昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章“とっちゃんの宵山”(短期集中再掲載)  2.とっちゃんと謎の“おっさん”

2012年09月22日 | 日記

1969年4月7日。僕は、19歳の新聞配達少年になった。自堕落な生活が身に付いてしまっている僕の心配はただ一つ。起床時間だった。しかし、それをもっと心配してくれたのは、下宿のおばあさんだった。

お蔭で僕は、初日から遅刻という失敗をすることもなく、カズさんの指導を受けることになった。スタート地点まで新聞を自転車で運び、ポストの形態とサイズに合わせて3種類の新聞の折り方を使い分けながら、ずっと走って約1時間。配達を始める頃は春の朝の冷気に身震いしていたというのに、終わる頃には、全身から汗が湯気となって立ち上っていた。爽快だった。

毎日が順調だった。カズさんの予言通り、一週間後には配達先を憶え、次のポストに合わせて自然に新聞を折ることができるようになっていた。

 

配達が終わり販売所に戻ると、いつもの場所に座って待ち受けているとっちゃんの「ガキガキ~~、お疲れ~~」に迎えられた。とっちゃんは、販売所のおばさんが毎朝用意してくれているお盆一杯のお菓子を抱きかかえるようにしていた。

僕に一歩遅れて帰ってくるのが、桑原君。それから、大沢さん。二人とも、販売所2階の住込みだった。桑原君は、大阪出身の同い年。大学受験を目指していた。大沢さんは、東北出身の26歳。司法試験浪人で、4回連続一次試験で落ちていた。

そして、最後に勢いよくスーパーカブを唸らせて帰ってくるのが、カズさんだ。住宅開発著しい北山通り北側から松ヶ崎あたりまでをフォローしているとのことだった。

カズさんは帰ってくると必ず同じ台詞を言った。「とっちゃん、お菓子独り占めしたらあかんで~~」。

ガラス戸が開いた瞬間に、もう腰を浮かせているとっちゃんは、それに対して決まってこう言った。「誰も欲しい言わへんねんもん。いつでも分けたるでえ、わし」。

その後、横に置いた専用の巨大湯呑のお茶をひょっとこ口で一口すすり、「ガキガキ~、グワグワ~、オオさん~、食べるか~?」とお盆を差し出した。

しかし、その直前、とっちゃんがお盆の中のキスチョコを全部ポケットにねじ込むのを目の当たりにしている三人は、必ず苦笑いの目を合わせるのだった。

おっちゃんに内緒で学生運動の端っこに加わり、デモや座り込みに時々参加している桑原君は、そんなとっちゃんを「いろんなこと教えたらんとなあ。あれじゃあ、人間として恥ずかしいで」と言い、大沢さんは、「一緒に遊んであげたらええんやないの?遊びながら、まず人付き合いのルールをやね~」と最年長者らしいアドバイスをしたりしていた。

そんな周りの想いなど眼中にないとっちゃんは、毎朝好きなお菓子を食べ切り、タバコを1本吸い終わると「おばはんがうるさいし、帰るわ~」と帰っていった。とっちゃんの言うおばはんが彼のお母さんであることは、大沢さんが教えてくれた。

とっちゃんが帰った後、残った三人は、新聞配達の疲れが一気に全身を覆ったかのように、しばし気だるい沈黙に陥った。そして、とっちゃんのいない階段に座り、とっちゃんの食べ残したお菓子を食べるのだった。

 

お菓子を食べる合間に、“おっさん”から聞いたという話を、とっちゃんは時々披露した。おっちゃんは販売所の所長。おばちゃんはその夫人。おばはんは母親。と、微妙に使い分けているとっちゃんの言う“おっさん”が誰なのかわからず、最初は戸惑った。

僕の怪訝な顔付に気付いたおっちゃんが、とっちゃんが帰った直後に説明をしてくれた。

しかし、「とっちゃんは、母一人息子一人やから、“おっさん”いうのは、近所の人やと思うんやけどなあ。誰なんや?その“おっさん”いう人は?言うても、ニタニタして教えてくれへんのや。カズさんは、いつも行ってる銭湯で会う人やないか、言うんやけどなあ」と、はっきりとはしていないようだった。

しかし、“おっさん”がとっちゃんにとって特別な存在であることは、その話しぶりから窺い知れた。僕は、“おっさん”に興味が湧いた。桑原君も大沢さんも、その人物像が気になっているようだった。

やがて僕たち3人は、“おっさん”の話題で盛り上がるようになった。とっちゃんから聞こえてくる“おっさん”の言葉には、不思議が一杯詰まっていたからだった。

三人の中でとっちゃんとの付き合いが一番長い大沢さんは、とっちゃんが“おっさん”を信頼するに至った経緯を、教えてくれた。それはちょっと悲しい物語だった。

 

とっちゃんのお父さんは、とっちゃんが小学校に入って間もなく家を出ていった。それからは、お母さんが女手一つでとっちゃんを育てた。販売所のおっちゃんが「ウチで配達でもさせてみたらどやろ?」とお母さんに提案したのは、とっちゃんが中学校を卒業した時。とっちゃんのお母さんがカズさんにとっちゃんの将来を相談し、おっちゃんがその話を耳にしたからだった。

とっちゃんはヤル気満々で現れ、「配るだけやろ。簡単、簡単。任しといて」と豪語したが、カズさんの付き添いなしに配り終われるようになるのに2ヶ月、欠配がなくなるのにはさらに1ヶ月を要した。

