怒りのメゾフォルテ

娘を奪われました。二度と帰ってきません。奪った人たちの対応に怒りが募ります。

8月16日 署名活動準備を始め出した、去年の暑い夏

2011-08-16 09:19:22 | 事故後の動き
なぜ、娘が死なねばならなかった?

なぜ、多くの生徒達が心に、取り返しのつかない傷を負わねばならなかった?


学校や市教育委員会からの、説明がないまま、時間だけが過ぎて行く。


これでは、娘の死が無駄になってしまう。

このような学校教育の現場では、第2の犠牲者が出てしまう。



事故の真相究明を求め、早急に対策を講じてもらわないと。

その思いからの署名活動。
先ずは依頼書をと、8/28の日付で作成。

なんの知識もないまま、保護者の方々の力を借り、何度か断念しながら踏み出した。

署名活動を起こすという情報を得て、数人の心ある市議や、
副市長まで探りを入れ?に市教委と  弔問に来た。
ただ同中学出身で、なにかとこの地区の集まりに顔を出す自民党系市議は来ない。
保護者が頼みに行っても、断られたと聞く。

10/12に市議会に提出する請願書には、市議に一人紹介議員になってもらわねばいけないらしい。
主人が会派まわりというものをやり、ただただわからないまま突き進んだ。
カツラを被ってホテルまで?、主人を呼び出す自民党系市議もいた。

短期間に多くの方々の協力を得て、人口38万の市で1万7000という署名を頂いた。

しかし請願結果は 趣旨採択
趣旨は理解できるが、採択はできない○△×のらしい。

その結果を受け、我が家はマスコミの電話の嵐。
翌日主人の仕事先まで、「言った通りになったでしょう、ほらね。」と電話をかけてきたカツラの市議。

この事故をしっかり追究しなければいけない!という、心ある市議達の賛同は得られたが、
市議会多数を占める自民党系市議は、当初から×という結果のままだった。

事故の究明・対策等は、市教委に任せるという市議会の姿勢。
何の説明もしない、この市教委を信じろと?

市の学校教育に不安をもつ、1万7000を超える多を無駄にしたくない!

その姿を、子供達、  そして娘に    届けたい!   その一念だった。  


       補足になるが、我が家に弔問に来た4人の市議は、春の市議選で全員当選。

  

8月15日 普通にお盆が過ごせる先生達

2011-08-15 10:42:07 | 私のつぶやき
昨日は生徒さん達が来て、9月の体育祭のクラス対抗に着用する援舞の、
娘のTシャツを持って来てくれた。

夏休みも部活や宿題で大忙しの2年生。
盆休みしか自由な時間はないのだろう。
生徒さん達の「娘とはクラスは一緒!」という気持ちに、有難さがこみ上げる。

それに比べ、8/12(金)の私のトラウマ弔問に、
「学校の先生達はだれも都合がつかない!」と自分達の盆休みを一番に、断る学校。

それが娘の死を招き、私達に盆休みどころじゃない状態にした、当事者校の姿勢?
学校が委託
し、事故となった隣の県教委や民間委託先の関係者も、遠く東京や名古屋等から大勢で、13日に弔問にみえた。
そして真剣に、今後の再発防止等の姿勢を、娘の祭壇の前で示してもらった。

私達親は、

          「学校に娘を預けた! 

事故があった施設がどうであれ、私達は学校に預けたのだ。

しかし、この私達遺族の気持ちは届かない。


学校の姿勢は、市教育長が何度も言う
「委託先の 不良パッケージ を買わされた」という言葉に表れている。


隣県が起こし事故。  責任は隣県。  
前市教育課長や6月に市教育委員会が言った。   当市教育委員会は隣県とは線を引きたい。

この14カ月近く、誰が責任を取る? という 大人とは思えない姿勢に悩まされてきた。

親や娘が望んでいるのは、こんなつまらない犯人探しではない。

「娘の命の重さ」を重く感じ、一人一人が今できる最善の責任の取り方を考えて欲しい。

それが一番、嬉しく、心落ち着く、
娘にとっても私達遺族にとっても、望むお盆 

なぜ生徒達の命を預かる、教育者がわからない?
 

