の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

矢田坐久志玉比古社

2010年10月16日 14時19分24秒 | 近畿(奈良)
■門■
(7th May 2008)
 


★矢田坐久志玉比古社★ 奈良県大和郡山市矢田町965

・延喜式内社、大和國添下郡、矢田坐久志比古社二座、竝大、月次新嘗。

・祭は櫛玉饒速日、御炊屋姫。

・通稱矢落大明、矢田の大宮さん。

・矢田村の總鎭守。

・裔は矢田部。饒速日命の後裔とし、物部氏族とされる。

・創建年代は不祥であるが六世紀前半期の頃までは畿内隨一の名社として榮えたと傳えられる。

・傳承によると、饒速日命が天磐船に乗って降臨してきたときに、三本の矢を射て落ちたところを住居と定めたがその一の矢が落ちたところが當社で、ニの矢が落ちたところが境内の二之矢塚という。三之矢塚も近隣にあるという。別の一説では、「饒速日尊降臨に先立って三本の矢を射て、落ちた所を住居と定めたと傳わる。その内の二の矢が落ちた所が本殿、祓い石という。社は矢落大明とも呼ばれた。 三の矢の落ちたとされるのは東明寺、一の矢の落ちた所は南一キロメートル付近で現在は民家の物置と聞く」とある。

・「天磐船に乗りて大空を翔行り」の古事に基づき航空祖とし、明治以降信仰を集めている。

・江戸時代までは矢田村の東明寺と金剛山寺の僧侶が事を司っていたという。

・氏子の中に宮座が殘っており、饒速日尊、降臨の際に防衞として天降り供え奉った三十二の供奉衆の子孫であるとの強い傳承が殘っているようで、社境内に「舟人」と稱する天磐船の石とされる場所があり、宮座の人々は毎年この磐に繩を巻き付けて互いの出自を確かめ合うと傳わる。


■鳥居、社號標■
(7th May 2008)



■樓門■
(7th May 2008)
 


■拜殿■
(7th May 2008)
 


■本殿■
(7th May 2008)
 

 國重要文化財

・室町時代の建築という。
・春日造り。


■攝社八幡社■
(7th May 2008)


 國重要文化財

・舊社格は村社。
・祭は八幡大。
・本殿は鎌倉末様式といわれる。


■二の矢塚傳承地■
(7th May 2008)
 


((コメント))

2008年5月7日

 鳥居の前には勧請繩があり、これは饒速日尊の蛇性を示すものという。ここも、物部系であり、宮司の家族曰く、石上宮の奥社に等しい、と。信濃の守屋山にある物部守屋社も蛇を感じるし、物部は、蛇、つまり、水を祀るのか。これは、物部氏族が水運を司っていたことも示唆することであろう。

 ところで、天磐船の三本の矢の話はなんであろうか。おそらくは、物部氏が入植する前の先住民との戰争の傳承が矢の話に置き換えられたのであろう。

 鳥居をくぐると、正面にプロペラ付の樓門が立つ。舊陸軍中島飛行機九一戰闘機のプロペラと同型らしい。そう、この社は航空祖を祀っていることになっている。天磐船傳説によるのであるが。

水門吹上社

2010年10月16日 14時13分57秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(8th December 2007)



★水門吹上社★ 和歌山県和歌山市小野町二丁目一番地

・祭は御子蛭兒(水門社)、大巳貴(吹上社)を祀る。

・創建年代不詳。承保二年(1075)以前の創建と考えられる。

・吹上社は天正年間に合祀。

・寛保年間(1741-1744)、吹上社が「當社こそが式内伊達社である」と主張し、和歌山藩がその主張を認めたために「伊達社」の社名が吹上社に移ったが、後にその主張は誤りであることが判明し、明治時代に「伊達社」の社名は返された。

・紀州えびすの總本社、『紀州十日戎』発祥の社。


■拜殿■
(8th December 2007)

 


■本殿■
(8th December 2007)



■武天皇聖跡顯彰碑■
(8th December 2007)
 

 和泉の國で上陸しようと戰ったときに長髓彦の矢を受けて傷を負っていた武天皇の兄彦五命が没したところだという。


((コメント))

2007年12月8日

 水門社と地図にあったので訪れることにした。訪問して、紀州の戎の中心であることがわかったが、個人的に戎には何も感じるところがなく、當社も例外ではなかった。

 この地は、武東征傳承の中で狹野命(武)の兄五命が没した地であるが、侵略者の武の聖跡として顯彰碑が建っている事に非常に嫌惡感を感じた。