の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

須佐社

2010年07月22日 22時26分18秒 | 中国(鳥取、島根)
■本殿■
(12th June 2010)



★須佐社★ 島根県出雲市佐田町須佐730

・延喜式内社、出雲國飯石郡、湏佐社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は須佐之男命。櫛名田比賣命、手名椎命、足名椎命を配祀。

・『出雲國風土記』によると、須佐能袁命がみことのりして、「この國は小さい國だが住むによい土地である。だから私の名は木や石につけるべきではない」と仰せになり、自らの御魂を鎭め置かれた、とし、須佐の地名の由來とする。當社はその地の中央部を横切る須佐川のほとりに鎭座する。

・この地は古くは飯石郡に属し、中世から近世まで変わらず、郡の總社であった。

・中世には、「十三所御社」「十三所大明」、近世には「須佐大宮」と稱していたことが棟札より明らかである。

・當社は日御碕社、美保社、内社などとともに、杵築國造、佐陀主に属しない「一社一令社」であった。

・舊社地は北の宮尾山にあったと傳えられ、大きな磐境が現在も殘っていると言う。遷座の年代は不詳。
 

■鳥居、社號標■
(12th June 2010)

 

■隨門■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)



■本殿■
(12th June 2010)
 


■手水舎■
(12th June 2010)
 


■石龜■
(12th June 2010)
 


■末社三穗社■
(12th June 2010)


・祭は三穗津比賣命。


■末社稻荷社■
(12th June 2010)



■參道脇の東末社、西末社■
(12th June 2010)

 

・祭は八御子(五男三女)。


■塩井■
(12th June 2010)
 


■末社天照社■
(12th June 2010)




・祭は天照大。
・中世文書には伊勢宮と記される。
・近世、須佐神社が「下ノ宮」と稱されるのに對し、「上ノ宮」と呼ばれた。


((コメント))

2010年6月12日

 舊社地に行ってないので、本來のこの社についてはわかりにくいが、現社地に關しては、人づてに耳にする、しさや荘厳さは、全くといっていいほど感じることがなく、やはり、小社は小社ということである。建速須佐之男命を祀るべくは紀伊の名大社須佐社ということを再認識することになった。

岩社

2010年07月22日 21時45分42秒 | 近畿(奈良)
■社殿、磐座■
(10th July 2010)



★岩社★ 奈良県吉野郡吉野町矢治1

・『吉野町史』においては、祭は吉野國栖の先祖岩穗押開と考えられている。

・創建由緒等不詳。

・この地域の氏で、現在は宮司を置かず氏子が交代で務めている。

・古來、主要街道に面していたことから旅人たちが境内で野宿をしたことから宿社とも呼ばれていたという。

・文献上は元禄時代までしか遡れないが、古代よりの巨岩信仰に始まると思われる。


■磐■
(10th July 2010)
 


((コメント))

2010年7月10日

 おそらく、四度か五度目の訪問である。相変わらず、素晴らしい磐である。好きなところだ。

國津社

2010年07月22日 21時33分42秒 | 近畿(三重、和歌山)
■木■
(28th April 2009)


★國津社★ 和歌山県有田郡湯浅町田63

・祭は大己貴命。少名彦命、天照大、伊弉册命、速玉之男命、奇御氣野命、事解男命を配祀。

・久豆(くず)は國津にして呂は助語であるといい、大國主を祀る。

・熊野王子社の逆川王子を合祀という。

・久豆呂の宮ともいう。

・社地より南に五町の小濱という浦の濱の巖崛に鎭座していたのを、文永七年(1270)、森某というものが當地に移したという。

・寛文記には「應神天皇御宇吉野に祭らせ給ひ其後三十八年を経て國巣人來りて當地に勧請すといふ」とあり、一時的に現吉野町國栖に祀られていたのを、國栖の人が現社地へ勧請したとある。

・社傳によると、村上天皇天暦二年(948)、大和國三輪臣の弟阿部橘司なる人に三輪大より託宣があり、昔より紀伊國海邊の巖に大穴持命が出雲國より鎭座しており、この地へ遷し、祀るように傳えられたという。

・天暦二年(948)年十一月に須佐雄命の託宣があり、同様にこの地にて祀るように言われたという。 


■木■
(28th April 2009)



■拜殿■
(28th April 2009)



■幣殿■
(28th April 2009)
 


■本殿■
(28th April 2009)



((コメント))

2009年4月28日

 和歌山の浜手らしい雰囲氣、香りを持った社で、それなりの氣を感じるような社であった。海のない大和の社とはまた少し違う氣であり、また、同じ紀伊でも熊野地方ともまた異なるものを感じた。惡くはない。

東の宮社

2010年07月22日 21時01分00秒 | 近畿(三重、和歌山)
■拜殿■
(8th December 2007)



★東の宮社★ 和歌山県和歌山市吉田495

・祭は事代主、大國主。

・昭和二十三年(1948)一月創建(内有志四十七名による)。

・昭和二十四年(1949)一月聖天宮境内(現在地)に遷宮。

・昭和三十六年(1961)十一月美保社に於て御像入魂祭。

・昭和三十七年(1962)一月美保社の御分靈を鎭祭。

・昭和三十七年(1962)以降の御祭禮はすべて、ゑびす總本宮出雲國美保社宮司竝びに職によって執行。


■社號標■
(8th December 2007)



■鳥居■
(8th December 2007)



■拜殿■
(8th December 2007)
 


■幣殿、本殿■
(8th December 2007)



((コメント))

2007年12月8日

恵比寿の社のようだ。聖天宮内に遷座していることが影響しているのか、社としての氣を感じず、ただただ氣分が惡かった。

都賀那木社

2010年07月22日 20時52分58秒 | 近畿(奈良)
■社殿■
(12th July 2004)



★都賀那木社★ 奈良県宇陀市榛原区山路335

・延喜式内社、大和國宇陀郡、都賀那木社。

・祭創建由緒等不詳。

・伊那佐山山頂(標六百三十七メートル)に鎭座する。

・鎭座地移転記録なし。

・近世には貴布禰社とされた。

・古老の話によると、八咫烏社は、本來この地にあったということである。この地に、二座、獨立して竝び鎭座していたのか、もしくは同じ社であったのかは不明。


■伊那佐山遠景■
(12th July 2004)



■本殿■
(12th July 2004)



((コメント))

2004年7月12日

 山頂にある都賀那木社。一説には八咫烏社もこの地に鎭座していたとか。實際、田原本の多坐彌志理都比古社の周辺というか、かなり至近距離のところでも獨立した社として別に延喜式に記載されてるところがあるので可能なことではあるが、實際のところはどうなのだろうか。

 謎が多い。個人的には、山麓の八咫烏社よりもこちらの方がすがすがしい氣がしてはるかに好きである。

 井足岳が土砂崩れのためか、入山禁止であったために、これより下山し、帰宅となった。