8月13日 私にとっての「命」、の手紙

2011-08-13 18:25:20 | 事故後の動き
今日、私の気持ちを表す気持ちをポストに投函してきた。



2011年3月に教職員の人事異動が新聞で発表される前日だった。

学校から報告がある、というので主人も仕事を早めに切り上げ帰宅して待った。
たぶん先生達の人事異動の報告?

「ピンポ~ン」とドアのチャイムが鳴り、
「こんばんわ」という先生達の声。
でも、予想していた人数よりかなり多くてビックリ。

なんと事故を起こした野外活動で、引率した教師8人のうち 5人 も来た。
円満退職を待つ元校長を除くと、学校に残るのは、2人しかいない。

まだ中学に来て1年目の先生もいれば、
私の前で泣いて「辞めない」と言った、30代半ばで退職する担任も。

唖然として「先生達にしかできない、事故の経験を新しい学校で活かして下さい。」と言うのがやっとだった。

翌日の新聞掲載をみて、生徒達はどう感じるだろう?
保護者はどう思うだろう?
 


 「責任を持って、娘や生徒達が卒業するまでいて下さい。」 ってお願いしていたのに。

これが大人の責任の取り方? 5人もいれば、何か生徒達に大人の責任の取り方を、形にして残すこともできたのでは?

それで、学校を通して、○○中(娘の中学)を去る5人の先生達に手紙をお願いした。

2年に進級しただろう娘が残した作文。
「私にとってのお母さん」というタイトルであり、涙で一杯になりながら読み進むと、最後は「いてくれてありがとう」で締めくくられていた。

先生達にお願いしたのは「私にとっての命」というテーマで、
「娘に」「郵便で」「連絡先明記」で、娘が楽しみにしていた本当の手紙で下さい。

しかし、
返ってきたのは、学校から届けられた手紙2通と郵便2通だった。
しかも連絡先は明記のはずもなく、親の私達宛だった。

     娘の命の重さって?       逃げれば終わりって?   

真剣に 娘の命 に向き合おうとしない、先生達に対して、やるせなさだけが募った。

  

8月12日 今日は金曜、私のトラウマ弔問が・・

2011-08-12 20:22:51 | 学校に対して
やはり朝から、どこか金曜は悲しい。
事故の起きた時間になると、14カ月近く経つのに、今だ心が張り裂けそうになる。

この市で迎える二度目のお盆。
例年は亡き父に会いに、隣県の実家に家族3人で帰省していた。
もう一生、お盆に実家に帰ることはできない。
事故で引率した先生達は、普通にお盆を過ごせるんだろうな。


夕方になり、校長とこの4月に移動してきた校務主任が来た。
娘に会ったこともない二人。
校長も、去年の9月に休職した元校長の代わりに、この中学にきた。

最初は金曜の私のトラウマ弔問にも来てもらっていた。
しかしトラウマ弔問の趣旨を説明したのに、娘が好きだった「手紙」を平気で書いてきてくれなかったり、先生達や私達遺族の監視?が目的で来てると感じたから、「無理」とお断りした。


今後のトラウマ弔問は、市教委に相談し、毎週現場の先生は一人は来てくれると。
しかし学校5役(校長、教頭、、、、)も誰か来るという。

事故の風化防止のため、お願いした事故の情報を記したプレートも作成OKと。

でもなぜ被害者遺族が、ここまで要望しないと、風化防止の策が進まない?

加害者の学校が、娘の命を、病死や交通事故死と同じに受け止めているから?
 

   娘は、 親は、 あなた達  「学校を信じた」  のだから!


