の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

須牟地社

2010年04月25日 03時05分24秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■境内■
(1st April 2009)



★須牟地社★ 大阪府大阪市住吉区長居西2-1-4

・延喜式内社、攝津國住吉郡、須牟地社、鍬靫。

・主祭は産靈大、手力男命、天兒屋根命。天日鷲命、大己貴命、宇賀魂命、少名彦命、素盞嗚命、住吉大を配祀。

・「須牟地」は「住道」とも記されるが、この住道に関しては、住道社が複数あり、かつ鎮座地が過去に移動しているため、不明な点が多い。

・『住吉大社代記』の子の条を受けた『社明細書』には「本社は初め住吉大社の北方住道と称する地(住吉区住吉町道北にして今尚住道堂残れりと謂ふ)に鎭座せしを託宣に依り天平元年(729)十一月七日に他の須牟地社等七社と共に河内國丹比郡楯原里(中河内郡矢田村字住道)に移祀せりといふ。其の後國郡改廃により世に景勝の地と知られたる長居浦なる南島(現社地)に三遷せられるものの如し」とある。

・元住吉大社宮司眞弓常忠氏は、もし本居宣長のいうように住道が住吉津より喜連に通ずる磯歯津路(呉坂)であるとすればその沿道の要所要所に祀られたのが住道の々ではないかといい、須牟地社がかつて所在したと伝えられる天山の地を「四極山」と考定している。

・住道諸社の元位置が不明なため、どうとも言えないが、住道は道の性格を持ち、遷座には新しい交通路の発展と古い交通路の衰退に影響されたと考える向きもある。

・『延喜式』玄蕃寮によると、新羅より客が來朝した折、酒を給すとあり、その行程に住道社は関わっており、外来の客人接待に重要な役割をになっていた。

・慶長年間、兵火にかかったが、豐臣の浪人多賀谷氏他四名の協力、元和四年八月二十一日再建されたとのこと。

・江戸時代中期、並河誠所の式内社比定以前は三宮と呼ばれた。


■社號標と木々■
(1st April 2009)



■鳥居と正門■
(1st April 2009)



■木と參道■
(1st April 2009)



■拜殿■
(1st April 2009)



■本殿■
(1st April 2009)



■須牟地社碑■
(1st April 2009)


 大阪市指定文化財

 元文元年(1736)九月、儒学者並河誠所の考証に基づき、所在が紛れていた式内社に比定された社二十社に設置された標石のうち、市内に所在する四基の一つ。


■末社農社■
(1st April 2009)


 大己貴命を祀る。今の長居墓地東北百メートル三つの池の中央に土塀をめぐらし一本の松の木の下に社があった。


((コメント))

2009年4月1日

 境内は木も少なく狭いのであるが、残っている木々がいい氣を出しており、社独特の空間を作り出しているといえる。々しいというべきかどうかはいえないが、何か特別なものを感じるところである。その地の氣というよりは、木々の氣によるものだと感じる。


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