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珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

私のアドラー4

2019-08-01 | 日記
さてさて前回、誰も強制しているわけでもなくて、自分が読みたくて読んでながら
「アドラーを押し付けてくる」「押しつけがましい」と言った人は、そんな
他責癖は治りましたでしょうか。

復習すると、それは実際に押し付けられたのではなくて、自分が相手に言いがかりをつけたいという
目的があって「押し付けられた」と理屈を持ってきているだけ。
自分の「気に入らない意見が書いてあるものを批判したい」という
目的ために、自分の確固たる意志で読んで「押しつけがましい」という言い訳をしているだけです。

さすがアドラーさん、わかりやすいですよね。
理解したら次に進みましょう。

前にも書きましたが、アドラーは「他者の課題と自分の課題は明確に分離せよ」と言っています。
他人が何かを言ってくるのは「他者の課題」であって「自分の課題」ではない。

長年、S問題の覚醒だの教義論争のような、相手を「正しい自分を見習わせて気づかせる」ような労多くて益なしの論争を見たり言ったりしてきた私には、納得でした。
ネットの言い合いは何でもそういうところがありますよね。
でも
他人をごちゃごちゃ言うことは、そういうことに振り回される自分の未熟さの問題。

他人がごちゃごちゃ言ってくるのは、そうしないと自分が保てないその人の課題。


他人のことに首を突っ込んだり乗せられたりする暇があったら、自分を正し、自分が正しいと思う行いを貫くこと。
そこに他者を介入させない。
だってそんなことしたら、自分が限りなく不自由になるから。

そういうことを言っておられるというのが、私のアドラー観。
この通り実践できるかは別として、私には何とものびのびと自由に感じた理論ですね。

ネットの文章5

2019-08-01 | 思うこと
義兄はドクターの見地から、ストレスに関しての本を出版している。
そんなことをいちいち言わない人なので知らなかったのだけど、或る時、愛読しているブログを読んでいたらその本が紹介されていたのでびっくりした。
義兄に言ったら「そうなの?」と笑っていた。
「あれはとにかく時間のない中引き受けた本で、眠かったことしか覚えてないよ(笑)今度、装丁を変えて再販されるみたいだよ」

その義兄から言われたことが、
発信したものはどう取られようと受け手の自由。
「私はそんなつもりじゃない」じゃなくて、そう伝えたいなら伝わるように書くこと。
それができないなら書き手の方の力不足だと。

これはその通りと思う。

私の書いたものを「読解力をもって私の意図してるように読んでください」なんてことは、一度も思ったことはない。

そんなものこそ大きなお世話、フリーダムだよね。
伝わらなければ書き手が下手に尽きると思う。

私はできる限りを尽くして書く。
あとは愉快、不快、どうぞ好きなように読んでください\(^▽^)/