8月11日 市民病院で入眠薬をまた処方してもらいました

2011-08-11 15:45:41 | 私のつぶやき

またトラウマの金曜が来る。
また学校とのバトルで睡眠障害になるのが怖く、主治医に頼んで入眠薬を処方してもらった。
1ヵ月前の通院のときは、7日分1回0.5錠ずつの処方だったのに、
今回は、28日分1回1錠になっていた。

1年前の事故から、娘の遺骨の傍を離れたくない。
しかも、娘を知らない人達の弔問やマスコミの嵐の中、外出もままならなかった。
人の目も怖かった。

特定疾患の難病を持つ私は、独りになる、他の患者さんと話す、その入院が怖かった。
事情を知る主治医に頼んで、再発?と感じても、
入院ギリギリの多量の免疫抑制剤(ステロイド)を処方してもらい自宅で我慢していた。

この1年、何度も再発?となり、
他の病気の兆候が出ていても、体の不自由な私は自分では受診には行けず、
もちろん、もういない娘 に頼むこともできず、
ステロイドの量が減るのを待ち、主人に休みを取ってもらっての受診だった。

その病気が悪性と言われ、急遽手術。
担当の科の主治医に事情を話し、無理して個室を取って入院。
深くは聞かないが、主治医も事故の事は知っていた。

今回の入院は、面会攻撃で、他の患者さんへの迷惑を惧れ、極秘にした。
難病等で10回は入院している私。
会いにきてくれる 娘 のいない入院。。。

入院しても続けようとした、先生達との「ノート交換」。


さて明晩、また怒りで眠れなくなる?


8月10日 「先生達はボロボロだ!」?

2011-08-10 09:38:21 | 市教委に対して
去年の事故から毎月、月命日の弔問の際、
バトルのような市教育委員会との話し合い

毎回教育長から発せられる言葉に、
「ご両親を納得させることはできない。」

  「○○中(娘の学校)の先生達はボロボロだ!」 

どうしてその先の、一番心を痛めなくてはならない 生徒達 への心配がないんだろう?

さらに言えば、
一人娘の命を奪われた親の私達への配慮は?  


この言葉は、事故防止への原因究明を市議会に求め、署名活動をした際の校長の言葉と同じだった。

「署名活動をどう思われますか?」

校長からは、  「先生達は傷ついている!」 と。

私達遺族は傷ついてないというの? 
暗に署名活動を辞めろって言っているの?


親が安心して、子供を学校に預けられる事を求めての署名活動なのに。  


中学校からの月命日の弔問で言われたこの言葉。

娘の無念さを思うと、この特別な日に。

         
        また、私の深い憤りだけが募っていった。


8月9日 事故の状況説明は2010年11月1日だった

2011-08-09 09:24:49 | 事故後の動き
元校長の遺族への配慮のない、メモだけの口頭説明
学校サイドからの不誠実な対応。
そうした苦い経験から、事故の状況は、
細江署にお願いしたり、静岡サイドや保護者の方からの情報で得るものだけだった。

正式な文書による時系列の事故状況が、私達遺族に届けられたのは、
事故から4カ月以上も過ぎ、
市議会に原因究明の署名活動をした後の、11月1日だった。

7月27日の市議会議事録で報告された、事故の時系列の状況は
市教委課長より、ようやく私達遺族に届けられた。

読んでいくと「母親の私が消防から連絡を受けた」とか、
先生達に現場に連れて行ってもらった「時刻」など、大きく異なる。
誰にこの情報を得たのだろう?
しかも市議会という、公式の場で既に報告されている。

私が一番聞きたくない、娘の死は細江署の部長からだけであり、
体の不自由な私は、何の連絡もない学校へ、自ら電話して連れて行ってもらった
「若い先生達に行かせる」と学校に言われ、待っていても来ない。
判りにくい土地といっても、近所には在校生が5人 前年の卒業生も2人いる。

一刻も早く
誰にも救ってもらえず、2時間半も湖中で行方不明にされた、娘の傍に行ってやりたい!


 「全員無事」と学校で聞かされ、現場に向う車内で、娘の死という私の連絡を受け、現場でひとり待つ主人に会いたい! 

