2022年3月31日(木)
徐福の墓 秦河勝の墓(生島) 蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)の三点は二等辺三角形を描いています。
地図に表されている徐福の墓は、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。 徐福の墓は新宮市の蓬莱山でした。(2023年1月2日加筆)
そしてその三角形の重心にはイルカの地上絵が造形されています。
竜石山は、蘇我入鹿=第35代皇極天皇を祀るために造営された前方後円墳でしたから、イルカと竜石山との中間点に何があるのかを調べると・・。
巨大なクジラの地上絵が造形されていました。
すぐその北には光明皇后の十字架の地下神殿が指し示していた愛宕山が在ります。そしてその北には、竜ヶ岳があります。
そして南のライン上には、星田妙見山(星田妙見宮)があって、もっと南に下ると・・、そこには、龍の立派な磐座がある竜王山です。
北には、高浜湾(若狭湾)に面する岩神(福井県高浜町)があります。
竜石山 竜ヶ岳 竜王山など竜 竜 竜と言う山の名前や、そこに立派な磐座が造形されていたりと、偶然ではあり得ません。
意味ある地名と、その十字架の中心近くに、愛宕山や星田妙見など信仰の拠点が重なったりすると、これはもう計画的配置であることの証明です。
その十字架の交点の近くに巨大なクジラの地上絵(造形物)があることも意味あるものです。
そして、この十字架の交点の近くには、第50代桓武天皇の墓や52代嵯峨天皇の墓が、愛宕山から全く同距離の場所に造営されていて三点は二等辺三角形を描きます。
いえいえ、その近くには、天智天皇や藤原不比等の墓もあったり、沢山の天皇家の方々の埋め墓も存在しています。
蘇我入鹿を祀る十字架が浮かび上がりました!
2021年7月31日(土)
9月4日に秦河勝のお墓参りツアーを行いますが、ここにきて奈良県大和郡山市にある稗田の賣太神社(めたじんじゃ)の秘密が浮かび上がってきました。
なんと、賣太神社で手を合わす先は、秦河勝の墓である生島に手を合わすように神社本殿は設計されていることが分かりました。
そしてその賣太神社から丹後半島にある徐福の墓までと、秦河勝の墓である生島までの距離は125~128㎞で、凡そ二等辺三角形を描きますし、
鳥取の摩尼山から徐福の墓までと、生島までの距離も87㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
綺麗な図形です。
藤原不比等と私、どんな繋がりなのだろうか。
2021年7月29日(木)
私たちの先祖を辿ると、「藤原家に繋がります」と今まで私は皆さんに告げてきました。
もちろんそれは正しいのですが、もうお一人スゴイ方が居られました。
それが、応神天皇の代に弓月の国から19万の民を引き連れて日本にやってきたという『秦河勝』です。
「秦河勝が私の先祖なのですが・・」と言われる方も、「秦河勝のことを教えてください」と突然事務所に来られたりもしましたが、
私たちの先祖を辿ると、間違いなく秦河勝にもたどり着くと私は思っています。
どうして奈良、京都の造営に尽力した秦河勝の墓が、兵庫県赤穂市坂越の生島(いきしま)にお墓を設けたのかを不思議に思っていた私でしたが、ここにきてハッキリと理解できるようになりました。
それで・・、生島にこそ上がることはできませんが、行基、空海様も手を合わせ眺めたであろう宝珠山妙見寺から同じように手を合わせようと思い、日帰りツアーを企画しました。
ご賛同いただける皆さまと共に、我が国の礎を築かれたご先祖様に手を合わせたいと思います。
2021年7月20日(火)
私は、どうして秦河勝の墓が兵庫県赤穂市坂越の生島にあることが理解できませんでした。
でも・・空海コードでマリアの墓とエリアムの墓と秦河勝の墓とで直角三角形。
マリアの墓の近くにある王山とソロモン王の墓と秦河勝の墓とで直角三角形。
秦河勝の墓とソロモン王の墓とイエス・キリストの墓とで直角三角形を描いている。
秦河勝は、エリアム ダビデ王 バト・シェバ ソロモン王 マリア イエス・キリスト 卑弥呼の血を受け継いでいることを私たちに教える為に、兵庫県赤穂市坂越の生島を永遠に眠る場所に決めたと言うことです。
いえいえ、秦河勝は、テラ(天照大神) モーセ シバ の血をも受け継いでいると言ってますよ。
