昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ⑫

2016年10月04日 | 日記

「グリグリ~~。どうや?」

翌朝、いつもの席に陣取ったとっちゃんは、配達から帰ってきた僕を、後輩を迎える顔で待っていた。

「どうや、って?」

「びしょびしょやないか」

「平気、平気」

「濡らしてへんやろうなあ」

「新聞は濡らしてない!」

大沢さんと桑原君が様子を伺っている。

「グリグリも一人前になったもんや」

とっちゃんはブウとタバコの煙を噴き出し、尖った口先でフィルター部分まですっぽり銜えると、タバコを挟んだ人さし指の先を鼻の穴に差し込む。しゃくれた顎が居丈高に見える。

「栗塚君。夕べは迷惑やったなあ」

おっちゃんの声に振り向く。

「とっちゃん、部屋に上げてやらんでもええのに。生意気言うたら追い返したってな」

おっちゃんの表情を横目に、とっちゃんはタバコをふかす。タバコの先からは、灰が垂れ下がっている。

「いえいえ。別に迷惑では‥‥」

とっちゃんが僕を訪ねてきたことは、もう販売所のみんなに知られている。とっちゃんは、一体どんな風に語ったのだろう。

とっちゃんを軽く睨み付けた。とっちゃんの右手が、しっかりとキスチョコを掴み取っているところだった。

 

その日、夕刊を配り終わり下宿に戻ると、腹がじくじくと痛み始めた。数日間、朝夕2回梅雨の雨に晒され、冷やしてしまったからだろう。が、下る兆候はない。全身を乾いたタオルで拭い、素っ裸のまま夏蒲団にくるまった。

微かな雨音を聞きながら、一時の眠りに落ちる。目覚めると、午後7時半。まだ腹の痛みは消えていない。空腹感はあるが起き上がる気にはなれない。うつ伏せになり、すっかり柔らかくなっているココナッツサブレ4枚をポットの水で飲み下した。100円定食は諦めることにする。

ただただ天井を見つめて過ごす。雨音は強くなっている。市電の窓越しに見えた「頑張ってね」と言う啓子の口を何度も思い出す。雨音が、遠ざかっていく市電の音がように聞こえる。

とっちゃんの顔が浮かび上がってくる。しゃくれた顎が、僕を見下している。目は鋭く冷徹で、心まで射抜くようだ。

腹痛が下腹部へと熱く移動していく。僕の中に巣食いつづけている虫が蠢いているようだ。ぼんやりと僕の尻からひり出されていく虫の姿を想像する。下腹部に集中していた熱が全身を巡り、次第に頭の芯まで覆っていく……。

 

「お兄さん!‥‥お兄さん!」

下宿のおばあさんの声に飛び起きた。裸の身体は汗にまみれている。ぬるぬるとした胸を一撫でし、濡れた布団を跳ね上げる。急がねばならない。窓の外は明るい。梅雨も終わりが近付いているのだろうか。

爽やかな朝だった。空腹感はない。朝刊を配る足も軽い。僕の中に巣食っていた虫たちは加熱分解され、全身の毛穴から汗と一緒に流れ出てしまったのかもしれない。

しかしさすがに配り終わる頃には、耐え切れないほどの空腹感が断続的に襲ってくるようになった。販売所のおばさんの、お菓子のお盆を差し出す笑顔さえ浮かんでくる。

突然オルガンの音が耳に入ってくる。配達エリア最後の筋へと曲がった時だった。

懐かしいメロディだった。小学校高学年の頃よく耳にした、温かいメロディだった。曲名は思い出せない。が、空っぽになった身体に心地よく染み込んでくるメロディだ。

足が止まった。メロディの主が気になった。高く白い塀を、無理と知りつつ背伸びして覗き込む。

美しく剪定された巨大な松の木が目に入ってきた。その枝陰の向こうに、緑の洋館風の高い窓が見える。オルガンのメロディは、明らかにその窓から流れ出ている。

五角形の木製の外壁は鎧戸風になっていて、南に向いた高い窓の奥には飾り皿の掛かった壁が見える。オルガンは何処にあるのか‥‥。弾いているのは、どんな人か‥‥。

爪先立った時、裏木戸が開いた。割烹着の女性が、箒とちり取りを手に出てくる。お手伝いさんだろうか。

「おはようございます」

声が上ずる。

「あ、おはようございます。ご苦労様~~」

少し戸惑った明るい声が返ってくる。再び、走り始める。

繰り返し演奏されているオルガンのメロディが背中に遠のいていく。演奏している少女を思い描く。

真っ白な開襟の長袖シャツの、ギャザーの入った袖口は留められていて、手の甲の半ばから先がオルガンの鍵盤の上をしなやかに左右している‥‥。くすんだ草色のフォークロアのスカートが黒皮のストールに半分腰掛けて‥‥。

