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北條氏照供養塔 / 北条氏照供養塔

2014年06月03日 07時34分54秒 | 歴史上人物の墓所
■北條氏照供養塔■
(12th May 2009)



★北條氏照供養塔★ 東京都八王子市元八王子町三丁目

・豐臣秀吉に敗れ滅ぶことになった小田原北條氏四代目當主氏政の弟であり、木曾義仲の末裔大石定久の婿養子となった北條氏照とその家臣の墓。

・兩脇には、八王子城落城時に討ち死にした中山勘解由家範と、その孫で水戸藩家老となった備前守信治の墓が建つ。


((コメント))

2009年5月12日

 八王子城蹟の入り口に位置する北條氏照の墓というか供養塔。北條氏照は、豐臣秀吉に滅ぼされた小田原北條氏最後の當主氏政(家督はこの氏直が繼いでいたが、實質的には氏政であったと思われる)の三弟にあたる。

 この人は非常に優秀な武將であったことで名い。兄の氏政は北條氏を滅亡に追い込んだ人として愚人と評価されることが多い人であるが、實際のところ、名將といわれる父氏康が築いた版圖を守りつつ、さらに勢力を廣げ、北條氏最大の勢力版圖を築いた當主ゆえ、彼もまた名將といってしかるべき人なのである。實際、關東の相模、武藏から上野のほうまで旅をし、北條の名が刻み付けられているのを見ると、その勢力の程が見て取れるし、見たことのない大勢力豐臣秀吉に劣らず、戰えると思った氣持ちもわかる。實際、情報收集および解析力に問題があったとても、このレベルの大きな數字になってくると、果たして何人のものが正常な判斷が出來るのか、と考えるとあながち、彼を凡將というのは酷に思われるのである。氏政を愚者と申すほとんどの全ての人たちは、おそらく同じ立場であったならば、同樣の、もしくはそれ以下の判斷をしていたことは想像に硬くなく、彼には非常に同情するものである。

 その兄氏政の片腕として、その才能を使い、支えた一人が氏照であるのだ。彼は、實際、最後に「北條」を名乘ったか否かは明らかでなく、大石源三氏照として死んだとも傳えられる。彼は、木曾義仲の末裔という大石定久の娘婿となり、その名蹟を繼いでいるのである。弟の氏邦は同樣に藤田氏に入ったが、彼は岳父の死後、一族を誅殺したのと異なり、岳父定久死後も義弟などの家族を大切に扱う、義に厚い人でもあったとである。

 氏照は、豐臣秀吉に對し、主戰派であったために重臣を八王子に置き、自らは兄氏政と共に小田原に籠城して戰ったというが、弟たちが一命を助けられたのと異なり、氏政と二人はその死を避けられることはなく、自害して一生を終えたのである。

 その名將北条氏照の本拠地に行き、そして、彼を知ってきたところである。

 八王子城蹟は心靈スポットで名く、靈感の强い人は近づくのも拒むというところと聞いているが、氏照の供養塔に行ったときに、れやかな表情で天に吸い込まれていった彼を見たので、一切の怨靈、怨念などを感じることはなかった。


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2 Comments

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Unknown (ろみ)
2010-08-24 03:05:56
私は、このすぐ近くで育ちました。

子供の頃から、城山に登っていたし、小学校の遠足でも、家族ででも、よく山にも登りました。
(通った小学校も、元八王子の城山小学校といいます)


子供の頃から、
北条氏照の名前は自然に入ってきていて、落城の歴史も普通に入って来ていました。

大人になり、地元を離れてから、心霊スポット的な扱いなことを知り、
複雑な気持ち、が、ありましたが、

晴れやかな顔で天に吸い込まれて行った…、

のくだりを読み、
胸がほっとしたのか、涙が止まりませんでした。

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ろみさん (丹敷戸畔の御子 水龍火)
2010-08-27 02:16:27
コメント、ありがとうございます。
八王子の方でしたか。
時々、城跡などに行くとこういうことがあるんですよ。
尼子氏の月山富田城跡に行ったときもそうでした。
多分、戦闘相手に対する憎しみが解けた時に天に帰れるのでしょうね。
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