とっちゃんに案内された“松の湯”は、販売所から数百m東、北山通りから2~30m北へ上がった所にあった。まだ農地が多く、銭湯を営むには不向きな一角にも見えたが、次々と建築されるアパートの住人にとっては貴重な存在だとも推察された。
僕たち3人は、“松の湯”の前でとっちゃんを待った。“おっさん”にいよいよ会えることに、気分は高揚していた。後は、突然とっちゃんの気が変わらないことを祈るばかりだった。
30分近く待たせ、やっととっちゃんはやってきた。ランニングシャツとショートパンツ姿に、胸に青い洗い桶。その上には白いタオルが乗っている。
「いかにも、いうスタイルやなあ」
桑原君は下を向き、そう言って笑いを押し殺したが、僕はとっちゃんのひと際白いランニングシャツとタオルに母親の存在を感じた。
「行こか~~」
僕たちの前を通り過ぎざま声を掛け、とっちゃんは顎をしゃくった。日の光を浴びたその横顔に、桑原君はまた下を向いて笑いをこらえることになった。
“松の湯”は、驚くほどの盛況だった。ざっと数えて20名ほど。湯船も洗い場もざわついている。先に入って行くとっちゃんに、次々と声がかかる。
「おお~、とっちゃんやないか」
「とっちゃん、今日は大変やったな~~。ひどい雨やったもんなあ」
「とっちゃん、今日は早いんちゃうか~?」
ズヒズヒと笑いながら、とっちゃんは声を掛けてくる人に「おっさんは、いつも元気でええなあ」「暑かったなあ。おっさんも汗掻いたやろ~」などと応えて、湯船に入っていく。
後ろを行く僕たち3人は、その様子に顔を見合わせる。
「“おっさん”は、“おっさん達”やったんや~~」
桑原君の言葉に、大沢さんと僕は頷く。大沢さんの口は半開きになっている。
丸刈り頭が白髪交じりの、50代と思しき“おっさん”。長髪の、本来はお兄さんとでも呼ばれるべき、20代後半~30代前半と思われる“おっさん”。30代に見える中肉中背の二人は、一人が筋骨隆々で、もう一人は腹が少しぽっこりと出ていた。“おっさん”達は四人。全員が日に焼けた顔を湯気でてらてらと光らせている。
「土方のおっさん達か~」
桑原君は小さく呟いた。 “長髪”が鋭い目線を送ってくる。
「さ、入ろうか~~」
大沢さんが声を張り上げる。とっちゃんは“白髪”につつっと近付き、こちらを指差している。湯船に浸かり、大沢さんに従い頭にタオルを乗せる。と、“白髪”が泳ぐように近付いてきた。
「とっちゃんの仲間なんやて?」
三人ほとんど同時に「はい!」と答える。
「夕刊終わったんやな。お疲れさん」
人懐っこそうな笑顔が赤い。お湯のせいだけではなさそうだ。
「新聞少年……、いや青年か?」
振り向くと、湯船の縁に“長髪”と“ぽっこり”が並んで腰掛けている。“筋肉”は顎まで湯に浸かり、蛙のような目をこちらに向けている。
「とっちゃんと一緒に来たん、初めてやなあ」
“長髪”の言葉には、小さな棘が潜んでいるように思える。
「なかなか時間が合わなくて。……ねえ」
大沢さんが巧みに棘から身をかわす。僕たち二人は、大きく頷く。
「こいつがグリグリ~。こいつがグワグワ。この人がザワザワや。いっつも話してるやろ~~?」
とっちゃんの紹介に苦笑しながら、三人は揃って頭を下げる。
「ザワザワて……」
小声で、桑原君が僕の横腹を突つく。
「あんたら、とっちゃん大事にしたってや~」
突つかれてくねらせた身体をそのまま後ろに捻る。と、“長髪”の真顔の目とぶつかった。
「とっちゃん、一生懸命生きてるんやからな!」
「まあまあ、この人らも一生懸命生きてはるんやから。なあ。わしらと一緒やで。な!」
“白髪”の腕が突然湯から出てきて、僕の肩に回る。ぎゅっと引き寄せられた瞬間、下から覗き込んだ“白髪”の息の酒臭さに、少し僕は身震いしてしまう。
