希子は3歳の頃、父親を亡くした。死出の旅へ旅立つ父親の白い横顔を覚えている。
小学校3年生になった春、母親が再婚。同時に、母親の実家から新居に引っ越す。
新しい学校と新しい父親に慣れることはできたが、新しい住まいの匂いには馴染めなかった。
「ほら、希子の部屋よ」
母親が嬉々として開けたドアの向こうから襲い掛かってきた匂いは、特に我慢ならなかった。
その部屋で中学、高校を過ごし、父親の強い勧めで自宅通学が可能な女子大へ進学。父親に門限を午後6時と決められたが、午前8時に家を出て帰宅するまでの10時間を手に入れた喜びは大きかった。初めて五感が外界に向かって開かれた気がした。
最初の夏休みを迎える直前、母親が倒れた。父親の勤務先の銀行に電話で知らせが入った時はもはや危篤状態で、父親が駆け付けると同時に母親は息を引き取った。脳卒中だった。42歳だった。希子の驚きは大きかったが、母親が眠るベッドサイドで感じた悲しみは予期したほどではなかった。縁もゆかりもない父親と二人っきりにされてしまった恨めしさの方が勝っていた。
暮らしはガラリと変わった。希子にはすぐ、家事の負担が重くのしかかってきた。掃除・洗濯はさして苦にならなかったが、炊事には閉口した。希子に料理経験はなく、センスが元々欠如していることもすぐに思い知らされた。そのせいばかりではないだろうが、父親と二人で着く食卓に会話はなくなった。
数週間後、希子は父親への意識の切り替えを図り始めた。父親を家族と思わず同居人と思う、あるいは衣食住を提供してくれる得難い大家と考える、そんな風に思い込もうとしてみたものの、起居を共にした10年分の愛情が邪魔をした。父親を直視したくない、という気持が心奥深くにあることも自覚させられた。
「つまんないでしょ?こんな話」
突然言葉を切り、希子は隆志を見つめる。
「そんなことないよ。大変だったんだね」
握りしめているビールの空き缶を希子の手からそっと抜き取ろうとする。と、希子の握力が抗う。
「今、妄想の領域に入りつつあるでしょ、頭が」
「え?!そんなことないよ」
「私がこの話をした男13名は、全員妄想してたよ。その瞬間は“してなんかいない”と言うんだけど、後から問い質すとみんな白状した」
隆志の手から完全に奪い返した空き缶を見つめながら希子は言う。空き缶は120度に潰れている。
「じゃ、正直に言う。君とお父さんの間にその後起きたであろうことは少しイメージした」
「ほらね。みんなどうして同じストーリーを思い描くんだろう。まるでそうなることが良きことでもあるかのように。男女が二人でいると、その二人の必然は“寝る”ってことなの?それしかないの、男にとって?それが後妻の連れ子が対象であっても」
希子の親指に押され、空き缶の角度は90度近くになる。
「希子はそうじゃなかったんだね?」
「そうじゃなかったという例外?例外で良かったと言いたいわけじゃないわよね」
「そうじゃない。事実を確認しただけ」
「うん。ごめんね、意地悪言って。でも、事実なんてそんなにキリっとしたものじゃないし、淡々としてもいないし、そう複雑なものでもないよね。揺らめいているのは、いつも心だけ。心の揺れが、事実の縁取りや彩りをぼんやりさせる…」
「…………」
隆志の希子への関心に火が付く。この子は一筋縄ではいかない。
「いずれにしろ、父親とは何もなし。正確に言うと、父親が再々婚するまではね」
大学1年生の冬、師走に入ってすぐ、父親はお見合いをする。勤務する銀行の支店長から勧められてのことだった。若い義娘との二人っきりの暮らしは不道徳、と老婆心を働かせた支店長の偏見を希子は感じた。が、父親は父親で焦りがあったのか、話はすぐに決まった。即答に近かった。
クリスマス明け早々には、もう新妻は転居してきた。39歳、寝具店の二女と自己紹介したが、名乗ったはずの名前は覚えることができなかった。
彼女が持ち込んだ雑駁な活気は瞬時に家を満たした。彼女は家事に長けていた。彼女の目は家の隅々にまで及び、希子の部屋の中では怪しい疑念の光さえ帯びた。
この家を出よう。希子はそう思った。が、容易いことではないとすぐにわかった。自分との関係はさておき、父親にとって良き伴侶であり得るのなら、新妻をその意味において評価すべきだと思い改めようとした。しかし、そんな思いは家を支配する新たな空気に日々打ち砕れていった。
とりわけ希子を悩ませたのは、とげ立つほど甘い匂いが家中に漂い始め、ついには自室にまで入り込んできたことだった。強力ではないがタフでしぶといその匂いはたちまち希子の部屋を占領した。
もはや猶予はないと思った。もっともらしい理由を並べ上げ、父親に自立のための資金援助を願い出た。すると、まるで予期していたかのように、希子の名前の通帳が差し出された。100万円入っていた。
「時々残高を確認して、あまりにも少なくなっていたら足しておくけど、無茶な使い方をしている痕跡が見えたらストップするからね」
父親から添えられた言葉は心強かったが、そんなことをさせてなるものか、と思った。
希子は家を出た。19歳と5カ月の春だった。
「ここまでって、割とありふれてるでしょう?」
希子の身の上話が中断する。希子の言葉を信じるならば13人の男たちとの間で磨かれ無駄を削ぎ落されたストーリーは、彼女の過去ばかりかその時々の想いの端々を照らし出している。
「ありふれてるかなあ」
「“ありふれてる”って口に出すことに抵抗がある?みんな、自分の人生をスペシャルなものと思いたいものね。でも実は特別なことってそんなになくて、ほとんどの人、99.99%
くらいの人は特別じゃなくて、ただただ個別の人生を歩んでいるだけなのよ。0.01%の特別を見つけてそこに自分の個別のものにしか過ぎない人生を無理やり重ねて、特別感を感じたいだけ。決して特別じゃないのに。錯覚なのよ。錯覚って自覚できない限り実感のように思えるから」
淀みない希子の言葉に、隆志は胸の中で目を瞠る。13人の男たち一人ひとりとの経験あるいは語らいが、希子の感性と知性を磨き上げ、彼女の中に巣食い続けていた怒りや疑問を昇華させていったのだろうか。それとも、彼女は認めないであろうが、希子は生まれながらにして特別なのだろうか。
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