昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ⑬

2016年10月11日 | 日記

翌日、販売所の朝はがらりと一変した。山下君が帰ってくるまではお菓子が出てこないこともあって、まずはとっちゃんの独演会。

話題の中心は山下君。自衛隊という言葉には多少馴染みはあっても、山下君から出てきた言葉の多くは、とっちゃんにとっては初めて遭遇するものだったらしく、まずは僕への質問から始まった。

「しかし、なんやあれ?グリグリ~~~、ほれ!ほれ!あれや。シ、シ、シ‥‥」

「新宿?資本論?」

「その後のほうや。あれ、なんや?ほれ、ヤマ、ヤマ‥‥が言うてたやろう」

とっちゃんは山下君をどう呼ぶか決めかねているらしい。その分、歯切れが悪い。

「本の名前や」

「踏み絵やったんやもんなあ。えげつない話やで」

桑原君が解説を加え、話をややこしくする。

「なんやそれ?フミエって?近所のおばあちゃんにおるで」

「試されたっちゅうことや」

「まあやってみんかい?いうことやな。‥‥おばあちゃんが言うたんか?年寄りの言うことやで。すぐ“まあやってみんかい?”言うもんなあ。おっちゃんかてそうや」

「踏み絵いうのはなあ‥‥」

きちんとした説明を試みようとする桑原君を大沢さんが止める。

「とっちゃんの言うこと、あながち間違いとも言えへんで、桑原君。大雑把に言うとそういうことやからなあ」

大沢さんの擁護に気をよくしたとっちゃんは、そこで一服しようとする。が、火をつけようとして思い出す。

「本はどないしとんねん?その‥シ、シ、シ‥‥」

そうして話は戻るのだが、説明は困難を極めた。何しろ僕などは、“資本論”を手にしたことさえなかったのだ。

桑原君は懸命に説明に取り組んだ。

とっちゃんは、「へえ」「そうかあ」などと相槌を打ちながら耳を傾けていたが、「な!そういうことや」と桑原君が念を押すように言うと、決まって「なんで?なんで、そういうことなんや?」と、話を元に戻してしまうのだった。

それでも、いくつかの言葉の説明をなんとなくクリアした桑原君だったが、“踏み絵”の話にはてこずった。

「なんで?踏んだらええやんか。絵やろ?踏んだらええやん」

とっちゃんはそう言い張って聞かず、踏んではいけない理由はどうしても説明しきれなかった。

「そうやなあ。踏んだらええんやけどなあ…‥」

口篭もり、遂にはとっちゃんに同調することになった。そして、それをきっかけに、桑原君の熱意は急速に冷めてしまうのだった。

さっさと二階へ消え行く桑原君を勝ち誇ったように見送るとっちゃんのターゲットは、僕に切り替わる。

桑原君とのやり取りを見ていた僕は、いきなり逃げを打つ。

「そうや。とっちゃん、おっさんに訊いてみたらええんちゃう?僕なんかより詳しいやろう?」

逃げのつもりだったが、口にしてみるとその方がいいように思えた。大沢さんも、にっこりと大きく頷いて見せる。

「グリグリ~~~。ええこと言うやないか。そうやで。そうするわ」

とっちゃんはまんざらでもなさそうだった。

 

三日後、とっちゃんの“おっさん言うてたわ”話が再開。山下君が帰ってくるのを待って始まるようになり、一週間以上続いた。

最初は戸惑いを隠さなかった山下君も、次第にとっちゃんの話を楽しむようになっていった。なによりも、僕たちと一緒に聴くことで仲間意識が生まれていくことを喜んでいるようでもあった。

そして、当初は脈絡がないように思えたおっさんの話が、しっかりとした知識と認識に支えられているものだということもはっきりしていった。

「アメリカさんの都合らしいなあ」

「朝鮮で戦争になったからや、言うてたなあ」

「わしら、カタナガリされたんやてなあ」

「本なんか読まんでええらしいわ」

「台風の時、お世話になってるんやなあ、自衛隊さん」

「“とっちゃんも一回でええから、自衛隊入ってきたらええんや”言われたけど、ヤバヤバ(山下君のことはこう呼ぶことにしたらしい)みたいになるの嫌やしなあ」

「踏み絵なんか踏んだらええがな、言うてたで。おっさんも」

「うれしい時に泣くのはええことや、言うてたで。わし泣いたことないからわからへんけど」

「しょうもないとこなんやてなあ、新宿いうとこは」

「逃げるのは悪いことやないんやて。な!ヤバヤバ!ええんやで!」

「船いうもんは港持たんとあかん、言うてたで。沈没したらしょうもないしなあ、言うて」

‥‥‥‥‥‥‥‥。

とっちゃんの話から窺い知れたのは、まず、おっさんの忍耐強さだった。繰り返し繰り返し同じ質問を受けたに違いないおっさんは、それでもとっちゃんのわかりやすい言葉を選び、理解できる表現に紡ぎ上げている。恐るべき根気だ。

おっさんの知識と見識にも一目置かざるを得ないところがあった。自衛隊の説明に、その片鱗が窺える。おっさんは、ひょっとするとなかなかの人物なのかもしれない。僕たちのおっさんへの興味はにわかに沸き上がった。