         そんな私に時間だけが過ぎていく。

ようやくかかってきた先生からの電話は、「ナビを使用したら道がわからなくなった」というお粗末なもの。
何度も電話で道案内を重ね、明るい6月の夕方が大雨の中、
大勢のマスコミ、フラッシュの嵐を浴びるほど、
すでに外は暗くなっていた。

4月に学校に提出した、我が家までの間違いにくい通学路の地図は?

集まった保護者から学校が聞いたという我が家の電話番号も、4月に一緒に提出しているはずだ


         私の学校への大きな不信感の始まりだった。 

8月8日 1年前の今頃、私を突き刺していた二つの言葉

2011-08-08 09:52:57 | 事故後の動き
一つは、
通夜の前日の夜にもらった電話の言葉。

私、○○ちゃん(娘の名)がいない! って言ったんだよ。」

心がボロボロになっている生徒さんからの、振り絞るような声。
娘の大好きな生徒さん達のために、トラウマを残さない明るい葬儀をと、
保護者の方にも支えられ、娘の遺体の傍にゆっくりいてやることもできず、
精一杯の葬儀の準備していた夜のことだった。

マスコミ攻撃の嵐の中、その言葉を出してしまったら、大変なことになるだろう。
私は反対にこの生徒さん達を守らないと、
必死で娘の死の現実を受け止めようとしている、12歳13歳の生徒達。


もう一つは、
徐々に弔問に訪れてくれるようになった生徒さんからの言葉。

悪天候だから行け! って 国語おかしんじゃない?   」

家に中学の娘の写真が一枚もないので、学校にお願いしてもらった事故のあった野外学習時の写真。

施設の体育館で、先生に訓練実行の言葉を受け、戸惑う生徒達の表情、写りは小さいが驚く娘の顔。

傷ついた心で、娘を慕って、やっと弔問に来てくれるようになった生徒達。
口が裂けても事故の話題は出さない、出せない私だった。


学校からも教育委員会かも、正式な事故状況の遺族への説明がない中、
混乱している日々だった。 

8月7日 2010年8月6日から始まった、金曜夕方の先生達とのノート交換

2011-08-07 09:30:13 | 学校に対して

事故後司法解剖され、土曜の夜にようやく自宅に帰れた娘に、翌日涙で謝りに来た先生達。



娘の死や救助された生徒達の入院、心に深い傷を負った多くの生徒達への対応、しかも、学校生活も元に戻していかねばならず、学校は大変だったであろう。

だが、
事故の6月18日で止まってしまった私達の生活。
毎日のように、娘に会いに来てくれる生徒さんもいた。


しかし、先生達の娘への対応や気持ちは、薄れてゆくばかり。

3ヵ月も学校に在籍できなかった娘。忘れられるのも無理ないか?

娘の命を奪った学校に対して、募ってゆく不信感。



それで私のトラウマにされてしまった金曜に、一人の先生でもいいので娘に会いに来て欲しい、娘のことを思って手紙を書いて来て欲しい、とお願いした。

そして始まった、その手紙を貼り付けた先生達とのノート交換。

それでも先生達の気持が信じられなくなり、先生達に、ノートを続ける署名、捺印をお願いした。



教頭からの答えは「義務になりますから!」と断られた。


「義務」教育の野外学習で、悪天候の中先生を信じ、

何の落ち度もなく、命を落とした私の娘




その頃、事故(事件?)担当の刑事さんに、調書用に娘の生い立ちの文も依頼されていた。
身を切るように辛い作業だったが、娘の思い出を書き出すと多くの枚数になっていった。

娘の生い立ちの文を取りにみえた刑事さんは、元校長の調書も担当していた。
ただ謝罪の気持ちが引き出せず、手紙を2,3通書かせたという。
しかし普通では、長文になるはずの手紙もどれも短く、お若い刑事さんは困ってみえた。

