2021年5月25日(火)
二年前に、法隆寺若草伽藍の向きを調べたことがありましたが、もう一度確かめてみることにしました。
すると・・何故か、以前の角度には違いがありました。
正確には338度のようです。
すると、下記のような図形が浮かび上がりました。
今はなき法隆寺若草伽藍の配置は、丹後半島にある徐福の墓秦始皇帝の地下神殿に向けて造営されています。
その反対は、鬼の俎・鬼の雪隠がある場所です。
若草伽藍と徐福の墓 秦始皇帝の地下神殿と応神天皇の墓の三点は、ケプラー三角形を描きます。
又、若草伽藍と徐福の墓 秦始皇帝の地下神殿と淡路国分寺塔跡の三点は、正五角形の一部をなす直角三角形を描きます。
このことから、乙巳の変の真相と蘇我入鹿の無念の御霊を開放できるのではないかと私は思います。
今のこの世の不条理な現象を解こうとすれば、やはり蘇我入鹿の無念の御霊に手を合わせ入鹿の汚名を晴らさなければ絶対に解決しないと常々思っています。
蘇我入鹿は、卑弥呼の流れも受け継いでいます。
日本の歴史の中で、無念で無念で仕方ない邪馬壹国の女王卑弥呼と蘇我入鹿の無念の御霊を開放しなければこの国の、そしてこの世の平安は遠のくばかりです。
一刻の猶予もないようです。 (2024年2月9日加筆訂正)
2020年3月13日(金)
新型コロナのパンデミック宣言は、神様からのイエローカード。
五十六歳と七か月目の日に宗像大社で私を待っていた神霊に動かされて10年。
その間、出口王仁三郎も私についてきた。
そして、アブラハムの墓にも日月の山にも一緒に上った。
「時間がない、急げ!一日遅れればどれだけの命がなくなるか、お前は分かっているのか!」と、言われているような気がして、言われるままに山々のお墓へと行った。
そして、ここまで来れば、神様方が何を言っているのかも理解できる。
ずる賢い人間、平気でウソをつく人間にウンザリしておられるご様子です。
人間は好き放題に水を汚し、空も汚し放題。
そして誰もそれを止めない。
イエス・キリストの名を活用して、世界統治までやってしまおうと企む蛮行にイエローカードが出されました。
私は常々、
水は光であって、水こそが神様 だと言ってきました。
そして、
お金はエネルギーであって、神様の血液 みたいなものと言ってきました。
ウソを棚に上げて、自分の身を守らんがために、専門家の意見を云々・・、
人間は、息を止めることは数十秒しかできません。
経済の流れを止めることは、死活問題です。
長は、少なくとも神様に嫌われないような行いを持って、任務を遂行せねばなりません。
全てはお見通しの世界があるのです。
そして、ご先祖の墓守が大事です。
今、国の長は、この一番大切な国民のご先祖の神様の墓守と祀り事を怠っています。
これでは、現人神たちはご立腹です。
大国主命=イエス・キリストの墓が神河町南小田の山頂にあります。
そして・・その東、5㎞の地点に卑弥呼の墓があります。
応神天皇の墓 仁徳天皇の墓、藤原不比等の墓、桓武天皇の墓・・長が行って手を合わせねばならないところが沢山あります。
この一番真っ先にやらねばならないことを何もせずに今のまま行けば・・、もっと大変な状態へと進みます。
この世は、この世の人と、あの世に行った人たちとで共に築く光の世界なのです。
魂を浄め、水の回転力を強めなければ、これから夏に向けて、又は、来年再来年へと向けて新たな種のパンデミックが待ち受けています。
レッドカードが出されてからでは・・、あまりにも犠牲が伴いすぎます。
14日(土) たくさんの人たちで成し遂げた、『世界の歴史の真実』を語らなければなりません。
それが、『邪馬台国オリオン座説』なのです。
一人でも多くの人に聞いてほしいと思います。
上森三郎
もう春です!