「おっさん!兄ちゃん、びっくりしてはるやないか。なあ、兄ちゃん。このおっさん、ちょっと“その気”あるさかい、気い付けや」
“筋肉”がカラカラと笑う。つられるように“長髪”もふひふひと笑う。大沢さんの目には安堵の色が浮かぶ。
「同じ労働者階級、仲良うせんとなあ」
そう言う“白髪”に肩を抱かれたまま電気風呂に移動する。
「嘘やで。さっきの話」
肌が触れ合わないように腰を引き気味の僕を、後ろを付いてきた“筋肉”が笑う。気付くと、“ぽっこり”も“長髪”もやってきている。決して大きくない電気風呂は、8人の男で水も溢れんばかりだ。
「電気、ビリビリ来るやろ。これが身体にええんやわ~」
顎まで沈んだ“ぽっこり”が言うと、
「ここでいつも話してるんや。なあ、とっちゃん」
と“筋肉”がとっちゃんの肩を叩く。
“長髪”は電気風呂が苦手なのか、湯船の縁を掴んでゆるゆると身体を沈めつつあるところだ。ふと目に留まった二の腕の傷跡が、痛々しいほど大きい。
「兄ちゃん、気になるやろう、その傷跡。生田君、10年ほど前、国会議事堂に突っ込んだんや。警棒で殴られて、腕折ったんや。名誉の負傷ってやつや」
顎から上を出した“ぽっこり”の顔がやけに大きく見える。その声は快活で、大きい。が、その話の内容に、僕たちは目のやり場に困ってしまう。すると“ぽっこり”は、少し水を口に含んでぷっと吹き出し、僕たちににじりよってきた。
「兄ちゃんたち、学生はん?」
「みんな、学生ではありません」
大沢さんが答えると、“ぽっこり”はもう一度鼻までを水中に没し、僕たち全員をねめまわす。そしてまた、口に含んだ水をプイと吹き出した。
「そうか~~。学生ちゃうんか~~」
そう言いながら電気風呂から上がっていく“ぽっこり”に“長髪”も続き、訳知り顔を向ける。
「僕の見立てでは、二人は浪人やな。もう一人は何か事情があるんやろう。もう大人やもんなあ」
桑原君はそんな“長髪”に興味津々らしく、警棒でやられたという腕の傷跡と顔を交互に見つめている。
「僕とグワグワは、浪人で‥」
頭を掻きながらそこで言い止る。大沢さんのことをどう表現すべきかわからない。大沢さんを“司法浪人”と呼んでいいものか……。
「兄ちゃん、どこ出身や?」
“筋肉”が僕の出身地を聞いてくる。救われた気分だ。
「島根県です」
即答する。
「なんや、北陸かいな。そら、寒いなあ」
“筋肉”のあっけらかんとした間違いをきっかけに、僕たちも電気風呂を上がる。
「アホか!山陰や。山陰言うてもわからんやろうけど……。なあ!」
僕の肩を揺すって“白髪”が笑うが、僕は“筋肉”の不快そうな表情が気になって笑うどころではない。
「高知県なんや、わしは。高知県言うたら、坂本竜馬と横山やすしや!知ってるやろ?」
気を取り直した“筋肉”の故郷自慢が始まる。
「知ってますよ~~」
桑原君と僕は口を揃える。
「あと、鰹と酒。これも知ってるわなあ」
「知ってますよ~~」
故郷自慢があっさりと終わり、“筋肉”は、話題のターゲットを“白髪”に切り替える。
「このおっさんが、現場で一番偉い人やねん。年やからちゃうで~。何でもよう知ってはんねん。なあ、おっさん」
「小さな工務店やってたからなあ」
“白髪”は肩を音高く叩かれ少し顔を顰める。声が小さくなる。
「俺の社長だった人や。今でも面倒見てもろうてるけどな」
“ぽっこり”がすかさず言葉を継ぎ、再び電気風呂に身を浸す。ゆっくりと首まで水中に浸かった目が、“白髪”をじっと捉えている
“ぽっこり”に促され、“白髪”は自らの過去を語り始める。