給料日に初給料を受け取った時のとっちゃんの喜びようはなかった。封筒に入った2万円弱の給料をゆっくりと数えて確かめ、丁寧に封筒に戻すと、ポケットから布袋を取り出し、その中に入れた。

「通帳入ってんねん。おかんが作ってくれてん」と、うれしそうに布袋を振って見せた。「印鑑も入ってんのか?落とさんようにしいや。おかんに何か買ってあげへんのか?」とおっちゃんが訊くと「全部貯金すんねん」と、とっちゃんは布袋をポケットに戻し、「おかんに預かってもらうんやで~~」と追いかけるおっちゃんの声に手を振り帰って行った。

それから2年後。とっちゃんはふと嫌な予感がした。お母さんが働きに出た後、箪笥の引き出しから布袋を取り出した。通帳を開くのは2年ぶりだった。とっちゃんは、目を疑った。残高は、ゼロだったのだ。

翌日からとっちゃんは、変わった。お母さんを“おばはん”と呼ぶようになり、配達後に出てくるお菓子に異常な執着を見せるようになった。

そのしばらく後に住み込みになった大沢さんは、「母親に裏切られた思うてる子やから、多少のことは我慢したってな」と、おばちゃんに言われたという。

とっちゃんはしばらくの間、口数も少なく険しい顔つきになっていたが、ある日ふっ切れたように笑顔と饒舌を取り戻した。その時の話題の主が“おっさん”だったのだ。

「おっさん、言うてたわ」と語り始めるとっちゃんは、顎を上げ得意そうで、一つ賢くなったと言わんばかりの自信さえ感じさせた、と大沢さんは言った。

「おかんとわしは、ドーシなんや。ドーシ言うのは、友達より強いらしいんやなあ。ほんでな、甘えたらあかんのやて、ドーシは。タイトーなんらしいわ。これは、おかんのもの。これは、わしのもの。いうのもあったらあかんねんて。せやから、おかんがお金使うてもしゃあないんらしいわ。おっさんに“とっちゃんかて、小さい頃からずっとおかんのお金使うてたんやろ?”言われたら、“そらそやなあ”思うしなあ」。

ドーシは同志、タイトーは対等、を意味するに違いない。私的所有権など意味がない、と“おっさん”は言いたかったのかもしれない。とっちゃんの聞いた話は、なかなか深い。“おっさん”には確かな思想背景があるようだ、というのが大沢さんの感想だった。

「ほんでな。銀行は盗人ばっかりやから、気いつけなあかん言うてたわ。汗かいてるわしの方が偉いねんて」。と、タバコに火を点けるとっちゃんの誇らしげな上目遣いに、“おっちゃん”は慌てて「そらそや!とっちゃんは偉いでえ。真面目に働いてるもんなあ」と調子を合わせた。しかし、余分な一言も添えた。

「とっちゃんの言うことはようわかる。せやけど、これから給料どないすんの?おかんに渡すんか?」。

とっちゃんは、火を点けたタバコを一度大きく吸い込み、音がするほど勢いよく口から抜いた。

「そら、できん!タイトーなんやで!おかんが使うてまうがな。タイトーいうのもめんどくさいもんなんや。せやからもう、ちゃ~んと考えてあんねん!」と、タバコを挟んだ人差し指でこめかみをとんとんと叩いて見せた。“おっちゃん”はそこで引き下がった。「そうか~~。せやったらええわ」。

“おっちゃん”、カズさん、大沢さんの3人は、安堵した。とっちゃんの中でどう整理されたのかはっきりとはしなかったが、悲しい事件の余韻は収まったようだった。“おっさん”のおかげだった。ただ、とっちゃんの表情に小さな驕りが生まれてきているのを、大沢さんは見逃さなかった。

2日後、とっちゃんは“おかん”のことを“おばはん”と呼ぶようになった。聞きとがめた“おっちゃん”が、「とっちゃん!おかんのことそんな風に言うたらあかんがな!」と叱ったが、「なんでえ。おばはんはおばはんやからええやないか」と口をとがらせただけだった。

その頃から配達後のお菓子への執着が強まった、というのが大沢さんの印象だった。“おっさん”から私的所有権の無意味さを教わったのは、母親との間のことに限定されているようだ、という分析だった。

相変わらずずっと謎だったのは、給料をどこにどういう風に保管しているのか、ということと、“おっさん”の正体だった。

 

僕が話に加わるようになってからは、時々発せられる「“おっさん”が言うてたけどなあ」という言葉に次いで出てくる話も多岐にわたるようになっていたが、それは左翼思想のものだということが明らかになっていった。

ある日、声を潜めるように聞いてきた言葉に、僕は驚いた。

「ガキガキ~。お前もサクシュされてるんやで。気いつけなあかんで」。

「そうかなあ。そんなことない思うけどなあ」と応えると、とっちゃんは「ガキガキも、まだまだやなあ」と言って、グヒグヒと笑った。

左翼思想の持ち主と我々3人の間で決まった“おっさん”だったが、その発言は時として異質な雰囲気も漂わせた。

「欲張ったらあかん、言うんや、“おっさん”が。欲いうもんは、な~んもいいことないんやて。ない方が平和らしいわ」。

ポケットに入れたキスチョコのことを意識することもなく、したり顔で言い切るとっちゃんに笑いながら、僕たちはまた“おっさん”の誰たるかを話し合ったりするのだった。

                                 Kakky(柿本)

次回は、明日9月23日(日)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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