昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 22

2011年01月21日 | 日記

とっちゃんが突然語り始めた“会社員になる”とか“結婚しなくちゃいけない”といった話の源は、“おっさん”にあったのだった。

最後に銭湯であった夜、とっちゃんは“おっさん”にラーメンと餃子をご馳走になった。2人前の餃子を貪るとっちゃんの向かいでビールの瓶を次々と空けながら、“おっさん”はとくとくと語った。

ずっと新聞配達をしていていいのか?販売所の“おっちゃん”にこき使われ続けてていいのか?今のままで、年老いていく母親の面倒を見ることはできるのか?結婚はできるのか?子供は欲しくないのか?自分のやりたいことを見つけなくていいのか?…………。

一時間半にも及ぶ“おっさん”の話は、“おっさん”の空けたビール瓶の数が増えるにつれ、忠告から説教へと色合いを変えて行き、酔いに任せて熱を帯びていった。

その間、とっちゃんは美味しさで評判の餃子を追加。合計4人前をたいらげた。そして、腹が満たされていくにしたがって、最初の頃は流すように聞いていた“おっさん”の話が気になり始めた。“長髪”が言っていた「“おっちゃん”に搾取されてるんちゃうか?」という言葉まで思い出し、不安と疑問は掻き立てられていった。

とっちゃんは、5本目のビール瓶を最後の一滴まで絞り出すようにグラスの上で振っている“おっさん”に、思い余って声を掛けた。

「おっさん。ほなら、わし、どないしたらええの?」

手を止めた“おっさん”はグラスに少し口をつけ、咳払いをしてからこう言った。

「よし、わかった!とっちゃん!わしが、とっちゃんを会社員にしたる!任しとかんかい!わし、また会社始めるし。わしが雇うたるわ」

とっちゃんは、自分でもわかるほど上ずった声で「ほんま?……頼むで、“おっさん”!頼むわ」と、頭を思い切り下げた。鼻先が餃子のタレに触れた。

“おっさん”はそれを見て笑い、「任しときって!」と大袈裟に胸を叩き、少しよろめいた………。

言葉は拙く理解しがたい表現も多かったが、初めて聞くとっちゃんの長い話は驚くほど情景描写が細かく、おもしろいものだった。

「ほんでな、ほんでな」と継がれていった話が一旦途切れる頃には、とっちゃんの目に浮かんでいた涙は乾いていた。すっかり暗くなった鴨川の水面を見つめる横顔には、代わって当惑と怒りの色が差していた。

酷い話だなあ、と僕は思った。ずっととっちゃんは遊ばれていたんじゃないか、と思った。“おっさん”の「弱い人間の面倒を見る時は……」という言葉が空々しく思い出され、無性に腹立たしくもあった。

しかし、と僕は頭を切り替えた。遠くから見た“おっさん”の姿から“おっさん”がとっちゃんにした話を全否定するのも早計だと思った。確認すべきだ。それに、“おっさん”には今の己の確かな姿と立場、さらにはこれから約束を守る意志があるのかないのかを、とっちゃんに伝えるべき責任がある。

「とっちゃん、“おっさん”に話を聞きに行かへんか?」。僕はとっちゃんの肩を揺すった。

「いや、もうええ!もうええ、て」。とっちゃんは首を横に振る。

“おっさん”の深い好意に感激し、思わずすっぽりと寄りかかり、自分の未来まで託そうとしたとっちゃんの痛手は大きい。それはわかるが……。

「何か事情があるかもしれへんやん。行こう!行って、直接聞いてみよう」

抱きかかえるように立ち上がらせ、河原町御池に向かおうとする。するととっちゃんは身を屈め、するりと僕の脇の下から逃げ去った。

「もう、ええ!」という声を残し、勢いよく河川敷に上がったかと思うと、北へと立ち去って行く。

わだかまりを抱えたまま鴨川べりに佇むことになった僕は、“おっさん”に会ってみなくてはならないと思っていた。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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