「さ、行こか~!」。
自分の配達を早めに終えて待っていたカズさんは、僕が販売所に到着するやいなや僕の尻をポンと叩いた。彼が乗った自転車には、僕の配達分と思われる新聞の束が載っている。
「付いといで!」
言うが早いか、カズさんの自転車は北山通りを突っ切り、鴨川沿いの道を下っていく。振り向きもしない。後を追う。朝の冷気が頬に痛い。が、心地いい。
「まず、ここに半分置いておくんやけど、雨の日は‥‥、ま、それはまた終わってからにしようか」
そこが、配達の中間地点らしい。僕のエリアは戸建てばかりなので、走って配ることになる。全てを一気に抱えるのは無理なので、最初に半分を中間地点に自転車で運び、置いておくということらしい。
北山通りの一本南の角に戻る。スタート地点だ。京都新聞の文字とマークの入った真新しい帆布と肩掛け紐を渡される。
「新しいのにしてもろうたんや。頑張ろうな」
カズさんは、慣れた手つきで100部余りの新聞を帆布でくるりと丸め、結んでぶら下げていた僕の肩掛け紐の輪にひょいと差し込んだ。
「よし!重いか?」
「いいえ。そうでも‥‥」
「日曜日は倍くらいになるけどな。でもまあ、配れば減っていくもんやから。さ!行こか~~」
僕はまた尻をぽんと叩かれ、走り始める。カズさんの厚底のシューズの音が、キュッキュと後ろから付いてくる。向こうに見える北白川通りが朝靄に霞んでいる。“始まりだ!自立だ!”と、心でつぶやく。
「最初は、佐伯!」
勢いづく僕の足をカズさんの声が止める。最初のポストを通り越していたようだ。カズさんは、手元の地図を見ながら伴走してくれている。初心者には初心者のスピードがあると知っているプロの足取りだ。
「もう少し速うてかまへんよ」
極端にのろくなった僕を、カズさんが笑う。
「次,堀田。その次、谷水‥‥」
東西一筋を配り終わる頃には、カズさんとの呼吸も合ってくる。しかし、カズさんは時々足踏みをしなくてはならない。僕が個々のポストの口の違いに戸惑い、新聞をポストにすんなりと入れることができないからだ。
カズさんの「ちょっとタ~~イム」の声に立ち止まる。
「畳み方教えてへんかったなあ。2種類覚えとこうか。どんなポストもいけるから」
カズさんは、ほぼ正方形と細長い長方形の2種に素早く折り畳む。折り目を付けるカズさんの左手の親指と人差し指に、新聞がキシッ、キシッと音を立てる。プロの音だ。
同じようにやってみる。音は出ない。
「さ!走るで!」
走り出したカズさんを追い、追いつき追い越す。
「ほれ!佐古田!」
慌てて足を止める。ポストの口が小さいことを確認。長方形に折った新聞を選ぶ。折った角でポストの蓋をコンと押し、そのまま中に押し入れる。スムーズだ。
振り向くと、カズさんは足踏みをしながら微笑んでいる。
「さ!次やで!‥‥榎木!」
僕はまたカズさんを追いかけ、追い越す‥‥。
そうして走り続けて、1時間半。春の朝の冷気に身震いしていた身体からは汗が湯気となって立ち上り、脇にした帆布は空っぽになっていた。爽快だった。
それから以降も順調だった。カズさんの予言通り、一週間後には配達先をほぼ覚え、さらに一週間後には、次のポストに合わせて自然に新聞を折ることさえできるようになっていた。新聞を折る音も小気味よいものになっていた。
販売所の仲間とも打ち解けていった。
いつも僕より早く配り終わっているのは、3人。大沢さんと桑原君は、販売所2階の住み込み。大沢さんは愛媛県出身の26歳。司法試験浪人で、4回連続一次試験で落ちているらしかった。桑原君は大阪出身。僕と同い年で、やはり2度目の大学受験を目指している。とっちゃんも僕と同じ通いだが、おかあさんと二人暮らしのアパートは、僕より近いらしい。僕や桑原君と同い年だが、おっちゃんの言葉から察するに、僕よりも少し早く20歳を迎えるようだ。