「手紙を書かす?」
私の先生達にお願いしたことと同じで、びっくりした。


遺族の親にここまでの気持ちにさせた学校に、誠意のなさを強く感じる。


そしてまた今、金曜のトラウマ弔問が学校によって消されようとしている。




8月5日夕方 金曜の私のトラウマ弔問が、残念な形にされそうです

2011-08-05 21:31:03 | 学校に対して
今晩のトラウマ弔問、いつもの落ち込みの私に、親分達登場。
市教委に相談し、月命日は2年の先生全員、
そして毎週金曜は学校幹部(親分や役職者)の弔問と言われた。

毎週先生が来て、娘宛ての手紙のノート交換はしてもらえない。



娘は2年B組、席替えも参加、クラスの一員、って生徒さん達の前では。
なのに親の私達は、保護者としては扱ってもらえない!


娘は命を落としてもクラスの一員、学校はやってます、のアリバイ作り?


毎週会ったこともない学校幹部が来て、娘が喜ぶ?

やはり2年の先生達に、せめて違う学年の現場の先生達に来てもらってこそ、
悲惨な事故を起こした学校の、先生達の「意識」に繋がると思う。

事故の時引率した先生達を、2名しか残せなかった残念な学校。


娘の命の重さって?


人生をボロボロにされた遺族の私達って?


また不信感が募っていく。


8月5日 1年前の8月5日は四十九日でした

2011-08-05 09:22:18 | 事故後の動き
非常に暑い日だった。

親戚一人いないこの地に、遠方からわざわざ新幹線、高速で、限られた近親者のみ、仕事を休んで早くから来てもらった。

築10年の一戸建ての我が家の間取りは、玄関・階段のホールを挟み、和室とLDKで仕切られている。

その6畳しかない和室に、なんとか親戚に座ってもらい四十九日の法要をした。
遠くの高齢の祖父母はこれず、どんなにか心残りだっただろう。

やはり私の実家からは、近所の方の学校への、新聞等の報道からまとめた抗議文が。
事故状況についての保護者会に出席できる訳もなかった遺族の私達。

新聞やテレビの報道でしか知り得なかった事故。
やっと遺族側からなぜか?、連日の弔問攻撃時の校長に問うと 待ってました! とばかりに警察の調書時のメモを読み上げだした。

遺族へのなんの配慮もなく、読み上げられていく状況。さすがに娘の最期なんて、聞くに堪えれず、

「学校に殺された!」 と私は言ってしまった。

その苦い経験があるので、実家の抗議文?にも目を通さず
超混乱していた気持ちが落ち着いたら、冷静に事故状況を把握しようと思った。

ありがたいことに、両実家の親戚も騒ぎ立てることもなく、突然の悲し過ぎる現実を受け止めていた。

 
話はとぶが、昨夜もやはり眠れず、病院で処方された入眠薬服用。
去年の睡眠障害の時、薬の服用を知っていれば、どんなに楽だっただろう。




8月4日 また3時間も眠れない日々が続いています

2011-08-04 14:04:21 | 私のつぶやき
1時間眠ると起きてしまう。合わせて3時間も眠れない。1年前と同じ睡眠障害。

明日のトラウマ金曜に加え、親分達登場で、気持ちが暗く揺れているから?

主人の電話への教頭の話からだと、私のトラウマ金曜に、先生達は来させないらしい。

「行ってらっしゃい。」と送り出し、2度と帰ってこれなかった娘。
毎週金曜の事故のあった時間になると、涙で一杯になる。

生徒が娘のいないことを、必死で訴えても、
2時間半も名簿確認さえしてもらえなかった。

あと少し、早かったら、
心肺停止状態でも、蘇生できたかも。

たとえ植物状態になろうと、温かい体の娘に会えたのに。


娘も早く探し出して欲しかっただろう。


毎週金曜になると、先生達に娘の死亡推定時刻までに、

今度はちゃんと、

娘のところに来て欲しいと思ってしまう。


遺族にされた親の、我がままだとわかっているけど。


8月3日夕方 学校から主人に電話で、また木曜にお話に来ると言われました

2011-08-03 18:45:21 | 学校に対して
文庫の件を金曜にと、木曜を断わりOKをもらった。

それなのに、今度は主人の携帯に、18時頃教頭から電話が入る。
「木曜にお話にうちに来たい。」と。

迷惑と考えるのが普通じゃないの?
まだわからないの?