「あかん、あかん。おばはん怒ってるわ」

とっちゃんはその朝のために用意していた話が終わると、壁の時計に目をやり、階段下から見上げていた四人を見下ろすと、悠然と帰って行く。

「お疲れさま~~」

僕たちはとっちゃんのズボンの右ポケットがキスチョコで膨らんでいるのを確認しながら、声を掛ける。そんな朝が続いた。

が、一週間経った朝、突然とっちゃんの“おっさん言うてたわ”話はネタ切れする。

「自衛隊いうもんはなあ‥‥」

それまでの調子で語り始めたとっちゃんの目が次の言葉を探して泳ぐ。その一瞬を僕たちは見逃さず、僕たちに気付かれたことに感づいたとっちゃんはそのままお菓子を口一杯に頬張った。明らかにネタ切れだった。山下君にまつわる話は出尽くしたようだ。

とっちゃんが帰ると、僕たちは顔を見合わせた。みんな一様にがっかりしているように見える。おっさんの言葉が意味するところを語り合うのが、すっかり僕たちの楽しみになっていたからだ。

「おっさんとの話題としてとっちゃんに意識させるとしたら、次はどんなことがええんやろう?」

桑原君のネタ探しに、大沢さんが反応する。

「それより、おっさんに会うてみいひん?」

「おっさんて、興味深いですよね」

僕はすぐにでもそうしたいところだ。

「カズさんが言うてたように、おっさんはとっちゃんの銭湯友達?」

桑原君も賛成らしい。会うための手立てを探し始めている。

「その可能性高いやろなあ」

大沢さんも銭湯が怪しいと見ているようだ。

「とっちゃん、銭湯に行くのは、真夏は毎日やけど、それ以外は一日おきや言うてたし。一日おきにとっちゃんの話、新しくなってたしなあ」

「確かにそう聞いた」

「じゃ、とにかくとっちゃんと一緒に銭湯に行ってみることにしない?」

「おっさんに会えそうですもんね」

僕たち三人の作戦は決まった。いつものようにとっちゃんが帰るとすぐ自室に戻った山下君には、今回は声を掛けないことにした。

 

僕たちは準備をした。大沢さんの部屋にそれぞれのタオルと着替えを用意。日頃の会話に、それとなく「今度一緒に銭湯に行かへんか~~?」という言葉を混ぜるようにした。その言葉に、みんなが楽しそうに反応することも忘れなかった。

そして、努力は報われた。7月初頭、午後の激しい夕立に汚れた足を表の水道で水洗いしている時だった。

「ひどい夕立やったなあ」

バイクを止めたカズさんが、声を掛けてきた。チャンス到来だった。カズさんから始まる会話にとっちゃんは弱い。

「暑いし、夕立やし。ビショビショのドロドロですわ」

玄関戸を開け、大沢さん、桑原君、とっちゃんが揃っていることを確認しながら、後ろのカズさんに大声で言う。大沢さんが中から返してくる。

「僕もやわ~~」

実にさりげない。

「今日は特別やなあ。雨も、最初は涼しゅうなってええわ、思うたんやけどなあ。えらいひどうなって。なあ、とっちゃん」

桑原君もさりげない。

「あれはあかん。あれはあかんで。こっちは新聞抱えてるんやからなあ。あんないっぺんに降ったらあかんで」

尖った口先から抜いたタバコが雨に濡れていたせいか半分折れて指に残り、とっちゃんは慌てる。火の点いた半分を振り落とす。

おっちゃんはそれを見逃さない。

「あかんのはとっちゃんやで。タバコ落としたらあかん言うてるやろう」

「ほら、これや。わしが怒られたがな。雨のせいやっちゅうのに」

いささか不満げに言い訳を口にするとっちゃんに、大沢さんが声を掛ける。大沢さんにそんな才能があったとは思えないほどの絶妙さだ。

「みんなでさっぱりしに行こうか。なあ、どうや」

「え?!」

桑原君が、タオルでゆっくり頭を拭いていた手を止める。

「たまにはみんなで銭湯に行こうか、思うてね。どう?行かへんか」

大沢さんの誘い方の不自然なくらいの自然さが可笑しく、僕は顔を背ける。

「いいですね。行きましょうか~~」

桑原君が僕をちらりと見ながら、明るい声で反応する。

「行きましょう、行きましょう」

と僕が続き、それとなくとっちゃんの様子を窺う。

大沢さんはその様子を確認し、2階に駆け上がったかと思うと、すぐに駆け下りてくる。

「タオルだけでええか?」

手にはタオルの束を持っている。販売所に豊富な宣伝用のタオルをもらっておいたのだ。

「そや。とっちゃんも行かへんか?」

ここぞとばかりに、桑原君がとっちゃんに声を掛ける。打ち合わせもしていないというのに、なんとも絶妙なコンビネーションだ。とっちゃんのズボンの汚れ、シャツのシミが尋常ではなかったのは、確認済みだった。

「わしも行った方がええやろなあ、今日は。汗と泥やもんなあ」

とっちゃんのその言葉を耳にした瞬間、僕が念を押す。

「そうしようや。たまには一緒に行くのもええんちゃう?」

すかさず桑原君が、僕たちの目的達成のための言葉を添える。

「みんなで行くんやったら、いつもとっちゃんが行ってる銭湯が近くてええんちゃう?大沢さん、そうしませんか?な!とっちゃん、連れてってくれるか?」

自分の行きつけの場所にみんなを連れて行く誇らしさが頭をもたげたのか、とっちゃんは少し胸を張る。

「おっしゃ、わかった!連れてったるわ~~」

         ……つづく    Kakky(志波郁)


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