昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ⑯

2010年12月27日 | 日記

下宿の6畳に戻ると、決心が揺らぎ始めた。とっちゃんにはまだ告げていないばかりか、販売所の誰にも「とっちゃんと宵山に行ってきます」と宣言していないことにホッとする気持ちが強くなっていた。日々待ち続けている手紙がその日も着いていないことが、僕の心を小さくしているようでもあった。

夕闇が迫る頃、未練がましく一階のポストを見に行き、そのまま食事にと思ったが、その気になれない。暗い6畳に戻り、窓を開けた。

窓辺に肘を掛け、生暖かい夏の京都の夕風に顔を曝していると、やけに田舎が恋しくなった。きっと人恋しいだけなんだ、田舎はもう出てきてしまったんだから、と込み上げてくる寂寥感を抑え込む。

そうはいくものかと、寂寥感は自責の念に姿を変え、じんわりと身体を浸していく。こんな無為な時間を過ごしていていいのか、為すべきことを見つけなくていいのか……。

白地図に色を付けるように、心の端に浮かぶ言葉一つひとつを塗り固めようとする。右脳と左脳が仲違いをしているような気分だ。

と、突然自転車のブレーキ音。道路を見下ろすと、2台の自転車に見慣れた姿がある。桑原君ととっちゃんだ。何事かと立ち上がると同時に、「ガキガキ~~~」と呼ぶ大きな声が届く。慌てて僕は、階下へと降りていった。

それから僕たち3人は、一緒に90円定食を食べに行った。桑原君ととっちゃん、それぞれが僕に話があるようだった。しかし、幸いなことに、桑原君はとっちゃんに話す機会を譲ることになった。そして、不幸なことに、僕はとっちゃんに“宵山への同行”を約束する羽目になった。9時過ぎ、桑原君と僕で3人分の食事代を割り勘で支払い、別れた。

 

7月11日は、すぐにやってきた。

その日は、朝刊の配達が始まる前から、とっちゃんは上機嫌だった。

朝一番の「ガキガキ~~、おはよう。ええ天気やなあ。宵山日和やで~~~」という挨拶に、僕の配達の足取りは重くなり、いつもより10分以上配達終了が遅くなったほどだった。

販売所に帰ってくると、迎えてくれたのもとっちゃんの陽気なねぎらいだった。「ガキガキ~~~。お疲れさ~~ん。まあまあ。お茶でも飲みいいな。お菓子、どうや?」と、いつもになく、お盆ごと差し出してくる。遠慮がちにお菓子を手にし、湯呑に口先を近づけると、質問攻撃が始まった。

「何時ごろやろ~?宵山始まんの」「わし、何着てったらええ?なあ、ガキガキ~~~」「昼飯食ったら行くんか?なあ、ガキガキ~~」「人いっぱいやろうなあ。電車通ってるんやろか?なあ、ガキガキ~~」「なあなあ、いつ行くの~~~?」………。お菓子を頬張った口先を尖らせ、タバコの煙とお菓子の食べかすと一緒に吐き出される質問の数々に、僕は閉口した。僕だって、初めての宵山。事情など知る由もない。ましてや、とっちゃんの服装のアドバイスなんて……。

「焦ってもしゃあないやないか。とにかく、一番ええもん着て、人に迷惑かけんようにするこっちゃで。なあ、とっちゃん」

“おっちゃん”の助け舟で質問攻撃は終わったが、代わりに笑顔と目くばせを繰り返し向けてくるとっちゃんに、遂にいたたまれなくなり、「夕刊終わったらすぐ、ここから出発しょうか」と僕は帰って行った。

大いなるミスを犯した気分だった。販売所で着替えて出かけるだけでも十分面倒な上に、“とっちゃん付き”とは!

帰りの自転車のペダルはひどく重かった。その重さは、まだ郵便が届く時間でもないのに、帰るや否やポストをチェックしてしまう自分の重さへと連なっていった。返事を一向によこさない彼女への想いが、暗い怒りと恨みに変わっていく予感がした。下宿生活を始めて、初めて引っ越しを考えた。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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