2020年1月3日(金)
・・そして、伊奢能麻和迦王は仁徳天皇に王権を譲った。
竜石山は伊奢能麻和迦王の陵墓であり、間違いなく王権は 葛城の野伊呂売(ノノイロメ)を娶して生みましし御子、伊奢能麻和迦王(イザノマワカノミコ)。一柱。
・・と応神天皇。
その証明が、淡路島で一番高い山である「諭鶴羽山」と応神天皇の墓と伊奢能麻和迦王の陵墓との三点で、見事に正五角形の一部をなす直角三角形で表されています。
そして、親子三代の二等辺三角形の図形でお墓は繋がっていました。
以前、姫宮神社の山田宮司に、境内の綺麗で大きなゆずり葉の樹を見ながら、「正月の飾りにゆづり葉を使う意味はご存じですか」と言われて、
「そうなんですかぁ」と納得したのと同時にその時、淡路島で一番高い山の名前が「諭鶴羽山」と書いて「ゆずるは山」と読む不思議がづっと頭の隅に残っていました。
しかも・・鶴の羽。鶴はイエス・キリスト及びイエス王家の方々を意味するものですから・・。
ここにきてハッキリと「諭鶴羽山」の四文字の意味が分かりました。
この山の北麓にアブラハムの墓もありましたね。人々を寄せ付けない入り込めない秘境ですが・・。
2020年1月2日(木)
竜石山は伊奢能麻和迦王の陵墓であり、お墓は兵庫県神崎郡市川町にある。
第15代 応神天皇の没年は、ウィキペディアでは西暦310年で,、第16代 仁徳天皇の没年は西暦399年となっています。
どう考えても計算があいませんね。 無理があります。
応神天皇と仁徳天皇の間にもう一人、天皇がいてたようです。
滋賀県近江八幡市安土町に「竜石山」がありますが、地理院地図のコンターラインからみてこの山は、墳長380~400mほどの前方後円墳です。
以前私は、応神天皇と仁徳天皇の間には一人の人物が存在していて、その謎の人物の父が応神天皇で子供が仁徳天皇だと教えられ、その三人のお墓に行かされました。
その三人のお墓の位置は、綺麗な二等辺三角形を描くように配置されていました。
応神天皇陵は堺ですが、本当の応神天皇の墓は神河町にありました。
応神天皇には沢山の妻と子供たちがいてたのですが、その中で王権を譲り受けた子供の墓が、兵庫県神崎郡市川町に 在りました。
そして仁徳天皇の墓は、兵庫県神崎郡福崎町に在りました。
応神天皇の子供で去來眞稚皇子(イザサノマワカノミコ)・・日本書記
応神天皇の子供で伊奢能麻和迦王(イザノマワカノミコ)・・古事記
葛城の野伊呂売(ノノイロメ)を娶して生みましし御子、伊奢能麻和迦王(イザノマワカノミコ)。一柱。この天皇の御子等、并せて廿六王。男王十一、女王十五。この中に大雀命(オホサザキノミコト)は、天の下治らしめしき。
下の図の応神天皇の子供の墓は、伊奢能麻和迦王の墓である。
そこから応神天皇の墓までと仁徳天皇の墓までは、共に4.4㎞と同距離です。
このことは、応神天皇、伊奢能麻和迦王、仁徳天皇が親子三代を意味しています。
仁徳天皇陵から伊奢能麻和迦王の陵墓(竜石山)までの距離と仁徳天皇の墓までは、共に86.88㎞とピッタリと同距離です。
このことは、仁徳天皇の父親であることを意味しています。
又、履中天皇陵から、伊奢能麻和迦王の陵墓(竜石山)までの距離と伊奢能麻和迦王の墓までは、共に88.13㎞と同距離です。
これはどう考えるのでしょう。近くにもう一つお墓がありそうですが・・。
そして堺市にある仁徳天皇陵と土塔は、仁徳天皇の故郷を信太の森にある聖神社だと教えていましたが、履中天皇陵も同じ聖神社に向けて造られています。
何か大いにいろいろ事情がありそうですねぇこれは・・。
2019年10月31日(木)
醍醐寺はイエス・キリストの墓を教える寺院で、その大事なことを教えるのが、二つの荒神社でした。
そして不思議なぐらいにそこから浮かび上がるのが、笠山荒神社から奈良県吉野郡にある立里荒神社(たてりこうじんしゃ)までと同距離にある法観寺八坂の塔が浮かび上がりました。
笠山荒神社と立里荒神社と矢坂の塔は二等辺三角形を描きます。
そして立里荒神社と矢坂の塔とイエス・キリストの墓は直角三角形を描きます。
そしてこれは偶然でしょうか。
