昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   手術本番へ ②

2010年10月06日 | 日記
一階の売店は、のどかだった。目的のバスタオル2枚を購入。入院のために親父の用意したものすべてが、目にしたことのあるもの。ラジオ、下着、シェーバーなどはいいとしても、バスタオルが使い古したもの2枚では、心許ない。日常を持ち歩きたい、という気持ちもわからなくはないが……。
バスタオルを抱えて、そっと病室に戻る。親父は眼を閉じたままだ。眠ってはいないような気もするが、声はかけずにソファに。文庫本を開き、静かに待つ態勢に入る。本番まで、後わずかだ。

急なざわめきに、ソファから飛び起きる。親父も軽く身を起こしている。時計を見ると、12時を少し回ったところ。予定よりも少し早い。
若い医者1名と看護師2名が、作業開始の顔で親父に近付く。
「身に着けているものは、全部外してください。入れ歯もね」の声に、親父は右手親指と人差し指を口に突っ込もうとする。その指先が震えている。
「大丈夫ですよ~~。はい!」
看護師が慣れた手つきで、ひょいと外し、親父の目の前にかざす。親父は一瞬照れ笑いを見せるがすぐに真顔になり、もぞもぞと動き出す。手首の辺りをまさぐっているようだ。
「これ、探してるの?」。引き出しから時計を取り出し、親父の眼前にかざす。メガネを外した目が細く険しく時計を認め、次いで僕に微笑む。
親父の指先をもう一度、見る。震えはまだ続いている。いとおしさが込み上げてくる。外され脇に置かれたメガネをつまみ上げ、テーブルの上に置く。
「これから、まず麻酔室に入ります」
「手術は、予定通り1時からです」
「2時間位を予定しています」
「手術時間が延びることはないと思いますが、多少の誤差はあるかもしれません」
「ご心配はいりませんから、お待ちください」
看護師と医者に、交互に説明される。一つひとつに「はい!」とはっきり応える。親父の目は固く閉じられ、親父の手は握りしめられている。
僕はふと、医者はまだしも、看護師の言葉に方言が一言も混ざらないことに気付く。ナースセンターの前を通る時耳にした会話は方言だったような気がするが……。
やがて「では!」という看護師の合図をきっかけに、ベッドが動き始める。そっとベッドの端に触れていた僕の手が勢いよく引き離される。親父は、方言の世界から標準語の世界に連れて行かれるんだなあ、と思う。
ベッドを追う。覗き込むと、親父の顔がやけに小さい。
「大丈夫だからね。頑張るんだよ」と声を掛ける。親父の首が伸び、唇が動く。
「ふぉふぁへぇ」と言葉にならない。ベッドの動きの邪魔にならないように顔を近づける。
「ふぃふぅふぇひ、ふぁふぇへんふぉ~!」。親父の真顔が小さく叫ぶ。わからない。
「何?」。歩きながら、精一杯耳を近づける。
「ふぃふぅふぇひ~!」。首を伸ばした親父の声が一段と大きくなる。
看護師の一人が怪訝な顔を向けてくる。ベッドの動きが止まる。もう一人の看護師の溜め息が聞こえる。慌てて親父の口に耳を寄せる。
「ふぃふぅふぇひ、ふぁふぇへんふぉ~!!」。親父の声に、焦りが滲む。途端、僕にはわかる。「昼飯、食べんと!」と言っているのだ。
「わかった、わかった。大丈夫だよ」と、微笑みながら頭を撫でる。
「いいですか?」。溜め息の看護師の言葉に親父から耳を離し、手を握る。握り返してくる手が汗ばんでいる。強い力に、手術に向かう気力と不安を感じる。強く握り返し、もう一方の手で頭を撫でる。
「じゃ、行っといで!」と両手を親父から一気に離す。
麻酔室のドアが開く。親父のベッドが滑り込んでいく。看護師が僕に一礼し、麻酔室のドアが閉まる。いよいよ、始まりだ。

*60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

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