昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章:1970~73年 石ころと流れ星   ①

2011年03月18日 | 日記

「ヘルメットの色、変わったやろ?」。深夜にやってきた桑原君は、後ろ手に隠し持っていたヘルメットを畳の上に置いた。ずっと白だったヘルメットが、黒に変わっていた。誇らしげだった。

「なんてセクト?」。そう尋ねて僕は、自分の口から“セクト”という言葉が自然に出たことに驚いていた。

1970年4月中旬。僕は大学生になり、そして中華料理屋店の住込み従業員になっていた。

 

入学式がヘルメットの集団に粉砕され、そのままストライキに突入。ストライキの目的を知りたくて演説に耳を傾けてみたが、マイクを通した声は聞き取れず、中国語のような簡略文字と難解な言葉がちりばめられたチラシから読み取れることも少なかった。

「いつまで続くんやろ?」。隣にいた身ぎれいな男の脇腹をつつくと、「さあ、いつまでかなあ。無期限って言ってたからなあ」と答えた。“東京の奴だ”と思った。3人のグループだった。

「自由解散みたいだから、行くか。今後のことは、各自学生課の掲示板を見てくれ、って叫んでたしな」「すぐ排除されたけどさ」。

3人とも、やけに大人で事情通に見えた。知り合いのいない僕は、なんとなく側にいようと決めた。

野良犬のように2~3歩後ろをさりげなく付いていく僕に、やがて3人が声を掛けてきた。

4人とも同じ学部だとわかった。「学食、避けようか。オルグされるぞ、きっと」「そうだな。サテンにするか」と移動を始めた3人に、僕はジーンズのポケットの中を慌ててまさぐった。コーヒー1杯くらいは何とかなりそうだった。

正門の立て看板脇に陣取っていた、ヘルメット、タオル、ゲバ棒姿の一群を避けようともせず、「中核の字、なんでああなんだ」と通り過ぎていく3人を、遅れないように追っていく。振り向くと、入学した子供と記念撮影をしている2組の親子が見える。その時になって初めて、3人が3人ともネクタイ姿だったことに気付いた。

3人の話では、日米安全保障条約が自動延長になるのが6月だから、ストライキのまま夏休みに突入、秋には静かになるんじゃないか。その後は、国際反戦デーあたりかな、もう一度ストライキに突入するのは。ということだった。

説得力があった。きっとそうなるのだろう、と思った。そして、そうなるのであれば、迷っていたことを実行に移そう、と思った。中華料理店の住込み従業員になることだった。

 

いつも通っていた定食屋の息子からふと耳にした話だった。興味深かった。

店のオーナーは別にいて、家賃プラスαの金額で設備の整った店を貸与。賃料さえ払えば、コックは自分で稼げるだけ稼いでよい、という仕組み。一人のコックが、茨木の近くで始めようとしているが、手伝ってくれる若い人はいないかと言っている、ということだった。

20歳をきっかけに新聞配達を辞めていた僕は、住込み/一日1000円、という条件と若いコックの自立への道を共に歩めることに魅力を感じていた。いろいろな仕事を渡り歩くような生活に疲れてもいた。

茨木が京都と大阪のほぼ中間に位置していることも好都合だと思った。大学にだって通えるんじゃないかと思っていた。入試が終わるとすぐに下見に行き、通うのはさすがに無理だと分かったが、厨房に入ってみると「ここで働いてみたい!」と強く思った。決断できないまま一か月近くが経ち、意思決定の期限が迫っていた頃の“秋まで休み?!”という情報は、まさに“渡りに船”だった。

すぐに決断。「ひょっとすると、半年で失礼することになるかも……」ということも了承してもらい、さっさと引っ越したのだった。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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