そのことを知っていた行基、空海は、宝珠山妙見寺から秦河勝が眠る生島をいつまででも手を合わせ眺めていたことでしょう。
2021年4月6日(火)
昨日、4月5日(月)朝9時前に、宮崎君から電話。
「今日は、山ですか?」・・と。
「今日は、事務所です」と私。
「昨日は赤穂に泊まることになりまして、どうしても上森さんにお会いしたいという方が居られまして・・、お連れしてもよいですか」・・と宮崎君。
「良いですよ」
・・と言うことで、お昼過ぎに宮崎君がやってきた。
それからほどなくして、ご夫妻がやって来られた。
出された名刺には、『大倉正之助』。
やってこられて、挨拶もそこそこに、近くの焼き肉店へと昼食に。
すぐさま事務所にもどり、話は勝手に進んでいました。
昼食の時もそうでしたが、事務所でも、
「あなた!失礼でしょう・・」と奥様。
何度でも、ご主人様は、シータ波に近いスローα状態で・・。
「良いんですよ、今、神様が来て居られますから・・、私はいつも事務所に来たら眠らされるんです。失礼でもありませんよ」と私。
気遣う奥様に何度となく同じ言葉を言う私でした。
んん~~ん、ドラマは急展開の模様です。
大倉さんが見せてくれた家系図の始まりには、『秦河勝』の名前が書いてありました。
丁度一週間前のブログに、秦河勝の墓である赤穂の生島と、聖武天皇の墓と弘法大師廟と卑弥呼の墓のことを書きましたが、そのことから話が始まったようでした。
大倉さんは、昨日4日、日曜日に大避神社での和楽の奉納演奏に来られたとのことで、生島へも渡られたとのことでした。
間違いなく、ルーツを辿れば「秦河勝」のようでしたから、私はいろいろと伝えてあげました。
「秦河勝のご先祖様である弓月王のお母さんの母の墓はどこにあるかご存じですか」
・・「知りません」。
「弓月王のお祖母さんの妹さんの陵墓は、宮内庁が管理しています」
「その方たちの母親の墓は、ここです。2:1:√3の直角三角形を描きます」
「その方は、安栖里から卑弥呼さんの息子の嫁に嫁いで来られました」
「卑弥呼には男の子が一人居ました。そこにモーセの直系の家系であるお姫様が嫁いでこられまして、女の子が二人できました」
「下の娘さんには、女、女、男が生まれまして、その男の子が応神天皇です」
「上の女の子には、女、女、女・・」もう話はついていけませんよね。
「上のお姉さんの子供が、高句麗の王様に嫁がれまして、生まれたのが弓月王です」
「弓月王の母方は、卑弥呼に繋がりイエスの四男で第四代懿徳天皇に繋がり、父方もイエスに繋がり・・」
・・このような話・・、到底、話についていけません。
意識はもう、もうろうとしてしまいます。
当然至極の状態なのでした。
私はこの時、秦河勝と、そのご先祖様である弓月王とを混同して喋っていました。
それをきっかけに次々と大きな発見へと繋がっていきました。
昨日の会話を綴ると、小冊子一冊が出来上がる内容でした。
でも、話の内容から分かったことは、間違いなくバチカンは、イエスの直系である人物たちのことを知っているようです。
本人が知らなくても、バチカンは知っていますね。
だって、ご夫妻は、バチカンの大事な節目の年に、日本代表でバチカンに呼ばれています。
ご本人様たちは、「どうして私たちが招待されたのか分からない」と言って居られましたが、私には十分にそれは理解できます。
八木さんの数霊の予告、当たってますよ。
藤田さん、メールありがとうございます。
藤田さんのルーツにまで話は行きつきました。
私との会話からすぐにその方へ電話して居られました。
「電話が通じませんので、メールを入れておきました・・」と。
皆さん、かごめのドラマの中で、台本通りに演じて居られますねぇ。
鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓の話から、「赤十字山って!?・・あるんですかぁ・・」と驚いておられましたねぇ。
「長老ヶ岳では、宮崎君は不思議な体験をしています。四天王寺で手を合わす先は、その長老ヶ岳です」と。
この国の長老って藤原鎌足であり、その子孫が赤十字と大いに関わっていることを教えています。
2021年3月29日(月)
大本の綾部本部の禁足地は聖武天皇の墓である。
先日の関西サイ科学会での講演会で、弾圧されて壊されたがれきが禁足地の山頂に埋められていることをスライドで見せられた。
それを見て知った空海は激怒した。
大本で起きることは、日本のひな型であり世界のひな型だというらしい・・。
世界の争いごとと環境破壊・・。 無縁なのだろうか・・。
