昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章“とっちゃんの宵山”(短期集中再掲載)  3.とっちゃんの将棋  4.元自衛官、山下君

2012年09月23日 | 日記

とっちゃんの将棋

そんな頃、大沢さんからの「とっちゃんは、一緒に遊んであげた方がええんちゃうかなあ」という話に、僕は乗った。遊んで親しくなれば、“おっさん”のことや給料の預け場所なども聞き出せるのでは、という期待が大いにあったからだった。

「何して遊びましょう?」と大沢さんに訊くと、「将棋がええんちゃう?」と応えた。その瞬間、桑原君はぶほっと飲みかけていたお茶を吹き出した。「まあまあ、一度やってみたら?」と、大沢さんは笑った。

 

翌日、早速僕は「とっちゃん、将棋好き?やるか?」と誘ってみた。「なんや、ガキガキ将棋すんの?ほな、しょうか~」。とっちゃんは即答だった。“おっちゃん”が「ガキガキ気い付けや~。とっちゃん強いで~~」と言うと、カズさんは「負け知らずやからなあ」と、目くばせをした。

階段を駆け上がっていくとっちゃんを追おうとすると、桑原君の声が「遊びやからな。遊び~~」と背中から追いかけてきた。

二階の北山通りに面して三つ並んでいる四畳半の、一番端の空いている部屋でとっちゃんは待っていた。西は鴨川に、南は北山通りを挟んで植物園に臨むという絶好の部屋だが、桑原君によると、「西日もろやからなあ。4月から汗だくやと、夏心配やろ。最初はええなあ思うてんけどな。替えてもろうてん」ということだった。

灰皿を横に胡坐を掻いて、駒をいそいそと並べ始めているとっちゃんに僕は、“相当強いんだろうなあ”と思った。負けた後のとっちゃんの言い様が気になったが、「遊びやからな。遊び~~」なのだから、と覚悟を決めた。

「わしからでええか~?」ととっちゃんが角道を開けて、対局は始まった。定石通りの手順でさっさと進んでいくのだが、とっちゃんは僕の一手毎に「そおか~~」「やるやないか~~」「そこ来るか~~」と大袈裟に首を振り、時には居住まいを正して盤を睨みこんだりしていた。

しかし、5~6分経つと、僕が首を振ることになった。とっちゃんは、すこぶる弱いのだ。順調に進んだ10手目くらいが終わると、もうバタバタ状態。何をしていいかわからないのでは、と思えるほどだった。

僕は、窓辺に並んで腰掛け盤面を見ている桑原君と大沢さんの笑顔に、小首をかしげながら両手を少し広げて見せた。僕は、みんなにすっかりからかわれていたんだ、と思った。

すると、大沢さんが口をとがらせ、盤面に注意を向けるよう促した。急いで振り向き、横を向いている間に駒の入れ替え、置き換えなどをしていなかったかと見てみたが、何も変わったようには見えなかった。

「矢倉囲いしよう思うて間違うたわ。今日は、あかんなあ」と照れくさそうに笑うとっちゃんを、「矢倉囲い知ってるだけでも凄いやないか~」と少し慌てながら、僕は詰めのことを考え始めた。もう、ちょっと面倒くさくなっていた。

その時突然、“とっちゃんの強さの秘訣”を僕は、発見した。すぐに僕は言った。「とっちゃ~~ん。自分の王様隠したらあか~ん。そりゃ、卑怯や」。横を向いている間に、とっちゃんは自分の玉を隠してしまっていたのだ。

とっちゃんは悪びれることなく、「せやかて、これ取られたら負けるや~ん」と僕に玉を見せ、胸のポケットにポトリと入れた。「さあ、次はどう行こうかな~~」と、盤面に覆いかぶさる背中に春の日が射していた。

 

一度将棋に付き合ったために、とっちゃんは毎日のように「ガキガキ~~。将棋せえへんか~~?」と誘ってくるようになった。その度に「とっちゃん、自分の王様隠すんやもん。それ止めるんやったら、してあげてもええけどなあ」と言ってみるのだが、それには反応せず「ええやないか~~。一回だけ。一回だけ!な!」と拝むように繰り返した。