販売所に戻ると、いつもの光景が待っていた。が、いつもより明るく新鮮に見える。雨が上がったせいばかりではないようだった。

 

しかしその日、夕刊配達から帰ってきた時の販売所には、ただならない空気が漂っていた。

販売所の引き戸を開ける音に、階段下に腰掛けた大沢さんと桑原君の険しい目が振り向く。いつもの場所に陣取ったとっちゃんは、タバコも咥えずカウンターの方を見ている。好奇心一杯の表情だ。

「ただいま」の言葉を飲み込み、そっと階段下に行く。桑原君の横に座ると、囁き掛けてきた。

「新入りなんやけど、ちょっとな‥‥」

突然、おっちゃんの声が響く。

「はっきりしいな!」

おっちゃんの真向かい、カウンターの手前にジャケット姿の男が佇んでいる。その右には小さなボストンバッグ。踵をきれいに合わせた足元は、泥汚れの目立つ革靴だ。得体が知れない。

「家出ちゃうやろな、言うてるんや。わかるか?家出はあかんで。ちょっと事情が、言うんやったら、教えといてもらわんとな。何かあったら困るさかいな」

住み込みの配達員にお金を盗まれたことや乱暴を受けたこともあるというおっちゃんの嗅覚は鋭い。

男が振り向く。僕たち4人の好奇の視線を浴び、一瞬表情をこわばらせるが、意を決したようにおっちゃんに向き直る。

「自衛隊にいました」

張りのある声だ。

「なんや。なんで、それ早う言わへんの。立派なもんやないか。なあ」

おっちゃんは安心の声を上げ、僕たちに笑顔を見せる。

「でも‥‥」

その後のか細い声に、おっちゃんの眉が曇る。僕たちにも緊張が走る。シュボっとタバコに火を点ける音が頭の上でする。

「なんや。どないした?」

「逃げてきたんです」

「へ??!」

素っ頓狂な声を上げ、おっちゃんは少しのけぞる。

「自衛隊から逃げてきた?」

下から上へ上から下へとねめまわす“おっちゃん”の目線に、男は首の後ろで曲がっていたジャケットの襟を立て直す。

「山下君やて」

桑原君が、耳打ちする。

「何があったんやろうなあ」

大沢さんがポツリと言う。とっちゃんの咥えたままのタバコは半分が灰になり、垂れ下がっている。

「逃げた、というか、まあ、あの~~、正式に除隊してなくて。それで出てきたもんで……」

山下君の説明は、聞き取れないほど小さくたどたどしい。

「もっと、ちゃんと言うてくれへんか」

おっちゃんに求められ、山下君は身の上から語り始める。

岐阜県出身の山下君は、19歳。高校を出てすぐ、自衛隊に入隊。半年を過ぎる頃には、最初は戸惑っていた厳しい訓練や演習にもついていけるようになった。仲間もできたような気がしていた。

ところが、天皇パチンコ襲撃事件で明けた翌1969年。東大安田講堂事件が機動隊の学生排除によって終了した頃から、身辺が少しずつ騒々しくなっていく。山下君は、何が何かもわからないまま、日々の小さな議論の渦に巻き込まれるようになった。

5月に入った頃、仲間の一人がこっそり耳打ちしてくる。

「今度の休み、新宿西口広場に行ってくる。内緒だぞ」

それが何を意味しているのかはわからなかった。しかし、危険な匂いのする秘密の共有だった。嫌なことが起きそうな予感がした。

その仲間は、ほどなく除隊した。山下君は安堵したが、確実に何かが起きている、しかも、山下君自身、そのことと無縁でいることはできない、と思った。

山下君は、自分を取り巻く渦の正体を少しでも知りたいと思うようになった。彼はまず、よく耳にする“資本論”を読んでみることにした。

“資本論”は隊内の図書館にあった。借り出して一晩横に置いた。何度もチャレンジしたが、読み進むことはできなかった。誰が何のために読む本なのか、見当もつかなかった。翌日午後、諦めて返却した。

