昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との二泊三日 ⑨

2017年09月06日 | 日記

「ショックだった?」

「うん。複合的なショックだったかな。もちろん子供だったから、言葉を与えることはできないし、整理することもできない。ただ次々と疑問や怒りや不安が湧いては消えるという状態で……」

「辛かった?」

「辛くはなかった。おそらく、A君もB君もね」

小学校6年生の2学期早々に起きた事件は、運動会が終わる頃にはクラス全員から忘れられてしまったかのようだった。みんな、A君とは以前よりも穏やかに接するようになり、B君とは距離を置くようになっていた。

「クラスメイトの態度の微妙な変化に戸惑いと怒りを感じたけど、ふと気付くと自分自身も同じように変化していた。それは驚くべきことだったね」

担任とクラスの生徒、あるいは生徒同士の関係も一見平穏に見えたが、いつバランスが崩れてもおかしくないような危うさを感じさせた。

「僕も含めたみんなの意識や教室の空気の変化は一体何によってもたらされたものなのか、その頃は考えもしなかった。いや、考えてはいたのかもしれないけど、ずっともやもやとしていた記憶しかない」

「そのもやもやが後年晴らされることになる……」

「それはどうかな?あの時頭に入り込んできたもやもやは今でも残っていると思う。靄を構成する水の微粒子を搔き集めて一粒の水滴にする作業は繰り返してきたような気がするけど」

「靄の正体は所詮靄だもの」

「正体がどうであれ、靄は払いのけたい。でも、人生の何たるかがわからなくて、人生不可解なり、とか、いいじゃないか人間だもの、とか言って一時の慰めを得たりするようなことはしたくない」

「だから定型化を求めた……」

「少し違うかなあ。倫理を求めたと言った方がいいかもしれない。ルールじゃなくてね」

「ルールは支配者や管理者が作るものだからねえ。だから、みんなで作るルールはうまく回らない。でも、倫理だって……」

「そう。大学生になって気付いたんだけど、倫理だって、社会を構成している人間一人ひとりの思想や精神と親和性の高いルールに過ぎないんじゃないかって。経済性や安全性の影響を受けやすいし、倫理観同士の衝突も起きてくる。もやもやの解決どころか新たなもやもやの発生源になるのが倫理ってやつだ。そう思った。だから、原点に戻ってみることにした」

隆志のもやもやは、A君、B君、担任という3つの成分が、クラス全員の前での模擬喧嘩で化学反応を起こし、目撃者だったクラス全員を培養液として発生したものだ。

すべてはA君から始まったように見えるがそうではない。問題がないわけではなかったが、A君はクラスの異物ではなかった。もちろん、B君にしてもそうだった。

きっかけを作ったのはB君の幼い正義感とヒロイズムだろう。過分におせっかいで身勝手なB君の正義感は、しかし、担任が助長し倫理的保証も与えていたものでもあるように思われる。

“A君の乱暴癖は、彼の家庭の貧困からきているのではないか”というB君の仮説を責めることはできない。B君の心根の優しさがやや暴走してしまった感はあるが、少年のやさしさが過度な同情を生み、過度な同情が彼をおせっかいな行動へと導いていったとしても、それを責めることはできない。クラスの多くは、小学校6年生の感性で、B君の言動の是非や矛盾をそれぞれなりに嗅ぎ分けていた。

そしておそらく、手洗い場脇で始まった喧嘩の遠因はA君の中に折り重なっていたB君の言動に対する不満で、手渡した石鹸が“押し付けられた好意”に思えたというのが近因だったのではないか。A君はプライドを怒りの拳に握りしめ殴りかかった。そこまでは、問題ではない。A君とB君は衝突はしたが、化学反応を起こすには至っていなかった。

触媒となったのは担任。鎮火へと向かっていた二人の激情に再点火したのだ。いや、二人の、ではない。A君の激情に、だ。喧嘩に見えた二人のもみ合いが、実はA君の感情の発露に過ぎないものだったこと。本来攻撃型ではないB君はおそらく防御のためにしがみついただけなのであろうこと。等々を知る由もない担任は、二人の喧嘩を彼の中でパターン認識されていた“子供同士の喧嘩”としてしか見ることができなかった。

「ほら、そんなに喧嘩がしたいのなら、みんなの前でやってみろ」という言葉と、執拗に殴り合いを要求する姿勢は、担任としいてはいかにも幼稚な叱責手法にも思えるが、低学年の担当をしていた時は有効なものだったのかもしれない。2~3度殴り合いを要求すれば、二人とも頭を垂れ、ひょっとすると涙さえ見せるのではないかと想定していて、その想定に自信さえ持っていたのかもしれない。

