昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章:1970~73年 石ころと流れ星   ②

2011年03月21日 | 日記

朝早く、桑原君はやってきた。店の前に毎朝配達されてくる鶏ガラの山を寸胴の中に入れ、白湯スープの準備が終わった頃だった。デモか座り込みの帰りだろうと思った。

「黒ってどこ?」。セクトはヘルメットで色分け。革マルは赤、中核は白、青は文学部のL闘くらいまでは認識できていたが、黒に記憶はなかった。

「黒ヘルって、知らへんか~?」。桑原君は、黒ヘルの頭をポンと叩く。その指先から血が滴っているのに驚き、「怪我してるやん!」と中腰になると、「かすり傷、かすり傷」と笑った。

黒ヘルは、桑原君の説明によると、“ノンセクト・ラディカル”。どのセクトとも与せず、過激な闘争を独自に展開しようというグループらしかった。

「“ノンセクト”を宣言する“セクト”?」と訊くと、「まあ、そうや」と苦しげに笑い、「手当たり次第に暴れるわけちゃうやろなあ」と皮肉ると、「そんなわけあれへんやろう!」と黒ヘルを叩いた。その瞬間指先からの血が畳に飛んだので、セーターの腕を無理やりめくり、オロナインとタオルで応急処置をした。半年前の再現のようだった。

半年前、1969年10月21日。僕は初めて座り込みに参加した。桑原君の熱心な誘いと説得によるものだった。

「すべてを提供しろ、捧げろ、言うてるわけやあらへんねん。“ベトナム戦争反対”に賛成やったら、一緒に反対せえへんか?ってだけやないか」。

僕は、この一言に納得した。ベトナム戦争がなぜ始まったのか、なぜ拡大したのか、なぜ止められないのか……様々に考え語り合っていても、確かに戦争は止まらない。正しいと思うたった一つのことにみんなのエネルギーを集中する。すると、止める力の何万分の一かにはなれるんじゃないか……。そんな気分になっていた。多分に桑原君の熱気のせいだった。そして、20歳になる直前だったせいでもあった。

 

四条通の地下通路の一隅に固まった200人ばかりの一団に、やや遅れて加わった。桑原君を見つけることはできなかった。

最前列に座ることになった僕は、勤め帰りの人たちやカップルが通り過ぎるたびに奇妙な感覚に捕らわれていた。明るく近代的な地下通路に、少なくとも僕は似つかわしくないとも思っていた。

そして、「いつごろまで座ってる予定なんやろねえ」と隣の女の子に声を掛けた頃、事態は急変した。「来たぞ~~」という声に左の方を向くと、整列した機動隊が地上から階段を下りてくるのが目に入った。“これを待ってたんだ!”と思った。頭の芯に興奮が駆け上がってきた。

数分後、僕は腹を押さえて蹲っていた。酷く腹を蹴り上げられていた。“これが噂の機動隊の靴の威力か~~”と思いながらのた打ち回っていると、「学生は、家に帰って勉強せんかい!」という怒鳴り声が聞こえた。もう一度、蹴り上げられた。

両腕を抱え上げられ、“逮捕されるのかな~~”と覚悟しながら首を持ち上げると、「やられたな~」という声と笑顔があった。桑原君だった。女の子と二人で、助けにきてくれたようだった。

「さ、行くで!」と僕を引きずりながら、「引っこ抜きが始まってるし、逃げた方がええ!」と急かす。その言葉、動きには熟練の匂いがした。身を屈め、物陰を狙って移動し、階段を上がる直前に振り返ると、腕を組んで座り込んでいる一群から、ちょうど一人が機動隊員に連れ出されるところだった。“引っこ抜き”だった。腕も組まずにぼんやりと座っていた僕は、蹴り上げられるだけで済んだということらしい。

四条小橋を越えて路地に入り、小さなうどん屋さんに三人で入った。女の子は桑原君の彼女だと知った。祇園にある小さなアパートに住んでいる、ということも知った。

そして、桑原君の“階級闘争”に関する話を聞かされた。僕はうどんもほとんど喉を通らず、時々呻くばかりだったが、それが桑原君の話に勢いをつけていたようだった。

1時間後、彼女の部屋に落ち着き、お茶を飲もうとした時、桑原君の出血に気付いた。「名誉の負傷や。引っ張り出す時にやったんちゃうかなあ」と僕を見る目は、先輩が後輩を見る目だった。僕は、「二度と、座り込みやデモには参加しない!」と決めていた。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

 2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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