次の日の夕方、教官の部屋に呼ばれた。呼び出されるのは初めてだった。高校時代のことをあれこれしつこく訊かれた。友人関係に関しては、細かくメモを取られた。

「“資本論”読もうと思ったきっかけは?読んでどうだった?」

終始笑顔の教官にそう訊かれ、山下君は突然怖くなった。追い詰められていきそうだと感じた。

次の日も呼び出された。その瞬間、山下君は決心した。“逃げよう!”。その夜、脱走した。岐阜に戻ろうかとも思ったが、両親のことを思うとできなかった。

そのまま京都まで来てしまった。市の中心部をふらふらと北上し、北山通りまでやって来た……。

 

静かに聞いていたおっちゃんは、柔和な顔に戻っていた。

「しかし、このままにはでけへんやろう?住み込みで働いてもらうのはかまへんけど……。わしが、連絡したろか?お父さん、お母さん元気にしてはんの?」

おっちゃんは、身を乗り出し優しく言った。山下君の肩が突然揺れ始めた。緊張が解けたのだろう。泣いているようだ。

その姿に桑原君は怒りを顕わにした。

「“資本論”は思想チェックの踏み絵かいな!酷いことするなあ」

「泣いてんのか?なんでや?泣いたらあかんやないか、なあ。男が、なあ」

とっちゃんの声に顔を上げると、にんまりと見返してきた。

カウンターでは、おっちゃんが山下君から実家の電話番号を聞きだし、連絡を取っている。

僕たちは耳をそばだてたが、電話はあっけなく終わった。既に自衛隊から実家に連絡が入っていて、山下君の両親が自衛隊への謝罪は済ませているようだった。

電話に出るようおっちゃんが勧めたが、山下君は首を横に振るばかり。

「山下君。……あんた、どないする?家に帰るか?お金なら貸したるで。な!それがええんちゃうか?」

電話を切ったおっちゃんが、山下君を覗き込む。山下君はしゃくりあげ始める。

「お母さん、“帰らせてください”言うてはったで」

おっちゃんのその言葉に、山下君は遂に声を上げて泣き始める。

「帰れんやろなあ。帰られへんわなあ」

それまで無言で見守っていた大沢さんが溜め息を漏らす。

「そうですね」「そうやなあ」

僕と桑原君が相槌を打つと、

「気い弱そうやしなあ」

と、大沢さんは二階へ上がっていく。おっちゃんはもう一度電話をするらしい。

「お母ちゃん、帰ってこい言うてるんやったら、帰ったらええがな」

とっちゃんは、不満そうに吐き捨てる。

「“しばらく責任を持って預かるから、安心してください”言うといたけど、ほんま、どないする?帰るか?それとも、新聞配ってみるか?」

本人が望めば住み込ませてやってもいい、という風に聞こえる。

おっちゃんはこうして、これまでも数多くの漂流青年に一時しのぎの職と住まいを提供してきたのだろう。

「お、お願いします‥‥」

山下君の声が、か細く震える。踵はまたきちんと合わされている。

「え!?なんやて?聞こえへんがな」

「新聞配達をさせてください!」

震えた声が、大きく答える。俯いていた顔も真っ直ぐおっちゃんに向けられている。

「よっしゃ!わかった!ほな、ついといで」

カウンターからささっと出てくると、おっちゃんは階段下の僕たちを押しのける。

「しかし、わしのズボンは無理やろうなあ」

洋服のサイズを測る目で山下君を振り向く。

「そら無理やで。おっちゃん脚短いやんか」

とっちゃんが慌ててタバコを消し、階段を開ける

「さ、早うおいで」

山下君はおっちゃんに促され、僕たちの間を身を屈めてすり抜ける。

「失礼いたします」

すり抜けざまに僕たちに最敬礼をして、二階へと上がっていった。

 

こうして山下君は、正式な住み込みの配達員となった。部屋は桑原君の部屋の隣。配達区域は、負担の増えているカズさんの担当エリアの一部を引き受けることとなった。

 

  つづく       Kakky(志波郁)


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