誰しも、神聖なる先祖の墓の上にゴミが盛られていたらどう思うのだろう。
それが・・、知らないとは言え・・、よりにもよって聖武天皇の墓の上に・・。
大本も国家の長も、何も知らぬ存ぜぬでやり過ごすのか・・。
これ以上、日本と世界が恐ろしいことにならないように祈るだけである。
不思議な話であるが、2011年11月1日に神戸の前の事務所に見ず知らずの女性が、私が作ったピンクのテラファイトを持って突然入って来られた。
そしていろいろ不思議な話を聞かされて、「明日、私と一緒に行ってください」と言われて、翌日その女性に言われるままに私が運転してたどり着いた場所が大本の綾部の本部だった。
「いろいろ聞いていた・・ここが大本の本部かぁ・・!」と思ったものである。
そしてそこで不思議な体験をした。
そしてその日から、どうもそこで出現した王仁三郎らしき霊が私とともにいろいろ一緒に旅をした。
そのようなこともあり、空海と大いに関係する真言宗のお寺として隣接する正暦寺へも後日行った。
下の図形は、見事にシンメトリーを描いています。
高野山の弘法大師廟から聖武天皇の墓までと、秦河勝の墓である赤穂の生島までとは、共に122.9㎞で三点は見事に二等辺三角形を描いています。
同じように黄色は恵比寿(タダイ)の墓、赤は卑弥呼の墓からそれぞれ二等辺三角形を描いています。
これはほんの一例であるが、綾部の禁足地の一点に集まる空海コードは無数に重なります。
2020年7月4日(土)
日本書記が世に出て1300年と言います。
日本書記編纂に関わった天武天皇 藤原不比等 太安万侶 舎人親王の4人が眠っている墓の位置には綺麗な関係性がありそうです。
天武天皇の墓である衣笠山から太安万侶の墓までと、舎人親王の墓である寺山までは、共に32㎞で二等辺三角形を描きます。
藤原不比等の墓と太安万侶の墓と舎人親王の墓は、直角三角形を描きます。
天武天皇の墓と藤原不比等の墓と秦河勝の墓は、ケプラー三角形を描きます。
又、イエス・キリストの墓と藤原不比等の墓と弘法大師廟の三点もケプラー三角形を描きます。
間違いなく先人達は、この大地に確かな遺言といえる足跡を刻んできます。
歴史の真実が表に出る時期はそう遠くはなさそうな気がしています。
2019年7月10日(水)
篠山の高城山(たかしろやま)は、丹波富士とも呼ばれる美しい山です。
戦国時代、八上城があり、波多野氏の居城でした。
次のNHKの大河 麒麟がくるで、明智光秀によって落城のシーンがあると思います。
高城山は、2つの山からなり、もう一つの山すそに弓月神社があります。
正一位弓月大明神 弓月君(融通王)をまつる 秦氏です。 ・・・
いつも笑顔が素敵な〇谷さんが、素晴らしい情報を届けてくれました。
やはり〇谷さんもメッセンジャーでしたねぇ。
朝からFAXで送られてきた一枚の用紙から、地理院地図とにらめっこでした。
そこから秦河勝のお墓との関係が二等辺三角形などで浮かび上がってきました。
応神天皇の墓から秦河勝の墓までと高城山までの距離は同距離。
恵比寿様のお墓から秦河勝の墓までと弓月神社までの距離も同距離。
まだまだ出てきましたねぇ。 そして不思議な物語の最初のころのことを「思い出せ!思い出せ!!」と・・。
一日かかって・・結論がでました。
詳しくは後日まとめますが、
恵比寿様であり、イスラエル12部族のシメオン族である!
〇谷さん、スゴイ発見です! ありがとう! 感謝します。
ところで最後の漢字6文字を教えてもらえませんか。
特に二番目の文字です。いくらネットで探してもこの6文字がヒットしません。
この文字にも重大な意味がありそうです。
2019年7月9日(火)
神河町長谷の栗 山中には、女王卑弥呼の山城の城壁である神籠石が残っています。
私は来週、千島学説を実践している方々の集まりに山口県へと行くことになっていますが、「山口県に何があるのだろう??」とネットで調べてみたら、山口県田布施町にも石城山神籠石(いわきさんこうごいし)という遥か古墳時代以前に造られたと思われる謎の石組みがあることを教えられました。
それでいつものように地理院地図と向かい合うと、いつものように睡魔が襲ってきて・・、目が覚めるとすぐさま図形が出来上がりました。
結論です!
下の図形は、石城山には古代大王の墓があることを教えています。
石城山神籠石のポイントは、モーセの墓と天照大神=アブラハムの父・テラの墓である神野山の王塚との三点で、5:12:13の整数比の直角三角形を描きます。
見事です!