僕が帰ってきて、まず目にするのはとっちゃん。初めて販売所を訪れた時のように階段の下から三段目にいつも陣取っていて、僕が玄関の引き戸を開けるなり、必ず大声を発した。
「グリグリ~~、お疲れ~~」
その甲高い声に苦笑する僕に、階段下に並んで座る桑原君と大沢さんも必ず苦笑いを見せた。
とっちゃんの足元には、販売所のおばさんが毎朝用意してくれるお盆一杯のお菓子。
「まあまあ、こっち来て食べたらええがな」
とっちゃんは、お盆を持ち上げ抱きかかえるようにして、手招きをする。
「うん。ありがとう」
どこか納得はいかないが、礼を言って近づく。とっちゃんは、グヒグヒと機嫌がいい。僕が彼の足元に腰を下ろすと、目の前にお盆が突き出される。
「好きなもん食ってええんやで」
そう言うが、手を延ばすとお盆を僕の方に傾け、微かに回転させる。明らかに特定のものを手に取らせようと意図されている。
「ありがとう」
もう一度礼を言い、おかきを数個手に取る。
「そんだけかいな。もっと食べえな」
面倒見のいい先輩の顔で、とっちゃんは口を尖らせる。が、お盆はもうしっかり彼の胸の中に引っ込められている。
「とっちゃん!独り占めにしたらあかんよ」
そう言いながら、販売所のおばちゃんがお茶を運んでくる。
「してへんがな。気い悪いこと言わんといて。グリグリが欲しがらへんだけやんか。なあ、グリグリ~~」
開いた脚の間にお盆を下ろし、尖ったままの口をおばちゃんに向ける。お盆の向きは微妙に変えてあり、僕の側にはピーナッツがきている。
「そうなんですよ。ね!とっちゃん」
湯飲みを受け取りながら僕がそう言うと、窺うように見ていたとっちゃんの目が緩む。
「グリグリ、まだ緊張してるんちゃうか~~?」
とっちゃんはゆったりと、タバコに火をつける。
「とっちゃん。灰皿あるか?灰落としたらあかんで」
おっちゃんがタイミングを計っていたかのように声を掛けてくる。
「わかってるて、おっちゃん。ほれ!」
片手に大きな灰皿を持ち、わざとらしく灰をポンポンと落としてみせる。
「それでええんやで。こぼさんようにな」
おっちゃんは奥に消えていく。
「おっちゃんにも困ったもんやで。なあ、グリグリ」
とっちゃんは不服そうに言うと、タバコを深く咥え一息吸うやブウと煙を吹き出す。
そんなやり取りが終わる頃、勢いよくスーパーカブを唸らせて帰ってくるのが、カズさん。住宅開発著しい北山通り北側から松ヶ崎あたりまでを一人で担当しているらしく、配達には2時間以上を要するとのことだった。
カズさんは帰ってくると必ず同じ台詞を口にした。
「とっちゃん、お菓子独り占めしたらあかんで~~」
ガラス戸が開いた瞬間にもう腰を浮かせているとっちゃんは、それに対して決まってこう返した。
「誰も欲しい言わへんねんもん。いつでも分けたるでえ、わし」
そして、横に置かれた専用の巨大湯呑をひょっとこ口で一口すすり、
「グリグリ~、グワグワ~、オオさ~ん、食べるか~?」
とお盆を差し出すのだった。
桑原君と大沢さんはそれを機に手を延ばし、僕にさりげなく目配せをする。
元はと言えば、販売所のおばちゃんのささやかなねぎらい。そこに小さな欲が絡んだところで目くじらを立てるようなことではない。二人ともそう考えているように見えた。
大沢さんと桑原君それぞれの個性はまだ掴めず、二人の関係も未知数だったが、同じ職場で働く者としての適度な気遣いは心地よかった。が、とっちゃんのあからさまな好奇心の向こうに、大沢さんと桑原君の抑制された好奇心を感じると、多少の緊張を感じることもあった。
そうして2週間が淡々と過ぎ、仕事にも仲間にも慣れた5月4日。休刊日を前にして、僕と大沢さんの関係は進展を見せる。
Kakky(志波郁)
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