太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

だんだん腹が立ってきて

2017-01-23 16:46:31 | 社会観察

やがて呆れてしまってTVで国会中継を見るのを止めた。第一は総理の答弁の中で相変わらず5年前の民主党政権を引き合いに出し、デフレでない状況を作り、雇用も全ての都府県で1以上にしたとか、介護人の待遇を良くしたとか前政権との比較が度々出て来る。もういいだろう、前政権に比べてどうだとかの質問では無いのだから。池田内閣の頃の政権に比べて経済成長率が低いのではとか、田中内閣に比べて公共投資が少なくて不況にあえいでいるのではとか、東條内閣に比べて軍事費の比率が小さいではないかと誰も質問していないのだから。極めつけは文科省の組織ぐるみ天下り問題に対して、法律により新しく再就職(天下り)等監視委員会を設けたから見つけられたの主旨の発言には問題をすり替える天才肌に開いた口が塞がらない。問題は監視委員会の是非を問うているのではなく、確信犯的文科省の悪質性だ。この科白は何のために言ったのだろう。某準大手新聞では民主党時代の方が天下りは多かったと、だから何を許せと言うのか。開いた口はさらに大きく顎が外れてしまう。

野党の体たらくもしかり。対案が無い無責任な反対と罵られた時に、対案はその法律が無い(現状で良い)ことであり、その条項は問題があるから無い方が良い、と考えるから反対だと何故言わぬ。対案を作りに汲汲としておどおどするのはみっともない。そもそも政権交代などと口にするのはオコガマシイ。今の安倍内閣の支持率は50%を超えており、一体今の支持率をどうやって伸ばして追い越すのか。イデオロギーは大差ない(イデオロギーがあるのかどうかも疑わしい)のにやたら小政党が乱立して纏まらないのにどうやって政権交代するのか。

何時も引き合いに出される前政権は気の毒か。そんなことは無い。国民の多くがもう一度と希望を託すには一度は呆れられた重鎮(重珍の間違いだったか)が未だに幅を利かせることがどうしても理解できない。

国会中継はノンフィクションのドラマとして面白かったが今や水戸黄門的出来レースを見ているようで実につまらない。我々は答弁の最中、野次を飛ばす先生方をフジモンと区別がつかないことをご存知だろうか。二階幹事長が野党のヤジを壇上から叱責したが、野党議員の質問の時にも大音量のヤジがある。どっちもどっちだ。国会をヒナ壇議員と思えば諦めもつくが、芸人は自己責任があるが議員は誰のヤジか分からない。品など望むべくも無いが、昔は国会が大混乱する問題提起をする政治家も沢山居たように思う。あの頃ほどの大問題の質問にヤジを飛ばしているとも思えない。政治に進歩、進化はあるのか疑問が湧く。

もはや国会中継を面白くしてくれる役者はトランプ大統領しかいない。いや、この程度で国会論戦が行われている平和を喜べと言われると、反論できない自分がここに居る。


ちょっと一休み

2017-01-23 08:43:34 | 思い出話

人生を振り返って見ると何時の頃を一番憶えているかと言うと小学校に上がる前後のように思う。その頃は田舎に住んでおり四季折々の遊びの思い出は多い。その頃が明確に峻別されているのは後に街に引っ越してしまったから、まるで独立国のように鮮やかである。不思議なことに物ごころがついてからで言うとその期間は20分の1程度にしか過ぎない。勿論大きな出来ごとはそれ以降幾つも有ったが、すべては連続した因果に結ばれたことなので、思い出として部分的に切り出す事は簡単ではなく、記憶として留まるがあれやこれやと懐かしんだりすることも無い。もし、思い出と記憶を分けるとしたら国語と数学のような違いである。

育ったのは瀬戸内に近い山間の村である。山と言っても丘陵に近く手入れ良く耕された段々畑の裾に40戸あまりの家が並ぶ。隣村との距離は歩いて10分程だが、何故か村単位でそれなりの特徴があった。小さな商店が幾つもある村、昔からのお屋敷や倉が並ぶ村、平地に恵まれ、稲作中心の村、比較的山が近く製材所があって林業を営む村などである。私が居たのはそれらの村々のほぼ中央に位置し、一応役場や幼稚園、小学校などがあって比較的多くの人が往来する村であった。決して裕福な村では無かったが、何となく自分達がこの地方の中心であると思っていた。