“白髪”は戦後間もなく、空襲で亡くなった父親の跡を継ぎ、工務店の三代目社長となった。戦後の復興需要と高度経済成長のお蔭で、経営は順調に推移。数人の職人だけだった会社は数十名の社員を抱えるに至った。個人住宅主体だった受注も拡大。ビル建築まで請け負うようになった。そんな折、大手ゼネコンから提携の話が舞い込む。
「まあ、要は、下請けにならへんか、いう話や。仕事は約束する、言うんやけどな。わし、人のケツにくっつくのは嫌や、言うてな、断ったんよ。……で、まあ、いろいろあってな。わしが、追い出されてしもうたんや」
詳細は語らなかったが、どうも裏切りにあったようだった。会社を乗っ取られたのではないか、と思われた。“白髪”の悔しそうな横顔に、そのことが窺えた。
“白髪”の話がひと段落すると、“ぽっこり”は咳払いをした。
「もう電気はええ。頭がピリピリしてきたわ。出ようか~」
電気風呂を出て振り向く。
「兄ちゃんら、まだ身体洗うてへんやろ。ゆっくり洗っといで。脱衣場で待ってたるし。コーラおごったるで」
そういうと、湯船に腰掛けていた“白髪”を連れて、さっさと出て行った。
“筋肉”は湯船に腰掛けていた僕たちに身を屈め、ウィンクをして「な!ええ人やろ」と小声で言って後を追い、僕たち4人は“長髪”と取り残される格好となった。
僕たちの間に、奇妙な沈黙が訪れる。1~2分は我慢できたが、それが限界だった。
「大沢さん、洗いましょうか~~」
僕がそう言って洗い場に行くと、大沢さんは付いてきたが、桑原君は“長髪”に話かけられ、湯船に残った。
その時になって初めて僕は、とっちゃんがいないことに気付いた。首を伸ばし探すと、脱衣場にいた。“ぽっこり”に頭を小突かれながら笑っている。
僕と大沢さんは、とりあえず身体を洗うことに専念する。大沢さんは、シャンプーの合間に「大変だったみたいやねえ、白髪の人」とだけ、僕に言った。 “長髪”の話に耳を傾ける桑原君の姿が気になっていた。
脱衣所に出るとすぐ、僕と大沢さんに、とっちゃんからコーラが手渡される。
「ありがとうございます」
誰にお礼を言っていいかわからず、“白髪”、“ぽっこり”、“筋肉”の順に、小さく頭を下げる。
“白髪”を中心に小さな輪ができる。“白髪”は、語り慣れた調子で倒産劇の続きを始める。とっちゃんはタイミングよく首を縦に振る。まるで耳慣れた聴衆の振る舞いのようだ。湯船で聞いた話の続きに耳新しいものはなかった。
桑原君と“長髪”が出てくる。“ぽっこり”が“白髪”に目配せをする。と、“白髪”は、
「まあ、倒産は経験せんほうがええ、ちゅうこっちゃ」
と話にいきなり終止符を打ち、立ち上がった。そして、僕に近付き、また肩に手を回してきた。僕は、少し身をよけた。すると、“白髪”を押しのけ、“ぽっこり”が僕に耳打ちをした。
「弱いもんを助けよう思うたら、とことんやらんとあかんで。弱いもんは、とことん甘えてくるもんやからな」
わざわざそんなことを僕に言った理由がわからない。隣の大沢さんは聞こえないふりをしている。すると、“ぽっこり”は、今度は大沢さんに一言、
「自分が傷つく覚悟がいるわなあ」
と、同意を求める。
「そうですね。僕もそう思います」
大沢さんはそう答えて2~3度頷いたが、言葉の意図するところがはっきりとはわかっていないようだった。向こうでとっちゃんは、コーラの炭酸にむせている。
それから僕たちは帰って行く4人を番台まで見送り、もう一度コーラのお礼を言って頭を下げた。“筋肉”が引き返してきて脇腹を突つき、意味ありげに「兄ちゃん、気い付けや~~」と言ってニヤリとした。
……つづく
Kakky(志波郁)
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