昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   最愛の人との再会 ③

2010年10月25日 | 日記

ミツルさんの子宮癌は、末期だった。しばらく続いていた微熱を風邪と思い、風邪薬を飲み続けていて発見が遅れたとのことだった。健康体だったからこそ、病状の進行が速かったのだとも言われた。いずれにしろ、理不尽で不可解な話に思えてならなかった。

親父の健気なまでの看病が始まった。何度か病院に駆け付けた僕は、その姿に涙が抑えられなかった。

親父は、いつもミツルさんの傍らにいて、動かなかった。いつも彼女を見つめ、小さな呻き声やちょっとした手足の動きにも、反応していた。

「何?どうした?痛いか?どこ?どこが痛い?」。

声を掛けては撫で、撫でては声を掛けていた。他に言葉を発することもなくミツルさんのベッド脇で小さくなっていく親父を、いつも僕は悲しく見つめ、そっと帰っていった。

親父を片手で摘みあげる。そう豪語していたミツルさんは、見る見るやせ細っていった。意識も混濁していった。親父はさらに寡黙になり、自慢だった黒い頭髪も白くなっていた。そして、眉間に刻まれた皺が深さを増していっていた9月25日、ミツルさんは逝ってしまった。

8年間の青春だった。おそらく、親父にとって、それまでの人生で得ることができなかった尊い時間だった。毎日が新しく、訳もなく楽しかったことだろう。

お通夜に駆けつけ、病院でベッドの脇にいた時のようにミツルさんの亡骸を見つめ続ける親父を見た時、親父の幸せだった時間を僕は実感した。そして、親父のこれからを思うと、胸が痛かった。

しかしすぐに、親父は暮らしを取り戻した。大きな遺影の前での毎朝の読経。お墓参り。散歩。そしてまた夕方の散歩……。まるでそこにミツルさんがいるかのような暮らしを続けることを親父は選んでいた。それが親父にとっての新たな「生」だった。

それから6年。79歳になった親父は、自らの「死」を見つめることになった……。

 

その年、平成13年は、ミツルさんの7回忌にあたるだけでなく、僕の育ての母の17回忌にもあたる年だった。

最初の肝臓癌発症の時から親父は、度々二つの法事のことを口にしていた。平成13年9月15日と11月5日。そこまでは、なんとしても元気でいなくてはならない…。準備はすべて自分の手で行いたい…。癌を取り切って、法事をやりおおせねば…。

がんの摘出には成功した。親父の願いもたやすく叶うはずだった。しかし、再発した。そして、二つの法事は、親父の最後の大事業かのような様相を帯びていた。

親父が制癌剤治療を拒もうとするたびに、「法事の準備を頑張るためにも、癌と戦わないとね」と、僕は繰り返すようになった。

「法事はちゃんとやらんとのお。頑張るしかないか…」と、最初の頃は親父も応えていたが、やがて「もうそろそろ、ええんじゃあなあかい?」と嘆息混じりに呟くようになっていた。

そして、9月15日。ミツルさんの法事は執り行われた。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


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