笠山荒神社とイエスの公的陵墓の二点の中点から円を描くライン上に醍醐寺五重塔も八坂の塔も存在しています。
そしてこの円のライン上に藤原不比等の墓もあります。
イエスの公的陵墓と笠山荒神社と藤原不比等の墓は、40度50度90度の綺麗な直角三角形を描きます。
立里荒神社は、重要なことを教えるベンチマークでしたが、笠山荒神社も又、重要なベンチマークポイントでした。
立里荒神社と藤原不比等の墓と直角三角形を描くポイントには応神天皇の墓がありました。
そしてイエス・キリストの墓の東に位置する場所に藤原不比等の墓があり、そこから直角に南に行った場所に高野山弘法大師廟でした。
藤原不比等の墓は、日本の最高神、天照大神の墓である神野山の王塚から弘法大師廟までの同距離に造られていましたね。
空海さまが高野山を開かれてから、月に一度は立里荒神社に登ってお祈りを欠かさなかったのは、第五十代桓武天皇の墓が立里荒神社の真北に位置していたからとのことだけしか私の頭にはありませんでしたが、ここにきて一気にそのポイントの重要性が浮かび上がりました。
これらのことから見えてくるのは、藤原鎌足から藤原不比等へと託された、藤原家のご先祖の御霊を守り崇めるという強烈な信念が、藤原直系である桓武天皇にも引き継がれたことを読み解くことができます。
このことを纏めるには時間も必要ですが、どうもゆっくりしてもいられない状態が見えてきたようです。
かごめかごめの唄の、「夜明けの晩」が近づいているようです。
日月神示の地響きがする暗黒の闇が近づいているような・・。
荒神さんは、大変ご立腹の様子ですからねぇ・・。
綺麗です! 実に見事な配置図です!!
2019年10月26日(土)
イエス・キリストの墓と藤原不比等の墓と、上島は、綺麗な2:1:√3の直角三角形を描きます。
本当に綺麗です。
イエス・キリストの墓と上島と東大寺大仏殿は、直角三角形を描きます。
不比等君は、応神天皇の墓も仁徳天皇の墓も・・、全てを知っていましたねぇ。
空海さまは、高野を開いた後も、毎月一回必ず荒神岳へと登った意味は、荒神社の真北に桓武天皇が眠って居たからだと、そのことだけを今まで私は思っていましたが、もう一つ重要なことが在ったようです。
荒神社から不比等君にも応神天皇にも、イエスやイエス王家の方々に祈りをささげていたということでしたね。
不比等君は、斉明天皇や天武天皇・持統天皇らから切なる思いを託され記紀に纏め、それらの願いを桓武天皇で若き最澄、空海を使って忠実に実行しました。
又、藤原武智麻呂も父を尊敬し思いを受け継いでいることがお墓の位置でくみ取れます。
これらイエス王家の血を受け継ぐ藤原家の方々は、真実を悟られることなく真実を語り継がせていますね。
もうそろそろ、真実を表に出す時が近づいているようです。
読者の方々の身体には、まちがいなく不比等君のDNAもイエス・キリストの血も受け継がれています。
あまりにも凄すぎます。
真の世界平和は、イエス・キリストが活躍した舞台が日本であり、兵庫県の中央の山地に墓があり、そこにモーセの御霊も祀り、世界人類の御先祖の神々も祀っている王家の丘があることを世に知らしめることにあります。
この世は、この世に居た人たちから見つめられている虚の世界であり実の世界です。
真実を捻じ曲げて、又は体裁を繕ってみてもお見通しの世界です。
この世に居られた私たちの御先祖の御先祖様である現人神さまたちは、一人一人が目覚め、鳳凰のように蘇ることを促しています。
2019年9月19日(木)
今は無き広渡寺は、東大寺大仏殿の造営責任者であった行基の開基でした。
その広渡廃寺跡から空海様の墓までと七面山までの距離は大凡315㎞と同距離でした。
広渡廃寺跡は、応神天皇の墓や藤原不比等の墓、そして空海様の墓の場所など重要な聖なる場所を教える重要な役割を果たしていました。
そしてその広渡寺で手を合わせて祈る重要な場所は、コンパスグラスで4度の場所で、このポイントは、粟鹿神社でした。
そしてその場所は、藤原不比等の墓から広渡寺までの距離と同距離で、粟鹿神社と広渡寺から導き出される重要なポイントは、丹後半島からモーセの御霊を移し替えて祀った場所を教えていました。