根負けし、「一回だけやで~」といつもの部屋に上がると、必ず3回は相手をさせられた。

僕は頭を切り替え、とっちゃんの駒を全て取り切ることで終わるようにしていたが、さすがに3回取り切るのには、少々時間を要した。

大沢さんは、「僕もな、その方法が一番や思うんよ。結構面倒くさいけどな」と慰めるように言ってくれたが、その裏に“君が相手するようになってくれて、ほんま、助かったわ”という安堵があるように感じた。

僕が相手をしてくれる唯一の仲間だと思ったのか、とっちゃんの“将棋せえへんか~~?”は執拗で、次第に逃げることが難しくなっていった。配達が終わった爽快感を感じる間もなく襲い掛かるおねだりに、僕は苛立つようになった。下から見上げる粘っこい目つき、絡みつくような誘い方、その度に吐き出されるおかきとタバコが入り混じった臭い……。

“おっちゃん”と“おばちゃん”の「すまんな~~。我慢したってな~」という言葉がなかったら、怒鳴っていたかもしれなかった。

 

元自衛官、山下君

ところが、ある日を境にとっちゃんの“将棋せえへんか~~?”攻撃はピタッと止んだ。新しい興味対象が出現したからだった。

山下君だった。5月の終わりの夕方、小さなバッグ一つで販売所に現れた山下君は、そのまま住み込みの配達員となった。

“おっちゃん”とのやり取りを階段に重なるように座って聞いていた3人は、全員その話に興味を持ったが、ひと際刺激されたのはとっちゃんの好奇心だった。

「家出ちゃうやろな~?何か事情があるんやったら、教えといてもらわんとな。何かあったら困るさかいな」。“おっちゃん”は、山下君の着の身着のままのいでたちと小さなバッグに不信感を隠さなかった。“危険なこともあった”“お金が盗まれたこともあった”といった話をいつも聞かされていた僕たち3人は、小さく頷きながら山下君の答えを待った。

「あの~~~、自衛隊にいたんですけど、逃げてきたんです」というのが、山下君の答えだった。“自衛隊から自衛隊員が逃げてきた”という事実に驚き、僕たちは顔を見合わせた。とっちゃんの目は輝いていた。

「自衛隊から逃げてきた?って……」と“おっちゃん”は一瞬絶句した。学生運動を“働きもせんと、何を暴れてるんやろうなあ、学生はんたち。日本の将来、心配やなあ”と僕たちに気遣いの目を向けながら批判していた“おっちゃん”の頭は混乱しているようだった。

「自衛隊員だった、って……」と呟きながら、下から上へ上から下へねめまわす“おっちゃん”の目線に山下君は、首の後ろで折れていたジャケットの襟を慌てて直した。

「逃げた、というか、まあ、あの~~、正式に除隊してなくて。それで出てきたもんで……」と山下君の説明が始まった。時には聞き取れないほど小さくなる声、たどたどしい語り口、困ったような曖昧な笑顔に、気の弱さがはっきりと表れていた。

岐阜県出身の山下君は、19歳。高校を出てすぐ、自衛隊に入隊。半年を過ぎる頃には、最初は戸惑っていた厳しい訓練や演習にも慣れ、それとなく仲間もできたように思い始めていた。

ところが、天皇パチンコ襲撃事件で明けた翌1969年。東大安田講堂事件が機動隊の学生排除によって終了した頃から、身辺が少し騒々しくなっていった。山下君は、何が何かもわからないまま、日々の小さな議論の中に巻き込まれていった。

5月に入った頃、仲間の一人がこっそり耳打ちした。「今度の休み、新宿西口広場に行ってくる。内緒だぞ」。危険な匂いのする秘密の共有だった。嫌なことが起きそうな予感がした。しかし彼は、ほどなく除隊した。山下君は安堵した。が、確実に何かが起きている、しかも、山下君自身がそのことと無縁ではいられない、と痛感した。

山下君は、勉強することにした。彼はまず、よく耳にする“資本論”を読んでみよう、と思った。

隊内の図書館で借りた。一晩横に置き何度もチャレンジしたが、ページをめくるには至らなかった。翌日午後、諦めて返却した。誰が何のために読む本なのか、見当もつかなかった。

次の日の夕方、教官の部屋に呼ばれた。初めてだった。高校時代のことをあれこれしつこく訊かれた。友人関係に関しては、話す度にメモを取られた。

「“資本論”、なぜ読もうと思った?読んでどうだった?」と笑顔で問われ、山下君は突然怖くなった。もう後戻りできそうにない、と思った。

さらに次の日も呼び出され、山下君は決心した。「逃げよう!」。

 