ただ、子供から少年へと移り変わっていく頃の小学校6年生には通用しなかった。発火点の低いA君の激情は、一度パンチを繰り出すことで一気に燃え盛ることになってしまう。

「三者三様の想いや思惑が擦り合う要素がないわよねえ」

「僕は、そうは考えてません。想いに突き動かされたのはA君だけ。彼はおそらく極度に情動的な子だった。思惑があったのは、B君と担任。二人とも定型化された何かを持っていたんじゃないか」

「お、出てきたね、定型化。今までの話からぼんやりとわかったような気もしてたけど、それって価値観とか理念とか行動規範といったもの?……ではないか」

「そのどれでもないし、どれでもある……と思う。どう言い表せばいいんだろう。既存の言葉を当てはめようとすると、どの言葉も既に意味やイメージを持っているから適合しないし……」

「隆志君の言う定型化って、バラバラで整合性のないものを整理する整理箱のようなものかと思ってた……」

「となると、その整理箱って借り物でもいいということになりませんか。僕のイメージは、バラバラで整合性はないけど自分が気になるものや好きなものだけを集めて練り合わせ作る型のようなもので、鋳物を作るための金型のような……あ!思い出した。僕がどんな話題の時使った言葉か」

「よかった~~。じゃ、言ってみて」

「結婚ですね」

「そう!……でもあり、そうでもない、かな?」

「いや、そうですよ。手塚さんとナオミさんはあの夜結婚の話をしていた」

「と言うより、手塚君がね。ほぼ一方的に」

「僕は“ブラック&ホワイト”の近くに住んでいるから、証人として呼ばれたんだと思った。あるいは手近な祝福者としてね」

「でも、話はハッピーエンドでは終わらなかった。バッドエンドでもないけどね」

「僕は意外ではなかった。都会のカラスが巣を作る時のように、お互いの心の中にある大切なものやガラクタを持ち寄って繋ぎ合わせ練り合わせ……ある型を作っていく……お互いが納得できる型をね。でもそこに、二人の間に違いがあった。僕はそう感じた」

「だから、定型化の罠にはまっちゃ駄目ですよって、私に言った」

「そうかな?そうだといいけど……」

「私の方が記憶ははっきりしてるよ。その後に続けて、隆志君はこんなことを言ったのも覚えてるから。小学生だって、知らず知らずのうちに確かな意図もないまま自分なりの定型化はしている。自分の心の平安とプライドのために。そしてその定型化のせいで、苦労することになる。子供の意識のサイズに応じたゲシュタルト崩壊を経験することだってある。そう言ったんだよ。酔ってるのにね」

「それはきっとB君のことを残念に思ってるからでしょう」

「彼はその後どうしたの?」

「不登校になったまま卒業した。隣町の中学に行ったと聞いたけど、その後は話題にも上らなくなって、次に消息を耳にした時は完全に引き籠っていた。その後はわからない」

「B君、そこはかとなく定型化していたものが崩れ去ってしまったのかなあ」

「成長していく過程で誰にでも起きることだけど、もう一度定型化にチャレンジする気力が湧いてこなかったんでしょう。暴力に屈したこととその姿をクラスメイトに目撃されたショックは凄まじく大きかったんだね」

「私たちの結婚がそうなってはならないと……」

「二人の心の持ち物を練り合わせる“つなぎ”が結婚のように聞こえた。とにかく練り合わせてしまえば何とかなる。速乾性で強度もある魔法の“つなぎ”……」

「魔法の“つなぎ”?」

「カラスは自分の巣を頻繁に補強するし、場合によっては捨ててしまうこともある。定型化できた時はうれしいものだけど、そのうちその型を整理箱のように使い始めると不都合が出てくる。でも、それまでの努力を無駄にするのは勿体ない。まずいことに、人には思い出という厄介なものまで残る……」

「そんな風に聞こえた?私たちの話」

「少なくとも、巣の素材と形に力点が置かれているようには聞こえた」

「だからなのね。定型化の罠には気を付けろと」

「自戒の意味も込めてたつもりですけど」

「そうは聞こえなかったけど。……何か起きてるのかな?隆志君にも」

「いや、たいしたことではないんですが……」

「それは是非聞かせてもらわなくちゃ……。でも、もう遅いね。突然やってきて、随分長話させてしまったね。参考になったよ、ありがとう。本当はもう一つ聞きたいことがあったんだけど……。今度にするか。いい?」

「もちろん。でも、今度の時は電話してからにしてください」

「わかった。じゃあ今夜はこれくらいにしておいてあげる」

ナオミが初めてやってきた夜は、こうして終わった。ナオミはすっくと立ちあがり、トウシューズのリボンを巻き取って、部屋を出て行った。後を追おうとしたが足が痺れて立ち上がれず、見送ることはできなかった。

2~3分後、「おやすみ~~」という微かな声が聞こえてきた。“手塚君の同棲相手……だった”という言葉を思い出した。


コメントを投稿