この場所は、現在の神河町にあるホテルリラクシアの中庭の盛り上がった場所で、おそらく大事な磐座があったはずですが、建設時に壊されています。
でも・・その位置そのものを等高線地図から消し去ることはできません。
広渡廃寺跡と粟鹿神社とモーセの御霊を移し替えた場所とは、36度 54度 90度の正三角形の一部をなす直角三角形を描きます。
その消し去ることのできない重要な場所に手を合わす場所が、書写山円教寺の摩尼殿であり、賀野神社でした。
広渡寺は重要な役割を担って造営された寺院でした。
2019年7月10日(水)
篠山の高城山(たかしろやま)は、丹波富士とも呼ばれる美しい山です。
戦国時代、八上城があり、波多野氏の居城でした。
次のNHKの大河 麒麟がくるで、明智光秀によって落城のシーンがあると思います。
高城山は、2つの山からなり、もう一つの山すそに弓月神社があります。
正一位弓月大明神 弓月君(融通王)をまつる 秦氏です。 ・・・
いつも笑顔が素敵な〇谷さんが、素晴らしい情報を届けてくれました。
やはり〇谷さんもメッセンジャーでしたねぇ。
朝からFAXで送られてきた一枚の用紙から、地理院地図とにらめっこでした。
そこから秦河勝のお墓との関係が二等辺三角形などで浮かび上がってきました。
応神天皇の墓から秦河勝の墓までと高城山までの距離は同距離。
恵比寿様のお墓から秦河勝の墓までと弓月神社までの距離も同距離。
まだまだ出てきましたねぇ。 そして不思議な物語の最初のころのことを「思い出せ!思い出せ!!」と・・。
一日かかって・・結論がでました。
詳しくは後日まとめますが、
恵比寿様であり、イスラエル12部族のシメオン族である!
〇谷さん、スゴイ発見です! ありがとう! 感謝します。
ところで最後の漢字6文字を教えてもらえませんか。
特に二番目の文字です。いくらネットで探してもこの6文字がヒットしません。
この文字にも重大な意味がありそうです。
2019年7月8日(月)
ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は6日、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理する「大山(だいせん)古墳」など「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めた。
この発表には柿本人麻呂さんも行基さんも大変喜んで居られることでしょう。
この応神天皇陵や仁徳天皇陵ですが、これらの古墳をお墓と思い込んでいる人が大半なのではないでしょうか。
少なくとも応神天皇陵と仁徳天皇陵は、公的な墓標であってお墓ではありません。
応神天皇と仁徳天皇の亡骸を葬った本当のお墓は、播磨国風土記に記された埴岡の里、現在の神崎郡の神河町とその南に隣接する市川町にあります。
又、歴史では応神天皇の子が仁徳天皇であるように語られていますが、その二人の間に二人を繋ぐ王が存在しています。
その三人、つまり親子三代の墓が埴岡の里に存在しています。
その三人は二等辺三角形で描く位置に存在しています。
35度0分41.39秒 134度42分30.76秒
35.011497,134.708546
35度4分36.20秒 134度45分30.81秒
35.076721,134.758558
35度2分55.60秒 134度43分27.52秒
35.048777,134.724312
下の赤丸の場所が仁徳天皇のお墓です。
下の赤丸の場所が応神天皇のお墓です。
2018年1月28日(日)
応神天皇(西暦270~310 在位40年)
仁徳天皇(西暦313~399 在位86年)
応神天皇と仁徳天皇の間には、もう1人、天皇が存在しているようです。
市川町にあるもう一人の方のお墓から、応神天皇の墓、仁徳天皇の墓まで4.4㎞と同距離です。
三点を結べば、綺麗な二等辺三角形を描きます。
王家の方のお墓参りは続きます・・。
今日、武部さんと行く予定ですが、山は雪でしょうかぁ・・。