以前、戸の本住吉社の宮司さんと話をした時、彼は博多の住吉社→下關の住吉社→本住吉社→住吉大社と住吉のが遷ってきたことを主張されていた。これは、本住吉社側の見解のようである。しかし、これは文献的な裏づけはなく、また、戸の本住吉社の周邊には住吉を「すみのえ」と呼んだという事實もなく、その根拠はないと考えらる。
實際、日本書紀に見える住吉大が最初に示現し、祭祀を受けたところというのは地形的な考證からも大阪市の難波津住吉が妥當と思われる。攝津國にはもう一社、一之宮とされる坐摩社があるが、山根太郎という方は「住吉の大と坐摩のは同體」とみて、上代から中世を通じて坐摩のの鎭まる社のあった地域、今の坐摩社行宮を、最初に住吉の示現し、祭祀を受けた地と想定している。實際、『住吉大社代記』には坐摩のが「住吉の大の御魂」と記されている。
そういったことを考えると、住吉大社の元宮が本住吉社という關係がなくなる。そうすると、本住吉社の祭がどこから勸請されたものかわからないので、両社の關係性は非常に薄いと考えざるを得ない。
實際、日本書紀に見える住吉大が最初に示現し、祭祀を受けたところというのは地形的な考證からも大阪市の難波津住吉が妥當と思われる。攝津國にはもう一社、一之宮とされる坐摩社があるが、山根太郎という方は「住吉の大と坐摩のは同體」とみて、上代から中世を通じて坐摩のの鎭まる社のあった地域、今の坐摩社行宮を、最初に住吉の示現し、祭祀を受けた地と想定している。實際、『住吉大社代記』には坐摩のが「住吉の大の御魂」と記されている。
そういったことを考えると、住吉大社の元宮が本住吉社という關係がなくなる。そうすると、本住吉社の祭がどこから勸請されたものかわからないので、両社の關係性は非常に薄いと考えざるを得ない。