そしてこの直角三角形の重心となる場所が兵庫県赤穂市の生島であり、この島を秦河勝はお墓にしています。
日本列島の中で、これら大王(大神)たちに守られて眠りに就く場所を秦氏は選定したのでしょう。
そして・・島の名は、蘇えり生まれかわりを約束するかのように「生島」と呼ばせたと聞こえてきます。
見事です!!
石城山に眠る古代大王とは何と呼ばれた神様なのだろうか・・??
2019年6月17日(月)
私は今までこれほどに大きくて重要な方位を教える見事な磐座を見たことがない。
岡山県赤磐市の岩神神社の磐座も重要な場所を教える立派な方位石でしたが、奈良県吉野町矢治の岩神神社の磐座は圧巻である。
私はコンパスグラスで計測してきた角度を地理院地図に落とし込んで、岩は何を私達に教えているのかを調べると・・・。
もう見事である。
向かって一番大きな面は、コンパスグラスで337度である。
この角度の方向には、大和郡山の松尾寺の補陀落山である。
ここには、聖徳太子=蘇我入鹿の墓がある。
又、向かって右手の面は90度である。
この方角には、天武天皇の墓である衣笠山の麓の清谷寺を教えている。
そして、向かって左端には岩が割れているが、この割れが教える角度は64度である。
この方角には、天武天皇の墓である衣笠山を遥拝する浄見原神社がある。
又、浄見原神社がある山の三角点も64度に位置していて、その三角点と岩神神社の磐座と、天武天皇の墓である衣笠山の三角点は、見事にケプラー三角形を描いている。
岩神神社の磐座から1.74㎞東に天武天皇の墓、西に1.74㎞に宮滝遺跡。
この地域の神社やお寺も計画された配置になっている。
そして、天武天皇のもとで古事記や日本書紀の編纂に携わった藤原不比等の墓と、天武天皇の墓と平安京建設に大いに関わった秦河勝の墓の三点も、ケプラー三角形を描いている。
又、天武天皇の実母である斉明天皇の墓(比定されている天皇陵ではない)と、天武天皇の墓と、高野山の弘法大師廟は、見事に2:1:√3の直角三角形を描いている。
これらは、全て計算されつくした位置決めになっている。
そしてそれらの墓は、全て兵庫県神崎郡神河町南小田の標高836m地点にある、大国主命=イエス・キリストの本当の墓に繋がるように三角法で霊ライン網が構築されている。
そしてこれらは、時代と共に幾重にも幾重にも賢者達の墓が三角法で重ねられている。
岩神神社の磐座は、天武天皇の墓とその父である蘇我入鹿の墓を教える重要な方位石である。
この磐座を造らせたのは、天武天皇の産みの親 斉明天皇である。
浄見原神社から見る天武天皇が眠る衣笠山は、雄大で実に美しく愛おしい・・!
2018年12月22日(土)
武部さんは宍粟市の宝珠岩から大阪府太子町の「神山(コウヤマ)」が気になると言っています。
宝珠岩から正福寺までと赤穂の宝珠山までとは47㎞と同距離で、それで私はメッセージと思い、赤穂の宝珠山から神山までと御神山までの距離を測ってみると、117㎞と同距離です。
不思議な感覚です。
宝珠山と正福寺と御神山の三点を結ぶと、54度 36度 90度の正五角形の一部となる直角三角形を描いていました。
それで、その三角形を元に正五角形を描きだすと、即座に正福寺と宝珠山とのラインで御神山の対照地点を求めると、なんとそこには「行基の墓」がありました。
宝珠山から御神山までの距離も、行基の墓までの距離も同距離で、「えっ!」と驚きです。
そして高知のポイントには、今は在りませんが、地名としても残るぐらいの行基が創建したという「円行寺」があったことを知ることになりました。
御神山と行基の墓との間には宝珠山があり、この宝珠山から神山までとの距離はみな同じで、宝珠山のすぐ下には、秦河勝の墓である生島が綺麗に眺められる宝珠山妙見寺があります。
ここのお寺は行基の開基で、空海様も来ている大事な場所で、神仏習合時代は宝珠山麓に鎮座する大避神社の神宮寺でもあり、同神社と祭神である秦河勝とは縁が深い寺であったとのことです。
そして、建物の蛙股には東西南北の方角に合わせた十二支の彫刻が目を楽しませてくれます。
ここから眺めることの出来る瀬戸内の眺望は、生島、宝珠山霊場、大避神社と併せた坂越のパワースポットとして注目されているようです。
私以前、市川慎さんに妙見寺に連れて行ってもらいましたが、そこから生島や瀬戸内を眺めていたら、秦河勝と行基と空海さまは同じ血筋だと響いてきました。