今週の私のトラウマ金曜に、学校の先生達はひとりも来させられないらしい。
その話をしに、木曜に?

どうして自分達の都合だけで片付けようとする?

教育長が述べた「遺族に誠心誠意」ってなんだった!
時間がたつと、いのちを奪ったことさえ忘れてしまうの?

私へのトラウマ弔問をお願いした時、もっと早く心が溶けると思っていた。

それが反対に、怒りを増幅させられるなんて。


8月3日 勝手に文庫の寄贈書籍受け取りの日時まで決められました

2011-08-03 11:03:42 | 学校に対して
娘のことを生徒さん達に忘れないでいてほしい。
一緒に夢を持って成長してほしい。
その願いで、事故から半年後に寄贈した文庫。

娘が毎月楽しみにしていた書籍も、娘に供えてから中学校に毎月寄贈し続けている。

今朝学校に、今月の書籍のFAXをすると、「明日18時に取りにくる、都合が悪げれば取りにくる前に電話で連絡する。」との教頭の返信FAX。

私が玄関に出られないことを知っているのに、仕事のある主人に18時は、普通の常識では無理と考えないの?
私のトラウマを心配して、金曜に早く帰宅してくれる主人に合わせて、いつも金曜に取りに来るのに。

いつも夏休みの娘に介助してもらっていた通院。
私はあの事故以来できなくされてしまった。
昨日も主人に仕事を休んで連れて行ってもらっている。

これでは主人も仕事にならない!
教育者にはそんな配慮もないの?

娘を奪われた上、私達の生活もできない。


8月1日 去年の今頃、元校長に苦しめられていました

2011-08-01 13:56:47 | 事故後の動き
1年前の四十九日、元校長は自己弁護としか思えない、毎晩先生達を引き連れての弔問攻撃。

親戚のいないこの地で、四十九日の準備も体の不自由な私にはままならず。
初めての月命日を終え、「そろそろご遠慮願いますか。」と。
「いや、四十九日までは!」
やっとお供の先生が「ご両親の負担を考えて下さい」と。

事故が起きる前に、誰かこの校長に、勇気を出して言ってくれれば。

昨年のこと。
弔問時に必ず言った「(私の)人生で取り返しのつかないことをしてしまった!」の言葉。

こちらから、学校の6月分の通帳引き落とし明細書を要求してビックリ。
娘が食べることのできなかった分の給食費も引き落とされ、なぜか説明もなく校長が窓口になりましたと。
6月分全額が返金され、6月の娘の存在まで消そうとされた。

私はとうとう憤怒し、昨年8月18日に市教育長に「この校長の存在が許せない」と。

やっと8月も終わり、生徒さんも保護者の方々も、私どもの様子を心配しつつ、徐々に弔問に来ていただけるようになった。

保護者の方から、通夜の際の校長の様子を聞き、またまたビックリ。
通夜の記帳の際、PTA会長に「明日の保護者会、頼むな。終わったら飲みに行こう。」
それを耳にした一人の母親が、引き菓子で校長をなぐった事は、通夜に参列した多くの保護者が知っていた。

後日、私たちを支えてもらったその母親から、その経緯を教えてもらいました。
「さすがに、傷ついている私たちに、はじめのうちは、その話はできなかった」と。

自信満々の校長が市教育長に、夏休みの終わりに休職の指示をされ、重度ウツ病に。
事故から1年、円満退職しても、いまだプライバシーを盾に表に出てこない。

娘と遺族が一番望むことは、悲しみに伏してもらうことではない。
娘の命に真っすぐ向き合い、 事故風化防止へと動いて欲しい。

このままだと自分可愛い病?