梅雨寒の翌日、日曜日の朝だった。
隆志は瞼の裏を白く照らす朝の光にベッドを転々として何にも行きつかず、ベッドの広さに不意を突かれたように目を開けた。首を右へ回すと、東の窓のカーテンは開け放ったまま。足元では扇風機が虚しくスレ音を立てている。首を起こしダイニングの方に目をやると、開かれ壁に貼りついたドアに朝の光が届き、ドアノブをテカらせていた。
希子が抜け出た綿毛布の端には小さな丸い窪みがある。希子の連れ子メグの痕跡か。鳴き声を上げる間もなくキャリーバッグに入れられたのだろう。すべてが、希子が消え去ったことを表している。
深く息を吸い、ベッドに半身を起こした。
日曜日に出て行かなくても……。いや、日曜日を一日共に過ごすことの方が、希子にとっては辛いことだったのだろう……。月曜の朝まで待ち、出勤後のダイニングテーブルに置手紙を残して出て行く、という気遣いをするゆとりは、もう希子の中には残っていなかったのに違いない……。
口には出さなくとも、お互いの気持は別れることで決まっていた。暗黙の同意を小さな仕草や何気ない言葉のやり取りの中で確認し合っていた。しかし、自らの身体から発する熱気と呼気以外に生命のゆらめきのない空間は、まるで二人の別れが見えない力に強要された不意の出来事であるかのように思わせた。
希子の綿毛布を手繰り寄せ、汗に濡れた胸を拭う。微かに希子の匂いがする。4日間、絶えて鼻にすることのなかった匂いだ。心和ませ、やがて欲情を掻き立たせる匂いだ。ほとんど抱き合って過ごしたGW。胸の中一杯にいつも満ちていた匂いだ。二人はこのまま同じ匂いで結ばれた一つの生命体になってしまうのではないか。希子の胸に顔を埋めていると、そんなうれしい錯覚を覚えてしまうほどだった。
しかし、梅雨入りを迎える頃にはそんな至福の時間を共有する機会は少なくなっていた。
「今気が付いたんだけど、最近のキコって薄くなったね」
「何が?……あっ、匂いでしょ?」
「何故匂いのことだと思ったの?」
「タカシの匂いが薄くなってるって、私も思ってたから」
「嗅覚は疲れやすいから、印象が薄くなったのかな」
「私のセンサーもそう言ってる。けど、嗅覚を使う気持が弱くなったとも考えられるでしょ?……飽きたってわけじゃないと思う」
「キコには特殊なセンサーがあるんだね」
「ううん。外付けセンサーがあるのよ」
希子の肩越しにミャーと鳴く声が聞こえる。
「メグのこと?」
「メグはお気に入りの匂いを見つけるのが得意。特に私のね。趣味が似てるの」
「そう言えば、最初に俺に興味を示したのはメグだったね。渋谷のガード下で」
4月の終わり、会社の部下とバーに立ち寄った帰りだった。ハチ公前で部下と別れ、吸い寄せられるようにガード下へと向かった。
バーで耳にしたオールドジャズに学生時代を思い出させられていた直後だった。まっすぐ帰路につく気にはなれなかった。ガード下の暗い空洞が過去へと導いてくれるように感じたのかもしれない。
宮益坂を上がり渋谷郵便局の手前を左折すれば、かつての事務所へと向かう。行きつけだったスナックはまだあるのだろうかと、足はその方へと向かっていた。
ガード下、中間点にさしかかると、白い物体が転がってきた。足を止め目を下ろすと、その白い物体はミャーと声を上げた。子猫だった。とりたてて猫が好きというわけでもないが、足に頭を摺り寄せる姿が愛おしく、しゃがみこんだ。子猫に手を延ばすと、通りすがりの黒い影が後ろから腰にぶつかった。
「ごめんなさい」
女性の声が壁際の闇から聞こえてきた。それが希子だった。倒れそうになって地面についた手の下をくぐり抜け、子猫は彼女の元へ走り寄った。
「大丈夫ですか?」
闇の中から人影として現れ、しゃがみこんだままの隆志を覗き込んだ希子は、もう一度「大丈夫ですか?」と言った。胸に抱かれた子猫ももう一度、ミャーと鳴いた。
立ち上がり正面から向き合った。不思議な光景だった。浮浪者さえ見かけることのなくなったガード下、それも壁の闇から忽然と現れてきた女性。身ぎれいなワンピース姿だけでも十分に驚きに値するが、年齢が30代にしか見えないことが頭を混乱させた。
「大丈夫ですよ」
「メグって言うんです」
言葉が重なった。
「メグさん?」
隆志が聞き返すと、希子は微笑みながら胸にした子猫を撫でた。
「この子がね」
「あ、ごめんなさい。この子メグちゃんて言うんだ」
隆志はメグの頭を撫でようと手を延ばした。希子の指先に触れたが、メグには届かなかった。
それをきっかけに、互いに自己紹介をした。希子は名前しか名乗らなかった。
「希望の希と子で、希子と言います」
本名ではないかもしれない。が、だとしても不思議ではない。場所とシチュエーションがあまりにも特殊だ。口にはしにくい事情があったとしても不思議ではない。
「隆志です」
50代中盤の男には似つかわしくない台詞に、50代中盤の男らしくもない含羞の色が漂った。
数人の若いグループが通りかかった。メグを真ん中に抱え込むようにして、二人揃って壁際に退避した。希子の指定席であろう段ボールが敷かれ、その上にメグ用と思われるペーパートレイが置かれている。話し声と目線を避け、段ボールの上に座り込んだ。
闇の中に身を置くと、そこはたちまち、二人とメグだけの空間になった。希子はメグを撫で続けながら、時々隆志に目を向けてくる。
隆志の目に映るのは、通り過ぎる人々の脚ばかり。表情も服装もわからない、脚だけの人たちはやがて人としての存在感を失い、ただの景色へと変わっていく。
「落ち着くでしょ?ここ」
希子が微笑む。
「ちょっと出かけて来るね」
隆志はそう言って立ち上がり、状況に不釣り合いな言葉が口から出てしまったことに驚く。
「ビールでも、と思って……」
「ありがとう」
自分の居間を訪ねてきた親友を送り出す顔で、希子は応えた、
ビールのロング缶2本に助六寿司、メグのためのパウチのフードを手に、隆志がコンビニから帰ってくると、どこに保管してあったのか、希子はストールにくるまっていた。「お帰り」と上げた表情に疲れが浮かび上がっている。
「疲れてるようだけど……」
缶ビールを差し出す。わずか10分程度の時間がもたらした希子の変化が、彼女が抱えている問題の深さを思わせる。
同時にビールを一気に流し込み、フウと息を吐いた。このタイミングだと思った。
「よかったら、こんな処に子猫…メグちゃんと一緒にいる事情、話してくれる?」
重い質問だが、問わずにはいられなかった。バーボンの勢いもあった。オールドジャズが過去への郷愁を駆り立ててもいた。しかし、希子への関心がそれらを上回っている自覚もあった。
「構わないけど……つまらない話よ」
希子はビールとメグを下に置き稲荷寿司を一つ口にして、静かに身の上を語り始めた。メグは一声鳴いて隆志の膝にやってきた。
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