今思うと相当古い村だった思う。幾つかの屋号で呼ばれる家があった。例えば「たびや(多分足袋屋)」とか「ふだば(札場?)」とかはちゃんと苗字があるのに何故そう呼ばれているのかは子供心には理解できなかった。また、不思議なことに、勿論方言はあるが、外界から隔絶されていたと思うのに、結構物の呼び名とか表現一つにしても標準語が多い事に気付かされたのは大人になってからである。段々畑には春になると濃いピンク色の桃の木が並び、所々に桜の花も咲く。村の前には帯状の僅かな平地があり、稲やイ草が波打つ。平地を挟んだ向かいもまた、なだらかな丘陵地と松林が連なる。ブドウ畑が多いのは向かいの丘陵地である。風景全体が箱庭のようで、黒沢明の「夢」に出て来るワンカットのようである。(大人になって訪ねた時は目の前の平地に立派な舗装道路が走り、近くの国道のバイパスに繋がっていた。箱庭も意外と小さく、面影が殆ど無くなっていたのはショックだったが)。

遊びは中学2年のガキ大将(何故か中2でガキ大将は交代する)を中心とした15~6人のグループで、一番下は私の歳だったから4~5歳である。どの村にも同じようなフループが存在し、どこのガキ大将が一番強いとか噂したっものだった。勿論我が村は近在の中心だから自分の所のガキ大将が一番強いと思っていた。ガキ大将は偉そうにもするが年下の面倒見はとことん良かった。とりわけ私は最年少ということもあったのか随分可愛がって貰ったように思う。どんな遊びでも足手纏いだったのにだ。川でおぼれた時などイの一番に助けてくれたし、遠くの場所へ遊びに出掛ける時も必ず自転車の後ろに乗っけて連れて行ってくれた。甘やかすというのでは無く下働きもきっちりさせられた。釣り餌のミミズ取りの役目はあったし、畑からスイカを頂く時もまずお百姓さんが居ないかどうか身に行く役目などもあった。

春には目の前の田んぼにはレンゲの花が生い茂る。歳の近い小さな子供同士で良くレンゲ畑で鬼ごっこもした。レンゲは30㎝以上の丈があり、赤、白、紫など綺麗に咲いている。このレンゲをところどころ束ねて結ぶ。逃げる方は畑にうつ伏せに寝そべると鬼から見えなくなる。捕まるまいと逃げると結んだレンゲに足が引っ掛かりバタリと倒れてしまう。

山間に水が干上がったすり鉢状の池跡があり、そこが竹林になっていた。ガキ大将が持ち主に一応遊んで良いかと尋ねて許可をとる。空池に生えた竹の天辺近くまで登り、揺らして竹を曲げ中央近くで竹を縛り合う。丁度中心に向かって竹を髪を結うように丸く集める。真ん中に穴が出来る。ここを牢屋と呼んで誰かが入る。小さかったので体重が軽く、登れても竹の先を揺らして中央まで持って行けずあまり役に立たなかったが仲間には入れてくれた。

冬の寒い日はケンパである。そうあのケンケンパのケンパである。ケンパケンパケンケンパは同じであるが小さな女の子が遊ぶのとは分けが違う。超巨大なケンパの絵を描く。2チームに分かれて行う。往復すると、玉を投げて止まった所を自分の陣地として温泉マークを描いて自軍はそこには両足をつけて休むことが出来る。敵はそこを踏む事が出来ない。例えばパの所の片側を敵に取られるとそこはケンで過ぎなければならない。もし両方取られればそこはケンケンでとび越えなければならない。この玉は角のある石とか、四角い大き目の鉄のワッシャとか、ピタリと止まる物が良かった。ガキ大将は短い鎖を持っていた。これなら弾むことなく地面にピタリと止まる。線を踏むとアウトだから猛烈に助走をつけて三段飛びのようにケンパを飛ぶ。自分は小さかったから直ぐアウトになり年上の競技を見物することの方が多かった。

夏は夕方の草野球が定番で昼間は釣りや泳ぎに行った。秋は何と言っても松茸取りである。冬の初めは稲刈りが終わった田んぼに山積みされたモミガラで焼き芋、ちょっと離れた山間の湧水にツララとり。遊びは全てが自然と一体であった。いちちその遊びにちょっとした事件や思い出があるが、今日はここまで。