昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ⑧

2010年11月26日 | 日記

「このままにはでけへんやろ。住み込みしてもらうのはかまへんけど……。わしが、連絡したろか?お父さん、お母さん元気にしてはんの?」。状況を納得した“おっちゃん”の親切な言葉に、突然山下君は泣き始めた。

その姿に桑原君は「“資本論”は思想チェックの踏み絵かいな!酷いことするなあ」と怒りを顕わにし、とっちゃんは「泣いてんなあ。なんでや?泣いたらあかんやないか、なあ。男が、なあ」とにまにましていた。

“おっちゃん”の電話連絡はあっけなく終わった。自衛隊から既に連絡を受けていた山下君の両親が後始末を済ませていたようだった。

「山下君。……あんた、どないする?家に帰るか?お金なら貸したるで。な!それがええんちゃうか?お母さんも“帰らせてください”言うてはったで」。

“おっちゃん”の申し出に山下君は、しゃくりあげながら首を横に振った。大沢さんは「帰れんやろなあ。気い弱そうやしなあ」と、二階に上がっていった。

“おっちゃん”は、山下君の母親に「しばらく責任を持って預かるから、安心してください」と電話した上で、二階の端の部屋に山下君を連れて行った。こうして、山下君は住み込み配達員になった。将棋盤は一階に下ろされた。

 

翌日から、最後に山下君が帰ってくるまで、とっちゃんの話題は“自衛隊”、“資本論”、“踏み絵”にまつわるものとなった。「なんで?」から始まる質問攻撃に、大沢さんと僕は逃げ惑ったが、桑原君はまともに受け止めた。自衛隊とはどういうものか、“資本論”はどんな本か、を得々と語る桑原君には、自らの意見を語る絶好の機会を得た喜びさえ垣間見えた。

とっちゃんは、「へえ」「そうかあ」などと相槌を打ちながら耳を傾けていたが、「な!そういうことや」と桑原君が念を押すように言うと、決まって「なんで?なんで、そういうことやの?」と、話を元に戻した。

“踏み絵”の話には、特に困っていた。「なんで?踏んだらええやんか。絵やろ?踏んだらええやん」と言い張るとっちゃんに遂に音を上げ、「そやなあ。踏んだらええんやけどなあ…」と同調してしまった。それがきっかけで、桑原君の熱意は急速に冷めてしまった。とっちゃんのターゲットは僕に切り替わった。

僕はいきなり逃げの一手を打った。「“おっさん”に訊いたらええんちゃう?僕らより詳しいんちゃう?」。大沢さんは、右手親指を立てながら、僕に大きく頷いて見せた。

とっちゃんも「ガキガキ~~~。ええこと言うなあ。そらそうやわあ」と、自分が認められたとばかりに喜んだ。

 

3日後から、とっちゃんの「“おっさん”が言うてたけどなあ」が枕詞の話が始まった。山下君が帰ってくるのを待って始まることに、何らかの意味があるようだった。

「アメリカさんの都合らしいなあ」「朝鮮で戦争になったからや、言うてたなあ」「カタナガリされたんやって、言うてたけど。ようわからんかったわ」「台風の時、お世話になってるんやなあ、自衛隊に」「わしも一回入ってきたらええんや、言われたけどヤバヤバ(山下君のことをこう呼んだ)みたいになるの嫌やしなあ」「うれしい時に泣くのはええことや、言うてたけど、わし泣いたことないし」……。“おっさん”の話は多岐にわたっていた。

3人が小首を傾げたのは、“カタナガリ”だったが、大沢さんの「憲法9条のことを、刀狩り言うたんちゃう?」という説に桑原君と僕は「さすが!法学部!」と納得した。

僕の“おっさん”への興味は募ったが、将棋から解放されたことが“おっさん”に会う機会を遠のかせていた。

僕たち3人は作戦を変更し、カズさんの“銭湯で会うおっさんちゃう?”という言葉を信じてみることにした。“おっさん”に会ってみたい、ではなく、“とっちゃんと一緒に銭湯に行こう”なら実現性が高い、ということになったのだった。

涙する姿を見られたせいか、4人と距離を置き続けている山下君は除外し、3人それぞれが“とっちゃんと一緒に銭湯に行く”チャンスを窺っていた。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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