「このままにはでけへんやろ。住み込みしてもらうのはかまへんけど……。わしが、連絡したろか?お父さん、お母さん元気にしてはんの?」。状況を納得した“おっちゃん”の親切な言葉に、突然山下君は泣き始めた。

その姿に桑原君は「“資本論”は思想チェックの踏み絵かいな!酷いことするなあ」と怒りを顕わにし、とっちゃんは「泣いてんなあ。なんでや?泣いたらあかんやないか、なあ。男が、なあ」とにまにましていた。

“おっちゃん”の電話連絡はあっけなく終わった。自衛隊から既に連絡を受けていた山下君の両親が後始末を済ませていたようだった。

「山下君。……あんた、どないする?家に帰るか?お金なら貸したるで。な!それがええんちゃうか?お母さんも“帰らせてください”言うてはったで」。

“おっちゃん”の申し出に山下君は、しゃくりあげながら首を横に振った。大沢さんは「帰れんやろなあ。気い弱そうやしなあ」と、二階に上がっていった。

“おっちゃん”は、山下君の母親に「しばらく責任を持って預かるから、安心してください」と電話した上で、二階の端の部屋に山下君を連れて行った。こうして、山下君は住み込み配達員になった。将棋盤は一階に下ろされた。

 

翌日から、最後に山下君が帰ってくるまで、とっちゃんの話題は“自衛隊”、“資本論”、“踏み絵”にまつわるものとなった。「なんで?」から始まる質問攻撃に、大沢さんと僕は逃げ惑ったが、桑原君はまともに受け止めた。自衛隊とはどういうものか、“資本論”はどんな本か、を得々と語る桑原君には、自らの意見を語る絶好の機会を得た喜びさえ垣間見えた。

とっちゃんは、「へえ」「そうかあ」などと相槌を打ちながら耳を傾けていたが、「な!そういうことや」と桑原君が念を押すように言うと、決まって「なんで?なんで、そういうことなんや?」と、話を元に戻した。

“踏み絵”の話には、特に困っていた。「なんで?踏んだらええやんか。絵やろ?踏んだらええやん」と言い張るとっちゃんに遂に音を上げ、「そやなあ。踏んだらええんやけどなあ…」と同調することになってしまった。そして、それをきっかけに、桑原君の熱意は急速に冷めてしまった。とっちゃんのターゲットは僕に切り替わった。

僕はいきなり逃げの一手を打った。「“おっさん”に訊いたらええんちゃう?僕らより詳しいんちゃう?」。大沢さんは、右手親指を立てながら、僕に大きく頷いて見せた。

とっちゃんも「ガキガキ~~~。ええこと言うなあ。そらそうやわあ」と、自分が認められたとばかりに喜んだ。

 

3日後から、とっちゃんの「“おっさん”が言うてたけどなあ」が枕詞の話が始まった。山下君が帰ってくるのを待って始まることに、何らかの意味があるようだった。

「アメリカさんの都合らしいなあ」「朝鮮で戦争になったからや、言うてたなあ」「カタナガリされたんやって、言うてたけど。ようわからんかったわ」「台風の時、お世話になってるんやなあ、自衛隊に」「わしも一回入ってきたらええんや、言われたけどヤバヤバ(山下君のことをこう呼んだ)みたいになるの嫌やしなあ」「うれしい時に泣くのはええことや、言うてたけど、わし泣いたことないし」……。“おっさん”の話は多岐にわたっていた。

3人が小首を傾げたのは、“カタナガリ”だったが、大沢さんの「憲法9条のことを、刀狩り言うたんちゃう?」という説に桑原君と僕は「さすが!法学部!」と納得した。

僕の“おっさん”への興味は募ったが、将棋から解放されたことが“おっさん”に会う機会を遠のかせていた。

僕たち3人は作戦を変更し、カズさんの“銭湯で会うおっさんちゃう?”という言葉を信じてみることにした。“おっさん”に会ってみたい、ではなく、“とっちゃんと一緒に銭湯に行こう”なら実現性が高い、ということになったのだった。

涙する姿を見られたせいか、4人と距離を置き続けている山下君は除外し、3人それぞれが“とっちゃんと一緒に銭湯に行く”チャンスを窺っていた。

                        Kakky(柿本)

次回は、明日9月24日(月)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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