の桟に腰掛け、北山橋から賀茂川東岸、賀茂川上流へと目を転じていく。西日が目を刺す。
「大沢さん、なんでこっちの部屋選ばへんかったんやろうなあ」
「桑原君が来た時、こっちが空いてたの?」
「そうなんや。それとこの奥の部屋。ほれ、奥にもう二部屋あるのわかったやろ?」
「ああ、左右にね。空いてるみたいやねえ」
「右側の部屋には学生がおったんやけどな。僕がここに入ってすぐ出てったんや。僕が入ってくるの待ってたんやろうなあ。君、住み込み選んでたら、奥のどっちかになってたいうことや」
「奥の左側は、ここみたいな窓あんの?賀茂川向いて。そこやったら住み込みにしてもよかったなあ‥‥」
眼前に広がる景色の魅力に、僕は本気でそう思う。
「う~~ん、それはどやろ。通いの方がええんちゃうかなあ」
「なんで?」
「いろいろと気い使うもんなんやで、住み込みいうのは」
「下宿と同じようなもんちゃうの?」
「下宿には主従関係ないやんか」
「そうやけど‥‥」
「まあ、世の中いろいろあるいうこっちゃ。しかし、ようできとるで。4人住み込みがおって、カズさんがおって、それでちょうど配達にはええ人数という、そういう計算やもんなあ」
言われてみると確かにそうだ。最初から計算されたことではないかもしれないが、よくできている。
「一人突然辞めた時は?」
「その時はおっちゃんが配ることになってるんやて。二人いっぺんに辞めたらおばちゃんも配るんやて」
「カズさんが辞めると大変だ……」
「大変やろなあ、それは。……大変やけど、その時はおっちゃんとおばちゃんの配る分が増えるだけちゃうか?きっとそうやで。なんせ、もともと大広間だったのを4つの部屋にしたのがこの二階やし、一階は割烹だったんやからな。変幻自在やで、あの夫婦」
桑原君の情報収集力に驚きながら、販売所夫婦の人生の移り変わりを思い描く。賀茂川を臨む割烹旅館から新聞販売所へ。いつ頃から、何故転業していったのだろう。
「しかし、たくましいなあ、おっちゃんとおばちゃん」
「子供がいてへんやろう?そこらへんがなんか関係してるんちゃうか?そう睨んでるんやけどな」
同い年のはずの桑原君が随分大人に感じられる。世間というものを、僕よりはるかによく知っているように思える。
「しかし、ええ景色やねえ」
目を再び窓外に転じる。賀茂川の堤防を自転車が走っていくのが見える。河川敷には寄り添い歩く若いカップル。暮れなずむ賀茂川の水面には、初夏の夕日が煌いている。
啓子は今、何をしているのだろう‥‥。
「君、いつも何してんの?」
不意を突かれ振り向くと、灰皿片手の桑原君の顔がすぐ側にある。
「新聞配り終わったら勉強してんの?できる?勉強」
桟に腰掛けた桑原君と斜めに向き合う。
「桑原君はどう?勉強してる?」
「そんなもん無理やで。朝刊から帰ったら寝てまうし。起きたらもう昼飯やし。昼飯食い終わってちょっとしたら夕刊やろう。夕刊終わったら‥‥。ま、言い訳やけどな。やる気あったらできるもんやからなあ、勉強なんて。‥‥吸う?」
ハイライトに火を付け、箱の一本を僕に勧める。
「やる気の出し方いうもんがあったら教えて欲しいくらいや」
僕が咥えるタバコに火を付けてくれながら、桑原君は大袈裟に嘆息する。
「それ、僕も同感やなあ。‥‥大沢さんは一生懸命やってはんのかなあ、司法試験の勉強」
桑原君の率直な明るさが、大沢さんの座机のある一角を対照的な光景として思い出させる。
「してはるん違う?おっちゃんに“来年は絶対合格したい思うてます”言うてんの聞いたことあるし。けど、ほんまのとこどうなんやろ?わからへんなあ」
「人のこと気にしてる場合違うけど、あの人はやる気の出し方知ってはるような気もするなあ」
「それ、まさか宗教のお蔭ってことではないやろう?せやったら違うで。4回連続で試験落ちはって、ポロッと欠けてもうた何かを埋めるもんだったみたいやで、宗教は。“心をもう一回まん丸にできた”言うてはったで、僕を誘わはった時は」
「心をまん丸にする、かあ。‥‥魅力的やんか」
「いや!違う!」
深く考えもせずに洩らした僕の感想に、桑原君は強い拒否反応を示す。
「僕は、僕ら若いもんは、もっと尖ってんとあかん。耳を尖らせ目え見開いて、もっといろんなこと知って、行動せんとあかん。僕はそう思うで」
桑原君の言葉が俄かに熱を帯びる。その顔つきは、予備校の中庭でアジっていた男に似て見える。“アジる”という言葉を初めて知ったその時、アジっている男の言葉が、その音量ほど心には響いてこなかったことを思い出す。
「ま、人それぞれやけどな」
一瞬の沈黙の後、僕を見つめていた桑原君の目が和らぐ。
「何時やろう?」
遠く賀茂川西岸の向こうに目をやると、夕日が山影を浮き立たせている。
「腹減ったなあ。飯食おうか」
桑原君が腰を上げる。僕は生返事をしたまま、灰皿の吸殻をまさぐる。
「もう一本どや?」
ハイライトの箱が差し出され、小さく振られる。顔を出した一本を摘み取る。
「もらって帰っていい?」
一緒の夕飯をやんわりと断り、タバコを咥えて立ち上がる。
「今度、中華行こうか」
「うん」
桑原君の部屋をそそくさと出る。廊下に電気はなく、暗い。廊下の奥の窓に、庭木の大樹が影だけになっていた。
Kakky(柿本洋一)
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