■木■
(13th June 2008)
★舩越鉈切社★ 千葉県館山市浜田376
・舊社格は村社。
・祭は海である豐玉姬命。
・縣道の北側海岸寄りにあるのが海南刀切社、南側山中にあるのが舩越鉈切社で、かってはひとつの社として信仰され、濱田の舩越鉈切社を上ノ宮、見物の海南刀切社を下ノ宮と呼んでいた。
・『房總志料』によれば、海南刀切社の祭手斧鑿明が勝地を求めるために使を遣わしたところ、刀切の靈地を愛したこの使は岩窟に隱れて復命せず、舩越鉈切社の祭になったという。また『安房志』は「古昔この、上國より船に乘じてこの海濱に來たり、手斧を以て巨岩を鑿開して道を通ず。ゆえに一にして舩越、海南の二名ありといふ」と記す。實のところ、二社の祭を別とする說、同一とする說があり、その關係は必ずしも判然としていない。
・本殿のある鉈切洞穴からは繩文式土器、原始漁勞具等が出土している。その後、古墳時代には墓として使われた形蹟があり、後に海を祀る社になったとのこと。
■社號標■
(13th June 2008)
■一の鳥居■
(13th June 2008)
■二の鳥居■
(13th June 2008)
■參道■
(13th June 2008)
■拜殿■
(13th June 2008)
■本殿(鉈切洞穴)■
(13th June 2008)
千葉縣指定文化財
・自然の營みでつくられた海食洞穴。
・地殻運動によって起し、現在は、館山灣に面した標約二十五メートルの海岸段丘上にある。
・昭和三十一年(1956)の發掘調査では、繩文時代後期初頭の稱名寺II式土器とともに、魚を捕るための鹿角製釣針や銛などのほか、マダイやマグロなど魚骨四十七種、アワビやサザエなどの貝類六十八種が出土。これらの出土遺物は、當時の漁民が海岸部での魚介類の採集にとどまらず、かなり遠方まで積極的に漁をしにいったことを物語る。
・海鳥や、シカ、イノシシ、タヌキ、サルなどの骨も出土しており、同時に山の猟も行ったことがわかる。
・出土した繩文式土器には、對岸の奈川縣の土器の影響が強くみられ、繩文時代後期、東京灣岸地域には、海と山からのめぐみにより、數多くの集落が存在していたと想像される。
■磐上の末社■
(13th June 2008)
((コメント))
2008年6月13日
實は、この社の存在は知らなかった。洲崎社に行く途中に通りすがったのがきっかけで、偶然、その十字路で赤信號に遭遇したときに發見。いい意味でとれば、この社に呼ばれた、ということ。
流石に、繩文より人が住んでいただけあり、繩文遺蹟特有のドンヨリさが傳わってくる。まあ、文化の違いなどもあるのだが血なまぐささが腦を直擊してくる。いい感じではあるが、夜中に步け、といわれたらイモをひきそうなところではある。つまり、不氣味というか、おどろおどろしい氣が漂うのである。御社宮司關係もそうであるが、繩文時代物には共通している感じがする。
本殿のある洞穴の中はひんやりして、さらに、一瞬、ぞわっとするような繩文獨特のうねる氣が充滿していた。
(13th June 2008)
★舩越鉈切社★ 千葉県館山市浜田376
・舊社格は村社。
・祭は海である豐玉姬命。
・縣道の北側海岸寄りにあるのが海南刀切社、南側山中にあるのが舩越鉈切社で、かってはひとつの社として信仰され、濱田の舩越鉈切社を上ノ宮、見物の海南刀切社を下ノ宮と呼んでいた。
・『房總志料』によれば、海南刀切社の祭手斧鑿明が勝地を求めるために使を遣わしたところ、刀切の靈地を愛したこの使は岩窟に隱れて復命せず、舩越鉈切社の祭になったという。また『安房志』は「古昔この、上國より船に乘じてこの海濱に來たり、手斧を以て巨岩を鑿開して道を通ず。ゆえに一にして舩越、海南の二名ありといふ」と記す。實のところ、二社の祭を別とする說、同一とする說があり、その關係は必ずしも判然としていない。
・本殿のある鉈切洞穴からは繩文式土器、原始漁勞具等が出土している。その後、古墳時代には墓として使われた形蹟があり、後に海を祀る社になったとのこと。
■社號標■
(13th June 2008)
■一の鳥居■
(13th June 2008)
■二の鳥居■
(13th June 2008)
■參道■
(13th June 2008)
■拜殿■
(13th June 2008)
■本殿(鉈切洞穴)■
(13th June 2008)
千葉縣指定文化財
・自然の營みでつくられた海食洞穴。
・地殻運動によって起し、現在は、館山灣に面した標約二十五メートルの海岸段丘上にある。
・昭和三十一年(1956)の發掘調査では、繩文時代後期初頭の稱名寺II式土器とともに、魚を捕るための鹿角製釣針や銛などのほか、マダイやマグロなど魚骨四十七種、アワビやサザエなどの貝類六十八種が出土。これらの出土遺物は、當時の漁民が海岸部での魚介類の採集にとどまらず、かなり遠方まで積極的に漁をしにいったことを物語る。
・海鳥や、シカ、イノシシ、タヌキ、サルなどの骨も出土しており、同時に山の猟も行ったことがわかる。
・出土した繩文式土器には、對岸の奈川縣の土器の影響が強くみられ、繩文時代後期、東京灣岸地域には、海と山からのめぐみにより、數多くの集落が存在していたと想像される。
■磐上の末社■
(13th June 2008)
((コメント))
2008年6月13日
實は、この社の存在は知らなかった。洲崎社に行く途中に通りすがったのがきっかけで、偶然、その十字路で赤信號に遭遇したときに發見。いい意味でとれば、この社に呼ばれた、ということ。
流石に、繩文より人が住んでいただけあり、繩文遺蹟特有のドンヨリさが傳わってくる。まあ、文化の違いなどもあるのだが血なまぐささが腦を直擊してくる。いい感じではあるが、夜中に步け、といわれたらイモをひきそうなところではある。つまり、不氣味というか、おどろおどろしい氣が漂うのである。御社宮司關係もそうであるが、繩文時代物には共通している感じがする。
本殿のある洞穴の中はひんやりして、さらに、一瞬、ぞわっとするような繩文獨特のうねる氣が充滿していた。