現在、百濟は韓國では「ペクチェ」と呼ばれており、海外のアジア史の本もその名前を使用している(ちなみに句麗が「こぐりょ」、新羅が「シイラ」)。句麗の讀み方は「こぐりょ」であり、「こうくり」は似ているので理解可能。新羅も少し変わっているが、敵對していたこともあり、「新羅野郎め」という意味合いを持つ言葉がそのまま新羅に當てはめられ「しんら」となるところが「しらぎ」となったという。これに比べ、百濟は「くだら」と「ぺくちぇ」は大きく異なる。滋賀県の百濟寺が「ヒャクサイジ」であることは、この「ペクチェ」の日本語讀みとされていると思われる。個人的には、「ヒャクサイ」よりも「ヒャクセイ」のほうが近いのではないのか、と思うが。
枚方の百濟王社や奈良県の百濟寺では「くだら」と讀む。これらの地域は、渡來民族の住んでいた地域であることは誰もが知っているところで、朝鮮半島所縁の名前なども殘っているのが事實である。
ところで、百濟の讀み方であるが、百濟文化研究の文献によると、實際、百濟と言う國が存在していた頃、日本語の仮名や朝鮮のハングルがなかったために中國が使っていた國名を日韓の歴史書では使用しており、「ペクチェ」という讀み方はそれをハングルの音讀しただけのものであるという。百濟という中國名は、國名の音を参考に書かれたものではないと言うことであり、それは念頭においておくべきであろう。
日本書紀では、中國で使われた「百濟」という文字に註をつけて漢字で「久太良(くたら)」と讀み方を書いて殘している。日本書紀には藤原氏が大きく關わっている。中臣鎌足は、實際、系圖上の父親と祖父の存在も疑われている状態であり、彼の登場時期、活躍時期を考えた上で、人質に來ていた百濟王の王子豐章という説もあり、また「藤原」というのは韓國語であり、また、桓武天皇は父親が死んだときに「アイゴーアイゴー」と韓國で泣いた事も續日本紀に記載があり、彼の御代の國司や中央官僚の大半は百濟からの民であったことも考えると、國の名稱についても精通しているのが實際のところであろう。それを、正史において一切、訂正されていないことが、正しい國名の讀み方であることを證明しているといってもよい。廣陵の百濟の地名も百濟から移住してきた民が名乗り續けた名稱である。世界的に、他國へ移住していった民たちは、故國の地名をそのまま名乗る傾向が強く見られるものである。しかも、百濟と日本は親交深く、その名を隠す必要もない。
百濟王社や廣陵の百濟寺は、國名の「くだら」をそのまま殘した名稱で、滋賀の百濟寺が「ヒャクサイ」としているのは、通例として、社の名前が基本的に訓讀みであるのに對し、寺の名稱は音讀みにしているもので、それと同樣であろうと考える。百濟寺側は公にそのようには書いておられないが、社傳や寺傳とは、作られた面も多く、そのまま鵜呑みには出來ぬものである。
枚方の百濟王社や奈良県の百濟寺では「くだら」と讀む。これらの地域は、渡來民族の住んでいた地域であることは誰もが知っているところで、朝鮮半島所縁の名前なども殘っているのが事實である。
ところで、百濟の讀み方であるが、百濟文化研究の文献によると、實際、百濟と言う國が存在していた頃、日本語の仮名や朝鮮のハングルがなかったために中國が使っていた國名を日韓の歴史書では使用しており、「ペクチェ」という讀み方はそれをハングルの音讀しただけのものであるという。百濟という中國名は、國名の音を参考に書かれたものではないと言うことであり、それは念頭においておくべきであろう。
日本書紀では、中國で使われた「百濟」という文字に註をつけて漢字で「久太良(くたら)」と讀み方を書いて殘している。日本書紀には藤原氏が大きく關わっている。中臣鎌足は、實際、系圖上の父親と祖父の存在も疑われている状態であり、彼の登場時期、活躍時期を考えた上で、人質に來ていた百濟王の王子豐章という説もあり、また「藤原」というのは韓國語であり、また、桓武天皇は父親が死んだときに「アイゴーアイゴー」と韓國で泣いた事も續日本紀に記載があり、彼の御代の國司や中央官僚の大半は百濟からの民であったことも考えると、國の名稱についても精通しているのが實際のところであろう。それを、正史において一切、訂正されていないことが、正しい國名の讀み方であることを證明しているといってもよい。廣陵の百濟の地名も百濟から移住してきた民が名乗り續けた名稱である。世界的に、他國へ移住していった民たちは、故國の地名をそのまま名乗る傾向が強く見られるものである。しかも、百濟と日本は親交深く、その名を隠す必要もない。
百濟王社や廣陵の百濟寺は、國名の「くだら」をそのまま殘した名稱で、滋賀の百濟寺が「ヒャクサイ」としているのは、通例として、社の名前が基本的に訓讀みであるのに對し、寺の名稱は音讀みにしているもので、それと同樣であろうと考える。百濟寺側は公にそのようには書いておられないが、社傳や寺傳とは、作られた面も多く、そのまま鵜呑みには出來ぬものである。